a thousand winds





何故、祐巳ちゃんがそれを私に見せようと思ったのかは…わからない。

でも、それは、確実に、私の心の琴線に触れた。










インターホンが鳴り、応対した私は驚いた。

『…聖さま、祐巳です』
「祐巳ちゃん?…ちょっと待って、今開けるから」

今日は別に約束はしていなかった。
いや、約束なんか無くたって祐巳ちゃんなら大歓迎だ。
でも、いつもなら来る前に電話の一本も寄越す祐巳ちゃんにしては、この突然の訪問は珍しい事だった。
時計を見ると、学校からそのまま来たに違いない。

心なしか、元気が無いような声。
何かあったのだろうかと、少し心配になる。

私は玄関の扉を開いて、祐巳ちゃんの顔を見る。
ちょっと、目が赤い気がする。
…一体、何があったんだろう。

「いらっしゃい。さ、入って」
「…あの、これ…」
「?」

差し出されたそれは、書店の紙袋。

「今日は…これを渡しに来ただけなんで…」

これ…本を?

「コーヒーくらい直ぐ出せるよ。折角寄ってくれたんだから、入りなよ」
「……でも」

おかしい。
何かあったに違いない。

「来て直ぐ『ハイ、サヨウナラ』じゃ寂しいよ」

これは本音。
せっかく来てくれたのに、すぐさよなら、ってのはちょっと。

そう云う私に自分でもそれはあんまりかと思ったのだろう、それじゃちょっとだけ…と玄関に足を踏み入れた。




ちょっと砂糖多めのカフェオレを祐巳ちゃんの前に置くと、その祐巳ちゃんの隣に腰を下ろした。
さっき手渡された紙袋を開く。

「…これは?」
「あの、いきなりで申し訳ありません……なんか…聖さまに見せたくなって」
「私に…?」
「はい…ご迷惑かなって思ったんですけど…だけど…」

小さく俯く祐巳ちゃんに、私はその頭を撫でる。

何がどうしたのかは解らないけど…でも、他ならぬ祐巳ちゃんが私に見せたいというのなら、喜んで見させて戴く。

紙袋の中身は、薄めの本で…写真集…という感じか、詩集。
いや、『見せたい』というんだから、やはり写真集か。

表紙は雪原に立つ、一本の白い木と、青い空。


私は、ぱらり…と本を開いた……













短い、詩。

風景写真と共に、一言ずつ、書かれていく、短い詩。









私の頬に、涙が伝っていた。






「…ごめんなさい…」

祐巳ちゃんが、何故だろう…謝った。

「どう、して…?なんで、祐巳ちゃんが…謝るの」
「だって…」
「この涙は、悲しいからじゃ…ないよ?」


そう。
今、私の頬を伝う涙は、悲しいからじゃない。

なんとも云い難い気持。

ただ…何かが、私の心の琴線に触れた…だから溢れ、零れ落ちた。

「私…さっき、本屋さんでこれを見つけて…何気無く手に取って見たら、お店の中なのに、涙が出てきて…『ああ、これを聖さまに見せたい』って、漠然を思って…」
「…そっか」

私は微笑んだ。
涙に濡れた頬のまま。
拭う事もせずに。

「有難う、祐巳ちゃん」










…この本に書いてあること。

それは、『死は終わりではない』という事。


死して魂は風になり。
時に光になり、時に雪になり、時には鳥になり、時に星になり…

だから、墓の前で嘆かないで、悲しまないで。

冷たい石の中で、眠ったりなんかしていない。

死は終わりではない。

風になり、あの大空を…吹き渡っているから。

そして、貴方の傍に息づいているから…と。






私は、自然の中に溶けてしまいたい…ずっとそう思っていた。
でも、それが無理だという事も知っていた。

私は、人間だから。


けれど栞に出会って、私は初めて人として生まれた事を感謝した。
そして、絶望した。

人として生まれ落ちた私は、人として生まれ落ちていた栞と出会う事が出来た。

…けれど、何故私は栞と別個の人間なのだろうかと、思った。
溶け合う事を、望んだ。
ひとつになりたいと、願った。

でも、それは叶わない。
私たちは、人間だから。


そして、栞は私の前から、消えてしまった。
私の身を案じ、愛しみながら。


私はその別れを経て、周囲の私への温かい心を知った。
あの、寒いM駅のホームでお姉さまの、そしてファミレスの前で待っていた蓉子の温かさに包まれた。

私は、人として生きていく。
私は人間だから。

けれど…その息苦しさは相変わらずだった。

人間は、疲れる。
人間は…気持ちが悪い。

そんな感覚が、私の中からは抜け切らない。
自然と、人間の中ではなく、木々へと足が向いた。

そして、私は桜の木の下…まるで鏡で映したかのような志摩子に出会った。
でも、鏡は鏡だ。
手を上げれば、同じ側の手を上げる。
私たちは、触れあう事はない。
一定の距離を置いて傍にいることしか出来ない…でも、それが心地良い関係だった。

必要以上に近付かず、まるで鏡を見ているかのような、そんな距離が。


それに慣れ始めた、そんな、ある日。
私は出会った。


私にとって、息苦しく思う人の中を、軽やかに楽しげに歩く彼女に。

不思議だった。
そして、知りたい…そう思った。

何故、そんなに楽しげなのか。
何故、そんなに一生懸命になれるのか。
何故、そんなに親身になれるのか。

何故…そんなに…


『何故』を知りたくて、傍にいた。
見ていた。
ずっと。


そしていつの間にか、彼女の傍にいる時、不思議と呼吸が楽な自分に気付いた。
その場から逃げ出し、自然の中に溶け込んでしまいたい…そう思う事も少なくなっていた。

彼女の傍は、楽しくて。
温かくて。


それでも、自然を思う事を忘れない私がいる。
だって、木々はいつも私に優しい。
木々に限らず、風も、草も、土も…人間以外のこの世界の生き物は、私に優しく、愛しんでくれた。

でも、彼女はそんな私の心の隙間にするりと入り込んでいた。

そして、手を差し伸べる。
こちらは楽しいと。
温かいと。
優しいと。


そして…私は、その手を取ったのだ。

いや、私が彼女に手を差し伸べていたのかもしれない。
私の手を取ってと、握っていてと。


そして、私は以前のように自然に溶け込んでしまいたいと、思う事が少なくなった。

この世界に、彼女がいる。
私を欲し、笑み、愛しんでくれる…彼女が。
彼女が傍に居てくれるうちは、自然に溶け込んでしまいたいなどとは思わないだろう。
いつかきっと、私たちにも訪れるだろう死が、二人を分かつ、その日まで。
その時はきっと、自然の中に溶け込む事になる…そう、思っていた。




でも、この詩を読んで思った。


死は、別れではないと。

時に風になり、光になり、雪になり、鳥になり、星になり…そうして、残された人を見守っていくのだと。

そして、いつか…その人にも死が訪れた…その時。
また出会うのだ、と。

風になり、この大きな空を、吹き渡る。
一緒に。

この空を…世界を。






「…祐巳ちゃん」
「はい?」

私は、そっとその小さな体を自分に引き寄せた。
祐巳ちゃんは、黙って体を私に預けてくれる。

いとおしい…本当に、どうしようもなく。

「…好きだよ…傍にいさせて」
「聖さま…そうじゃないです」

祐巳ちゃんが、ちょっと怒った顔をする。

「いさせて、なんて、変です。私はずっとずっと聖さまと一緒にいたいんですから」
「祐巳ちゃん」
「この詩みたいに、いつか死んでしまっても、私は聖さまの傍にいます。風になっても、聖さまと一緒にいたいです」

勿論、聖さまがお嫌でなければ、ですが…そう云いながら、祐巳ちゃんが私の顔を窺おうとする。


私は、顔を見られないように祐巳ちゃんを抱きしめた。



うん
そうだね
千の風になって、いつまでも君と一緒に






執筆日:20050330

どうしたんだ松島、と云われそう(苦笑)



参考:
『千の風になって』
新井満/著



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