晴れた空から水滴ひとつ
(瞳子)




――ああ、この人だ。

缶ジュース数本を手に現れたその人を見て、ほんの少し胸がざわついた。




「聖さま!」

突然現れたその人に祐巳さまが驚いた声をあげる。
『聖さま』と呼ばれたその人は綺麗な笑みを浮かべて缶を差し出しながら云った。

「教室の窓から外見てたら、何かいい雰囲気だったから仲間に入れてもらおうと、退屈な授業抜けて出てきた。はい、どーぞ」

缶ジュースの中から、まずは弓子さんに1本選んでもらい、次に私に「どれがいい?」と云う様に笑い掛ける。
コーヒーとウーロン茶とリンゴジュース。
私はウーロン茶の缶を手に取り「いただきます」と缶を開けた。
初めて間近で見た、その綺麗な顔を3秒位見つめて。
けれど私の視線に『聖さま』は気にした風もない。
多分『見られる事』に慣れているのかもしれない。
前白薔薇さまだった事を抜きにしても、この人はとても目立つだろうから。

残った2本のうち、『聖さま』はコーヒーを取り、リンゴジュースを当然の様に祐巳さまに手渡す。
そしてパカン、という音を立ててプルトップを引き開けてコーヒーを飲んでいる。
まるで、誰がどれを選ぶか解っていた様な感じに、何故か見透かされている様な…そんな不快感を感じた。


「景さん呼んできましょうか?」

直ぐにカラにしてしまったらしいコーヒーの缶を持ったまま、弓子さんに云う『聖さま』をウーロン茶を口にしつつ見つめる。

やっぱりこの人だわ。
間違えるハズがない。

あの時、あの雨の日に、祐巳さまに黒い傘を差しかけていた。
そして多分、祐巳さまを励ましただろう人。
遠目に見ても綺麗な顔をしているのが解った。
あの時、祐巳さまは祥子お姉さまから逃げる様に走って行き、偶然その先にいた『聖さま』の胸に飛び込んで行った。

そして翌日、ミルクホールで会った祐巳さまはクラスメイトと笑っていた。

それを見て、無性に腹が立って思わず私は言葉をぶつけた。
…今思えば、あの時の祐巳さまは虚勢を張っていたのかもしれない。
立っていようと必死だったのかもしれない。

でもあの雨の別れの後に、この『聖さま』に慰められたのは間違いないと思う。

雨の中、ずぶ濡れになってうずくまる祐巳さまを立ち上がらせたのは、この人。

そう思うと、胸のどこかのざわつきが増した。


ふいに『聖さま』が私に視線を向けた。

いけない、不躾に視線を向け過ぎたかしら…

そう思った時、『聖さま』はフッと目を細めて笑んだ。

私が祐巳さまの様に百面相している筈がない。
けれど『聖さま』は私が何を考えているか知っているかの様に笑んでいる。
その綺麗な笑みにやっぱり、見透かされている、と思った。

そう思った瞬間、何を?と自問する。

何を見透かされるの?
見透かされて困る何が私にあるのというの?

そんな私に『聖さま』は笑みを深くすると、「そろそろ行くわ」という弓子さんに「M駅でいいですか?」と鞄をヒョイと持ち上げた。
授業は、と慌てる祐巳さまに「つまらない授業より弓子さんと一緒の方がいい」とサラリと云って笑った。

気遣っている、という事を感じさせないスマートな物言いに弓子さんも「それじゃ」と連れ立って歩き出す。


「お気をつけて」

二人の後ろ姿を見送って、ふと見ると祐巳さまが百面相していた。

「…今日はご機嫌がよろしかったようですわね」
「弓子さんと知り合いだったの?」

そのコロコロ変わっていく表情を見ている内に、思わず弓子さんが「病院へ行く」と云っていた事に掛けて祖父の病院の話を出してしまった。
祥子お姉さまのお祖母さまが入院されている、山の麓の小さな、昔の療養所の様な雰囲気を残した病院。
お祖母さまの事は祥子お姉さまから「祐巳には云わないでおいて」と云われていたし、それが無くても私からは云う事ではない事、と思っていた。
けれど案の定、話に食いついてきて、全くの見当違いでもない事を云っている祐巳さまにそこで話を切り上げた。


私が動く事ではありませんわ。
もうそろそろ、誰かが動き出すはず。
優お兄さまや、祥子お姉さまの『お姉さま』の蓉子さまとかが。

ここは、私が出る幕ではないのですから。




漫画研究部から活動スケジュールを受け取って薔薇の館に戻る途中、祐巳さまが梅雨の合間の晴れた空を見上げながら呟いた。

「聖さまと弓子さん、もうそろそろ駅に着くかなぁ」
「ああ…そうですね、もう着かれた頃ではないでしょうか」

そう返した私に、祐巳さまは「あれ?」と何か思い出した様に呟く。
「そういえば瞳子ちゃんは聖さまの事知ってたっけ?志摩子さんの『お姉さま』で、前白薔薇さまだった人なんだけど」
「…ええ、存じてます」
「ああそっか、祥子さまから聞いてたりするか」

祐巳さまが笑う。

確かに『佐藤聖』という人が白薔薇さまだった事はリリアンかわら版で見ていたので知っていた。

でも姿を認識したのは、あの雨の日。

何のためらいもなくその胸に飛び込んでいった祐巳さま。
ただ仲が良いというだけではあんな風には出来ないと思う。

あんな風に、無防備な自分を預ける事など。

「…祐巳さま」
「ん?何?」

胸がざわざわする。

「『聖さま』は、祐巳さまの『何』なのです?」
「へ?」

祐巳さまは不思議そうな目をして口をポカンと開けた。

「何って…何?」

祐巳さまは訳が解らない、という顔をする。
本当に、顔に出易い人だこと。

「……いえ、先程見ていましたら、とても仲がよさそうだったので…他の前薔薇さまともあんな風に仲良しでいらしたのかと思いまして…」
「ああ、そういう意味か。他の薔薇さまにも可愛がってもらっていたよ。でも、なんていうか…聖さまは『特別』だから」

『特別』…?

私は怪訝な顔をしていたのでしょう。
祐巳さまが私を見て「『特別』ってのはね」と、少し言葉を選ぶ様にしながら続ける。


「『特別』ってのはね、うーん、なんて云うのかなぁ…ノリって云うのかな、相性とか…そういうのが合うって云うのかな…」

一生懸命考えながら言葉を紡いでいく祐巳さまに、妙に気持が萎えていくのを感じた。

「それに…結構色々助けられてたりするんだ、聖さまには。祥子さまと気持がちょっと擦れ違った時とかに、落ち込んでたりしてる時に近くにいてくれたり、さりげなく言葉をくれたり…。なんかここぞって時の切り札…うん、そう、ジョーカーみたいな人」

祐巳さまは何かを思い出しているかの様に優しく微笑む。

話を聞いていて…そんな祐巳さまを見ていて、私はなんとも複雑な気持になっていた。


祥子お姉さまと擦れ違った時や落ち込んだ時、近くにいた『聖さま』。
そしてあの雨の日、『聖さま』の胸に飛び込んで行った祐巳さま。
ずっとそれを見ていただろう祥子お姉さま。

そんな祐巳さまと『聖さま』を、祥子お姉さまはどう思っているのかしら。

そして祐巳さまの今の話に、私は何故こんなに複雑な気持になっているのかしら。

「祥子お姉さまという『姉』がいるのに祐巳さまは!」と怒鳴りたいのに、何故かそれも出来ない。

それは今私が感じている複雑な気持のせいかもしれない。

「あ、雨が降ってきた!瞳子ちゃんダッシュ!」


駆け出す祐巳さまの後を遅れて駆け出す。


私は何故こんなに複雑な気持になっているのかしら…?

…fin??



後書き

最終執筆日:20040209
加筆修正日:20040323

瞳子ちゃんです。前出の「暗雲…」の後の話です。
そして多分次の瞳子ちゃんSSは子羊の西園寺家別荘での話になりそう…。
しかし、うちの瞳子ちゃんはズンズン原作から離れて行っている感じが…精進しなくては。とほほ。こんなの瞳子ちゃんじゃないわ…