一本橋を渡るように・2
私たちは、ロザリオの授受を交わした姉妹。
それなのに、何故…
令が悲しげな表情で私を見ている。
それすら、私には腹立たしい。
何故そんな顔で私を見るのだろう。
そんなに私は『可哀想』に見えるのだろうか。
そんなに、私は『哀れ』なんだろうか。
妹の変化にも気付けない姉。
なんて滑稽。
けれど…
どうして、私には祐巳の変化が解らなかったのかしら。
志摩子は、祐巳を…聖さまを見ていて、解ったという。
令や由乃ちゃんも二人を見ていて気付いたという。
では、何故私には解らなかったのか。
祐巳の姉の、この私が。
祐巳をいつも近くで見ていた、私が。
…祐巳の心が聖さまへと向かってしまった、その瞬間は…一体いつだったのだろう…
私は、何を見逃していたのだろうか。
◆
私は考える。
祥子は、一体どんな気持ちでその言葉を云ったのだろう…と。
祥子は基本的に、祐巳ちゃんを困らせる事は云わない。
いや、思い切り困らせているけれど、浮上出来ない困らせ方はしない。
そして何よりも、祐巳ちゃんを大事にしているのが、私にだって解る。
だからきっと、無意識に零れ落ちた言葉なんだろう…そう思う。
しかし…『貴方の為にアヴェ・マリアを弾いたなら、またあの頃の様に貴方は私を見てくれるかしらね』…とは。
もし、私が祐巳ちゃんだったとして。
それを云われたなら…困惑してしまうだろう。
そして、それを聞いたら、余程の事がなければ浮上出来ないと思う。
今の祐巳ちゃんは浮上出来ている気がする。
バスに乗っていた時はまだ、上の空って感じだった。
けれど…いつの間にか、いつも通りの祐巳ちゃんになっていた。
私は、祐巳ちゃんを抱きしめている腕をゆっくりと解いた。
それに『どうしたのか』という様な目を向ける祐巳ちゃんに私は微笑む。
そして、その頬にそっと唇を寄せた。
くすぐったそうに首を竦める祐巳ちゃんに、そのまま唇を滑らせて、祐巳ちゃんの唇へ触れるだけのキスを落とした。
まだ、数えられる程の接吻の数。
今、その数をひとつ増やす私は…多分ずるいのだろう。
そして…恐くてたまらないんだろう。
祐巳ちゃんの目を、私に向けさせたままでいたい…たとえ姉の祥子にも向けさせたくない。
姉妹の絆を知っている私なのに、そんな風に思ってしまう。
信じていない訳じゃない。
祐巳ちゃんの気持ちを、信じていない訳じゃない。
でも…これは理屈じゃないから。
たとえそう考える自分に嫌悪を覚えても。
「聖さま…私は聖さまの傍に居ますよ?」
「…え?」
しっかりと、私の目を見据えて祐巳ちゃんが云う。
その、何かを見極めて要るかのような瞳に、思わず見惚れてしまいそうになった。
「さっきもいいましたよね…聖さまが、私の心を温かくしてくれるんです。…そして私の心を乱すんです…」
私の胸に頬を預けながら、ジッと一点を見詰める視線の先にあるのは…本棚。
考え過ぎだろうか。
それとも自惚れだろうか。
祐巳ちゃんの視線の先には『いばらの森』がある気がした。
「…傍に居て下さい…私だけ…」
私は、祐巳ちゃんの頤に手を掛けて顔を上げさせると、そっと囁いた。
「マリア様に誓って」
顔を近付けていくと、祐巳ちゃんはゆっくりと目を閉じた。
いや、マリア様にじゃなくて、君に誓う。
この甘く柔らかな唇に。
◆
「祥子」
自分自身に問答を繰り返す私の肩に、令が手を置いた。
「忘れちゃ、ダメだよ」
「…何をかしら」
「一番、大事なものを…よ」
私は首を傾げた。
大事なもの?
忘れるなって…何を?
令は私から離れてカバンを手にビスケットの扉に手を掛けた。
「令?」
「解らない?」
ドアノブに掛けた手を下ろしてしっかりと私の方に向き直ると、令ははっきりした口調で云った。
「祥子にとって、大事なものをだよ」
「私にとって…?」
「そう。祥子の気持ちは勿論だけど…でも、何より大切にして、尊重しなきゃいけないのは、祐巳ちゃん自身の気持ちでしょう?祐巳ちゃんの気持ちだけは、大事にしなきゃいけない。そして、偽らせてもいけない」
偽らせてもいけない?
それは一体どういう意味なのかしら。
何故私が祐巳に気持ちを偽らせなくてはならないのか。
「祐巳ちゃんにとっての祥子。そして祐巳ちゃんにとっての聖さま。これを考えれば、自ずと見えるんじゃないの?」
そう云うと、令は今度こそビスケットの扉を開き、部屋から出て行ってしまった。
私は令が出て行った扉を、ただぼんやりと見詰める。
私以外誰もいない部屋の中に、令が残していった言葉が漂っていた。
◇
…これ以上は云えない。
これからは祥子が自分で決めなくては意味がない。
令はゆっくりと階段を下りながら、まだ部屋の中にいる祥子へと心の中でそう囁いた。
誰かの思いが叶えば、誰かのが叶わない。
誰か。
前者と後者は、多分もう決定しているのだろうけど。
でも。
それでも、苦しいのは、同じだから。
祥子だけでもない。
祐巳だけでもない。
聖だけでもない。
三人三様に苦しい。
その種類は似ているようで、全くの別物だったとしても。
階段を下りて、外へと続く扉を開いた。
「…令ちゃん」
「待ってて、くれたんだ?」
「何となく、ね」
「寒くなかった?」
「うん。平気よ」
有難う、と云いつつ、令は由乃の隣に並んだ。
サクサクという枯葉を踏みしめる音だけが聞こえる。
そろそろ息も白くなっていくだろう。
「…令ちゃん」
「ん?」
「祐巳さんさ…よく決断出来たよね…」
「…」
祐巳が聖を選んだ事…を云っているのだろう。
選んだ、というのは言葉が悪いかもしれない。
現に、今も祐巳は祥子の妹だから。
姉妹と、恋愛は別物だという事。
けれどそれを混同している人間も、多い。
それは仕方のない事かもしれないけれど。
それ程に、ロザリオの授受というものは特別なものであるから。
でも、祐巳は姉妹の絆と恋愛とをしっかりと分けた。
祥子に抱いていたのは、憧憬。
聖に抱いたのは、恋情。
その線引きがいつ為されたものなのかは、誰にもわからない。
もしかすると、祐巳自身にもわからないかもしれない。
「…きっと、祐巳ちゃんは祥子の事も、聖さまの事も、どちらも大切だからなんだと思うよ…だから…」
「……聖さまを選んだ?」
「その云い方が適切かは、私には解らないけどね…」
間をふらふらするのは、相手を傷付けてしまう事。
どちらも、そして自分をも傷付ける。
でも、それをする人間の方が、多いだろうに…
令は曇り空を見上げる。
空は今にも泣き出しそうだ。
…誰の心模様に似ているだろう。
思わず、そんな事を考えて令は苦笑した。
「令ちゃん…どうしたの?笑って」
「いや、なんだかね…みんなが幸せにってのは、無理なのかなって思って」
「…そんな事もないんじゃない?」
「どうして?」
令は愛しい従妹の顔を見る。
「そう私は思うってだけ。だって、その時は無理だったとしても、幸せにならないと、負けっぱなしみたいで嫌じゃない?」
「…勝ち負けじゃないと思うけど」
「解ってるわよっ!そういう言葉しか浮かばなかったんだからしょうがないでしょ!令ちゃんの莫迦っ」
プンスカ
そういう形容が似合う足取りで由乃がズンズン先を行く。
それに令は「待ってよ由乃ぉ」と苦笑する。
沢山泣いて、沢山苦しんだなら、その分その悲しみや苦しみ以上に幸せにならなくては割に合わない。
令は親友が独り自分の落とした言葉たちの意味を考えているだろう薔薇の館の二階の窓を見詰めて、そして由乃の後を追った。
…to be continued
執筆日:20041017