寂しい気持と、そして


『祐巳ちゃんのお願いなら、喜んで』
「有難う御座居ます!」
『じゃあ明日ね』
「はいっ」

駄目で元々と勇気を出して電話した祐巳は良い返事をもらえてホッと胸を撫で下ろした。






三年生はほとんどの授業が自習となっていて。
だから祐巳はちょっと遠慮しつつも三年菊組の扉を開いた。

「あの…すいませんが…」
「ああ、祐巳ちゃん」

令さまが祐巳を見て手をあげて来て下さった。
菊組の方々は物珍しそうな顔をしている。

「じゃあここじゃ何だし」
「あ、はい」

令さまはクラスメイトの方々に「ごきげんよう」と云うと、祐巳の背中に手を当てて、教室を出た。

…なんだか、時期が時期だけに、噂が飛びそうだな…なんて思ってしまった。
でも、そんな事を気になんてしていられないんだから、今は。

「ねぇ祐巳ちゃん」
「はい」

廊下を歩きながら、令さまが爽やかに笑顔を向けて祐巳の名を呼ぶ。
…本当に、こうして見てると少年のように爽やかな人だ。
でも、それだけの方じゃない。

「やっぱり…内緒にしておいた方が、いいよね」
「……はい。宜しくお願いします」
「ん。解ってる。こういう事は、ね…」

令さまがぽんぽん、と祐巳の頭を撫でた。
ちょっと、心が痛む。
こんな風に頭を撫でてくれる、あの人を思い出したから。

…でも。
今は令さまの優しさに甘える事しか、出来なかった。

そんな自分が、情けないやら、口惜しいやらで…小さく小さく溜息をついた。








「…あら。令に…祐巳」
「ぅわ…祥子…」
「お、お姉さま…っ!ごきげんよう…!」

令さまと薔薇の館でお話していたら祥子さまがいらっしゃった。
…まだ、誰も来ないと思っていたのに…と内心ヒヤリとする。

「…早かったね、祥子。ちょっとびっくりした」
「…ええ…早く清掃が済んだのよ…祐巳」

お茶を淹れるために流し台へと行った祐巳を祥子さまが呼ぶ」

「は、はい」
「…何をビクビクしているの」
「い、いえ…今日は寒いですから早く温かいお茶を…と焦っていたので、そう見えたのではないかと…」

ホントにそう思っていたとはいえ、気まずさも手伝って言葉が震えそうになってしまった。
でも、祥子さまは「そう、有難う」と云って椅子に腰を下ろした。
きっと、納得はなさっていないだろうと思う。
でも、祥子さまはそれ以上何も云わなかった。

それから少しも経たないうちに、由乃さんや志摩子さんや乃梨子ちゃん、瞳子ちゃんが来て、いつもどおりの薔薇の館の時間が始まった…













祐巳ちゃんの様子が、おかしい。
よそよそしい。

一体、どうしたというのか。

大学は休みだ。
でも借りていた本を図書室に返すためと、祐巳ちゃんに逢えたらいいな…なんて考えながら向かったリリアン。
本を返し、銀杏並木を歩いていたら運良く祐巳ちゃんを見掛けた。
けれど、祐巳ちゃんは私に気付く事なく歩いていった。
いや、まるで気付いていながら、声を掛けられるのを拒むみたいにも見えた。



何故か令と一緒、という珍しい組み合わせで歩いていた。
由乃ちゃんは一体どうしたんだろう、と思う。
令と由乃ちゃんの家は隣同志で、いつも大体一緒なのに。
その由乃ちゃんの定位置に祐巳ちゃんがいる。

…何が、一体どうしてしまっているのか。
もしや、由乃ちゃんが体調を崩していて、その見舞いに行くのだろうか。

でも、その予想は外れていた。

志摩子と、志摩子の妹と一緒に銀杏並木を歩いてくる由乃ちゃんを見たから。





その夜。

私は祐巳ちゃんの家に電話を掛けてみた。
用なんて、別に無かったけど。
いや、用ならあった。
明日の日曜、遊ばないか?というお誘いだ。

『はい、福沢で御座います』
「…今晩和、小母様。佐藤です。祐巳ちゃんは…」
『祐巳…は…ああ、ごめんなさいね、佐藤さん。あの子、今お風呂に入っているの』

…小母様の言葉の歯切れの悪さに、私はそこに祐巳ちゃんがいるのが解った。
でも、電話に出る事を拒んだのだ。

「…そうですか。では後でまた掛け直しますね。それじゃ失礼します」

ピ、と携帯のボタンを押して、テーブルに置く。

…なんなんだ?
ほんの少し…いやとても不安を感じてしまう。
一体、どうしたというのか。
私は、何か祐巳ちゃんを怒らせるような事でも、したんだろうか…

よそよそしい、その態度。
祐巳ちゃんと心を通わせてから、こんな事は初めてだった。

そして。
令と一緒だった事も、何故か気になっていた。


…翌日の日曜日も、ぐるぐると考え込んでしまって過ぎて行った。

祐巳ちゃんから電話でも来るかと思っていたけれど…それも無く。
私はどうしようもない気持で一杯になっていった。














月曜の朝。
祐巳はいつもより早めに家を出た。

でもM駅からリリアンへのバスはいつもどおりの混み具合。
やっぱり、考える事はみんな同じなんだな、って祐巳は思った。
自由登校の3年生も、今日は登校している人が多いのではないだろうか。

祐巳は多分もう来ているだろうとタカをくくって教室に行く前に鞄を持ったまま古い温室へ向かった。
昨日の夜、勇気を出してお電話を掛けて、お願いしたから。
…最後の、ヴァレンタインだから。


「お姉さま」

温室の中に、やっぱり祥子さまは来て下さっていた。

祐巳が呼ぶと、ロサ・キネンシスの前に居た祥子さまがくるりと振り返る。
そして「ああ、祐巳」と微笑まれた。

「ごきげんよう。お呼び立てしてしまって…ごめんなさい、お姉さま」
「ごきげんよう。いいのよ、気にしなくて」

祐巳は持っていた小さなペーパーバッグを手にする。
去年、志摩子さんが聖さまにと用意したヴァレンタインのマーブルケーキは白い薔薇をあしらった袋に入れていたという。
それに習った訳ではないけれど、祐巳は紅いバッグにした。
紅は、祐巳にとって祥子さまの色だから。

「去年は、あんな風になっちゃいましたけど…」

去年、令さまから教えて戴いたレシピを元に作ったのは、トリュフ。
形は良いけど味は最悪の聖さま用のと間違えて差し出してしまって焦った結果、『びっくりチョコレート』になってしまった。

祥子さまは、祐巳が差し出したバッグを、本当に嬉しそうに笑って受け取って下さった。
その笑顔は、まるでマリアさまにも似て…祐巳は何故だか泣けてきてしまう。

もう少しで、祥子さまは卒業されてしまう。
その寂しさが、祐巳を包んでしまったから。
来年は、高等部の制服を着た祥子さまは、いないから。

「…どうしたの?祐巳」
「リリアンの制服を着たお姉さまは、来年はいないんだって、思ったら…」
「…莫迦ね」

そう云うと、祥子さまは優しく祐巳の涙を指で拭って下さった。














…なんだか、やる気が出ない。
月曜の朝だから、というだけではなく。

とうとう祐巳ちゃんからはなんの連絡もなかった。
こちらから掛け直せばよかったんだろう。
でも、また出てくれなかったら…そう思うと、携帯を取り出しても、ボタンを押す事は出来なかった。

どうせ、大学は休みなんだから…とベッドの中で丸くなる。

これが、全部夢ならいいのに、と。
祐巳ちゃんが私を拒んだ事も、全て。




…それからどの位経っただろう。
朝食も食べず、多分もう昼食の時間すら過ぎているだろう。
惰眠を貪る私に、夢だけは優しい。
次々に現れては消える、夢。
薔薇の館でみんなでお茶をしている夢だったり、蓉子が怒っていたり…

でも、何故か祐巳ちゃんは現れない。
今一番見たいはずなのに。
なのに、祐巳ちゃんだけを夢は避けていた。

…そして、栞が現れた。
思わず、栞、と名を呟いた。
私の声に反応し、栞は微笑を浮かべる。
あの頃のままの、姿。
今はもう高校3年を終えようとしているはずなのに。
栞はリリアンの制服で、笑う。

…なんでこんな夢を見せるのよ!

そんなに、私は参っているんだろうか。
こんな、幸せだった時間ばかりを夢に見るくらい。
栞を、夢に見るくらい。

目を覚まし、私は天井を見上げる。
こめかみに、涙が流れていく。

「な…んで…こんな夢を見せるかな…私の脳は」

一番見たい、あの子の姿は見せないくせに。


その時、携帯が鳴った。

いつもの私なら、出ない。
でも、この着信音には絶対出なくてはいけない。

何故か、そう思った。

「…はい」
『聖さま?祐巳です』

ガバッ!と私は跳ね起きた。
時計を見ると…授業は終わっているだろうけど、まだ学校にいる時間。

「祐巳ちゃん」

どうしたの、なんて間の抜けた事を云いそうになっていた私より先に祐巳ちゃんがこう云った。

『後で、お伺いしてもいいですか?』




断る理由も筈もなく、私は即答する。

山百合会の仕事を終えたら伺います、と云っていた祐巳ちゃん。
私はベッドから下りて、まずは、とバスルームに向かった。

シャワーを浴びて、きちんと身支度して、さっきまでの怠惰な空気を外に追い出して一息ついた。
コーヒーを淹れて、それを飲むと、大分気持は普段通りのソレに戻っていた。
自分でも現金だな、と思った。

さっきまではグズグズとしていたというのに。
多分祐巳ちゃんが今の私を見ても、さっきそんな風だったなんて気付きもしないだろう。





インターフォンが鳴る。

私は扉を開け、祐巳ちゃんを向かえ入れるべく、玄関へと向かった。




部屋に来て、すぐに祐巳ちゃんは「聖さま、これ…」と差し出してきた。

「…ん?何?」
「あの、ヴァレンタインの…」
「……へ?」

思わずカレンダーを確認。

2月のカレンダー。
今日は月曜…14日。

「…あれ…今日はヴァレンタインだったんだ…」
「令さまにご教授お願いして、作ったんです…去年、聖さまが云っていた甘さ控えめで隠し味に洋酒を効かしたチョコレート…何度も自分で作ったんですけど、どうしても加減が解らなくて…だから…」
「あ…だから土曜に令と一緒だったんだ?」

思わず私はポロリと洩らしてしまった。
その私の言葉に祐巳ちゃんは目を丸くする。

「え?聖さまお休みなのにリリアンに来ていたんですか?」

なんだ、私に気付いていなかったのか…
余程私は自意識過剰だったんだろうか。

「うん、本返しに図書館にね」
「そうだったんですか…ええ、令さまにお願いして教えて戴いたんです」

私は、白いペーパーバッグから、綺麗にリボンをかけたブラウンの箱を取り出す。
中には、チョコパウンドケーキ。

切れているその一切れを口に運ぶ。

「…いかがですか?」

心配そうな祐巳ちゃんの顔を見ていたら、自分の不安が莫迦みたいだな、なんて思った。

「うん、私好み。凄いな、祐巳ちゃん」

あからさまにホッとした顔をする祐巳ちゃんに、ひとつ、気になった事を聞いた。

「…祥子には、渡した?」
「……お姉さま、ですから。私の大好きな…今年で、最後で…」

ぽろ、と祐巳ちゃんの頬に涙が零れた。

「…ごめん、泣かせる気は無かったんだけど…」

私は祐巳ちゃんを胸に引き寄せる。

「ごめん」
「いいえ…いいえ…そうじゃないんです…ただ…寂しくて…ちょっとだけ、寂しくて」
「うん」

解るよ、と呟いた。
自分だって、そうだった。
栞と別れ別れになって、お姉さまはそれまで以上に私を気に掛け、そして愛しんでくれた。
そのお姉さまの卒業が近くなるにつれ、私はなんともいえない寂しさに襲われた。
ひとつひとつ、イベントが終わるたび、私はお姉さまの卒業を意識したから。

だから。

「解るよ」

そう云えた。
解るよ、祐巳ちゃんの寂しさとは、またちょっと違うかもしれないけど。
でも、『寂しい気持』は、解るから。



「…すみません、聖さま」
「いいよ…でもさ、大事な事、云ってくれる?」

きょとん、とする祐巳ちゃんに私はケーキを指差す。

「これくれるって事は、私の事をどう思っているからなのかな」

そう云うと、あ…っ、と声を上げる。

そして、祐巳ちゃんはこう云った。


「好きです…聖さま」



執筆日:20050214


うわはーい
甘くしたいのに甘くないー
って、甘いですか?