1番嫌いで1番好き


雨は、嫌い。

あまり良い想い出が無いから。
そして…あの子が辛い思いをしたのも雨の日だったから。








朝から降り続ける雨に祐巳は溜息をひとつ。

薔薇の館の中にいてもザーッという雨の音が聞こえているくらい、多い雨。

「こんな日は髪が湿気を帯びてしまって、嫌ね」

志摩子さんが苦笑いしながら、窓の傍に立つ祐巳の隣に並んだ。

「ホント。ほら、なんだか湿っている様な感じ」
「あら、嫌だわ由乃さん。私、髪の毛の事を云ったのよ?」
「え、そうなの?私はこっちの紙だと思った」

そう云いながら由乃さんが手にしていた資料を指差した。
クスクスという軽やかな笑い声を聞きながら祐巳は暗い空を見上げている。

なんだか、話に加わる気にはなれなかった。

「お茶が入りました」

祐巳と同じように話に加わらず、お茶を入れていた乃梨子ちゃんが云った。

「ありがと、乃梨子ちゃん」
「祐巳さん、お茶にしましょう」

志摩子さんが祐巳の肩にそっと触れて、席に戻った。

「…うん」

その後について席に着いた祐巳に、由乃さんがトントンと資料の束の角を揃えながら「元気無いわね」という。
祐巳はお茶に口をつけながら、由乃さんの方に目を向けた。

「朝から、そんな感じよね、今日の祐巳さんは」
「そんな感じって?」

どんな感じなんだろう…
首を傾げてしまった。

「心ここにあらず、って感じ。蔦子さんに話しかけられてもボンヤリしてたり」
「…そうだっけ?」
「うん」

そうなんだろうか。
自分ではよく解らない。

「…雨降りだからじゃないかな…多分」

きっと。
多分。
雨が降っているせいだ…と、祐巳は思った。







憂鬱な雨。
だから仕事を早々に切り上げて薔薇の館を後にする。
今日はもう帰ろうと云い出したのは由乃さん。
祐巳の事を元気無いとか云っていた由乃さんだって、雨の日は憂鬱なのは同じだろう。

「明日は晴れるといいわね」

志摩子さんがそう云いながら微笑む。
こんな日でも志摩子さんは笑みを絶やさない。

ちょっとだけ、それが出来る志摩子さんが羨ましく思う。
良くも悪くも、祐巳は顔に出てしまうらしいから。

バスに乗ってしまえば後はM駅まで濡れる事がない。
志摩子さんと並んで座りながら、祐巳は溜息をつく。

「…由乃さんの云う通りかもしれないわね」
「え?」

志摩子さんが苦笑交じりに呟く。

「溜息ばかりよ?今日の祐巳さん」
「ホント?そんなに溜息ついてる?私」
「ええ…雨降りはちょっと嫌ね…でも祐巳さんの溜息はそれだけじゃないみたい」
「…そう見えるんだ」

祐巳はボンヤリと志摩子さんを見詰める。
そんな祐巳に、志摩子さんは苦笑する。

「…そっか…自分じゃ全然解んないんだけどな…」

ぽりぽりと頬を掻きながらそう云うと、志摩子さんはお客さんを乗せ終えて閉まる扉を見ながら「そういうものかもしれないわね」と呟いた。
そして「無意識って、あるから」と付け加えた。

「無意識…」

そうなんだろうか。

動き出すバスの振動に身を任せながら、祐巳は志摩子さんを見た。

「ええ。でもね…無意識っていう事は、祐巳さんの本当の気持ちから来るものなのかもしれない、という事だと思うの」
「ホントの気持ち?」
「…多分、の話よ?私の仮説」

志摩子さんはそう云って窓の外に目を向けたけど、祐巳は志摩子さんの言葉を心の中で繰り返した。

『本当の気持ちから来るものなのかもしれない』

無意識についてしまう溜息。

雨以外に、何が祐巳を憂鬱にしているんだろう。
どうして、祐巳は憂鬱なんだろう。

祐巳の『本当の気持ち』とは、なんなんだろう。




「…いい加減、気付いてもいいと思うんだけど?お二人さん」

突然降ってきた声に、祐巳は俯いていた顔を上げた。

「お姉さまこそ。知らないふりで座っていらっしゃったじゃないですか」
「…やっぱり気付いてたんだ志摩子は…」
「だって目があったじゃないですか」

クスリと笑う志摩子さんに聖さまは渋い顔をする。
祐巳はなかなか状況が飲み込めずにボンヤリとその渋い表情をしていても綺麗な顔を見詰めていた。

「どうしたの?祐巳ちゃん?」

聖さまが祐巳に目を移して不思議そうな顔をした。
そこでやっと祐巳は聖さまを見詰めていた事に気がついて「ごきげんよう」と慌てて云った。

「…祐巳ちゃん?」
「けれどお姉さま、今日はお早いんですね。私達、雨だからと早めに切り上げたのでお逢いするとは思いませんでした」
「え?ああ…うん、やっぱり雨だからね…」

珍しい志摩子さんの言葉に聖さまが要領を得ない受け答えをする。

志摩子さんが、祐巳をフォローしてくれているのが、何となく解った。

「…ああそうだ、今日は駅まで車で来たから、二人を家に送ってあげよう」
「え…でも…」
「これも何かの縁だ、遠慮はおよしなさいな」

何の縁なんだろう…
意味の解らない聖さまの言葉に志摩子さんは苦笑しながら祐巳を見た。





聖さまのお申し出を、有難くお受けして、祐巳と志摩子さんは聖さまの車に乗り込んだ。

後部座席に乗ったのは、初めてかもしれない。
運転する聖さまの姿をそんな事をボーッと考えながら見つめる。
いつもは助手席ばかりだから。

そういえば、初めて聖さまが運転する車に乗った時から助手席だった。
去年のお正月、そうと知らずに祥子さまのお家へ伺った時。
あの時から。

聖さまが、ミラー越しに祐巳を見ている。

なんだろう。
ちょっと心配そうな顔。

でも気に掛けてくれてるのが、嬉しかった。




「あ…ここでよろしいです、お姉さま」
「ん。解った」

いつの間にか眠っていた祐巳は、志摩子さんの声で目が覚めた。

「ごめんなさい、祐巳さん…起こしてしまったわね」
「あ…れ?私、寝ちゃってたんだ…?」
「ええ、ぐっすり」
「うわ、ごめん!肩借りちゃってた!」

慌てて体を起こして謝ると、志摩子さんが苦笑しながら「いいのよ」と云った。

「それじゃ…有難う御座いました、お姉さま。ごきげんよう祐巳さん、また明日ね」
「ごきげんよう、志摩子さん。肩、有難うね」
「気をつけてね、志摩子。家に帰り着くまでが遠足だよ?」

何云ってんですか聖さま。

祐巳は首を傾げていたけれど、志摩子さんは聖さまの言葉に微笑んで車から降りた。

そして薔薇の館を出た時よりは小降りになっているような雨に志摩子さんは傘をさして、走り出す車へと手を振った。





「…さて」

車を走らせながら、聖さまが呟く。

祐巳は初めて通る景色を窓から眺めていたけれど、聖さまの方へ意識を向けた。

「いったい、どうしたのかな?」

聖さまが云う。
何だろう、と思わず思う。

「…やっぱり、まだ雨は辛い?」
「え?」

やっぱり?

聖さまの言葉に祐巳は首を傾げた。
どうして聖さまは「やっぱり」なんて言葉を使うんだろう。

「去年の、事だしね…」

ミラー越しに聖さまが優しくて何処か痛みを含んでいる目で祐巳を見ていた。

…あ。

何となく、気がついた。

去年の、出来事。
梅雨の日の出来事。

その事を聖さまは云っている。

気にしている。


「聖さま」
「仕方ないか…祐巳ちゃんには辛い出来事だったもんね」

寂しそうな笑顔がミラーに映っている。

そこで、祐巳はどうしてこんなに朝から気分が沈み気味だったのかが、解った気がした。


聖さまが、寂しそうな笑顔を浮かべるのを知っているから。
雨の日の聖さまは、何故かこんな風に寂しそうな笑顔を祐巳に向けるから。


「…聖さま…車、止めてもらえますか?」
「え?どうして…?」
「お願いします」


そう云う祐巳に、路肩に車を寄せて停車する。

「ちょ…祐巳ちゃん!?」

ドアを開いた祐巳に驚いた声を上げる聖さまを無視して祐巳は外に出た。
慌ててシートベルトを外そうとする聖さまに、祐巳は助手席のドアを開いて乗り込んだ。

「…祐巳、ちゃん?」

呆気に取られている聖さまに祐巳は「慣れないから落ち着かないので」と笑ってみせた。

「驚かせないでよ…」
「ごめんなさい」

そう云いながら、祐巳は聖さまのシャツの袖をちょっと摘んだ。

「…どうしたの?」

祐巳の手を、見詰めながら聖さまが問い掛けてくる。

「聖さまの、傍に近付きたくて」

だって、聖さまは雨の日は寂しそうな顔をするから。
少しでも、傍にいたい。

あの梅雨の日。
聖さまは祐巳に気付いてくれた。
聖さまの胸に飛び込んだ祐巳を、抱きしめてくれた。

傍に居てくれた。

ずっと。
本当に、ずっと。

「祐巳ちゃん…」
「これからも、私の傍にいて下さいね」

他の誰かじゃない、聖さまに居てほしい。

寂しい笑顔じゃない、優しい笑顔が見たい。

「これからも、ずっと」



聖さまが、祐巳の手を包みながら、ゆっくりと微笑んだ。
祐巳の好きな、優しい笑顔で。
思わず雨が好きになれそうになる程の笑顔で。







後書き

執筆日:20040921

うーん…何を書きたかったんだろう…

…志摩子?(おい!)




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