一本橋を渡るように・3
その人の事を知ったのは、一年生歓迎式。
紅薔薇のつぼみと紹介されたその人はアヴェ・マリアを弾いていた。
憧れた。
あんな人になりたい。
あの人に少しでも近付きたい。
そう、思った。
◆
令の言葉を、反芻する。
『祐巳ちゃんにとっての祥子。そして祐巳ちゃんにとっての聖さま。これを考えれば、自ずと見えるんじゃないの?』
何が、見えるのだろう。
祐巳の気持ちを一番に考えろとも、令は云った。
…それはそうだろう。
祐巳の気持ち次第なのだから。
全て。
祐巳が、誰を選ぶか。
それだけ。
そして、もうその答えは祐巳によって出されている。
『私は、聖さまが…好きなんです…』
祐巳は、聖さまと一緒に歩きたいと…先を歩く聖さまを追い掛けて、追い付いて…行きたいのだという。
…もう、祐巳の中では答えが出ている事。
祐巳は私の事を慕ってくれている。
本当に、本当に慕ってくれている。
それは、祐巳を見ていれば解る。
新入生歓迎式の時に弾いたアヴェ・マリア。
あの時は全ての新入生の為に弾いた。
その曲が貴女を惹き付けたというのなら。
今、貴女の為に…貴女の為だけに弾いたなら。
貴女の心を私に向ける事が出来ないだろうか…
彼女から、貴女の心を取り戻す事が出来ないだろうか…。
往生際が悪い。
そう云われてしまいそう。
けれど、そう簡単に割り切れるものではない。
ロザリオの授受をした、学園祭の夜。
あの時から私の傍にあると思っていた祐巳の心が、いつの間にか違う方向を向いてしまっていたなんて、信じたくはない。
あの梅雨の頃。
離れかけた心は、あの事があってより一層近付いたと思ったのに。
…梅雨。
あの時、走り去った祐巳は何処に行った?
傘も差さずに走った祐巳の行く先に、誰がいた?
いつも、過剰なスキンシップで祐巳をからかっていた、彼女。
からかいながらも、優しい目を向けていた彼女。
祐巳を慰めたりアドバイスをしていたという。
…その彼女が、あの日、あの場所にいて。
彼女を見た祐巳は何の躊躇もなくその胸へ。
あの時、お祖母さまが危険な状態になり、生活の全てをお祖母さま中心に動かしていた。
いつ去ってしまうかしれないお祖母さま。
私は時間残り僅かなお祖母さまへ、私の時間を費やした。
祐巳の表情が翳っていく事に気付きもせず。
いいえ。
気付きながら。
私は祐巳の表情が何かを待っている事に気付いていた。
でも、私は私を可愛がってくれていたお祖母さまを優先した。
祐巳なら、解ってくれる。
祐巳は優しい子だもの、私が何も云わなくても、私を信じてくれる。
けれど。
雨の中走り去った祐巳は、その私の前で、私じゃない人にその身を預けた。
いつも祐巳をからかっていた、あの人に。
いつの間に、あの人は祐巳の信頼を勝ち得ていたんだろう。
いいえ、もちろん私だってあの人を信頼している。
お姉様の親友の、あの人を。
けれど…祐巳は?
いつもからかわれて、それに困惑していた祐巳が、何故あんなに素直に自分を預けられる程にあの人を信頼出来ていたのか、謎だった。
山百合会の仲間だったあの人をそんな風に云うのはおかしいかもしれないけれど、私にはそれが不思議でたまらなかった。
今思えば、祐巳が薔薇の館に出入りし始めた学園祭準備の頃。
あの頃から、何故かあの人は祐巳を気に掛けていた気がする。
人を寄せ付けない雰囲気は幾分和らいでいたものの、それでも自分からあんな風に他人を構う事などなかった人なのに。
妹の志摩子にすら、必要以上には近付かなかったのに。
考えれば考えるほど、謎が深まる。
何故、祐巳とあの人の間に絶対的な信頼感が生まれたのか。
何故、祐巳はあの人に心を寄せたのか。
何故、あの人は祐巳に心を開いたのか。
…祐巳に心を開いた訳は、自分が一番良く解っている。
祐巳だから、だ。
あの子を嫌う者など、いやしない。
贔屓目で見ていると云われればそうなのかもしれないけれど。
あの瞳子ちゃんですら、祐巳に目を向けるようになったのだから。
平凡だ、と云われていた頃が信じられない。
それ程までに、あの子は周りの目を引く。
だから、あの人が祐巳に心惹かれた事は当然なのだろう。
しかも、もしかすると誰よりも早くあの子に魅力に気付いていたのかもしれない。
じゃあ、あの子は?
いつの間に、あの子の心はあの人へ向ってしまったのか。
私ではなく、あの人へと向ってしまったのだろうか。
梅雨の時期のあの出来事は、私と祐巳の絆を強くしたあの出来事は、祐巳とあの人の心をも、近づけていたという事なのだろうか。
◆
どれだけ考えても、答えが出ない事、というものは存在する。
私は、祐巳ではないから。
祐巳には、なれないから。
だから、祐巳の心の中は覗けない。
お姉さまのように、あの人の事は信頼はしている。
けれど、私はあの人に心奪われる事は無かったから。
…あの一年生の頃、同じクラスだった少女になら…祐巳の心が理解出来るのだろうか。
白と黒の鍵盤にゆっくりと指を置きながら、記憶から薄れていた数ヶ月の間だけクラスメイトだった少女の姿を思い返した。
「祐巳さん、祥子さまは?」
由乃さんが祐巳と廊下ですれ違いざまに聞いてきた。
「ううん、知らない…令さまなら知っているんじゃないの?」
「それが解らないから祐巳さんに聞いているのよ。至急祥子さまの返事が欲しいっていう部の人が薔薇の館まで来たんだけど…」
「解った、私も探してみる…薔薇の館へ行くならこれ、お願いしてもいい?」
祐巳は集めてきた部活毎の期末の活動予定を由乃さんに手渡して今来た廊下を回れ右した。
一体、何処にいるんだろう。
こんな事は珍しいかもしれない。
いつもなら薔薇の館であれこれ指示を出しているのに。
「あ、蔦子さん!」
何処かに向けて愛用のカメラのシャッターを切っている蔦子さんに祐巳は声をかけた。
校内を被写体求めて歩き回っている蔦子さんなら、どこかで祥子さまを見掛けているかもしれない。
「どうしたの?祐巳さん。こんなところで」
「祥子さま、見掛けなかった?」
「祥子さまならさっき合唱部の部長と話してたの見たけど?」
「それ、どこ?」
祐巳にレンズを向けて、パシャリとやりながら「美術準備室の前だけど」と蔦子さんは教えてくれた。
「でももういないかもしれないわよ?」
「でも一応行ってみるよ」
ほんの少しだけ小走りに廊下を進む。
途中シスターとすれ違ったから慌ててゆっくりと歩いたけれど、シスターの姿が見えなくなったら、再度スピードアップ。
何事もなければ来年度の紅薔薇さまになるっていう人間がこうではいけないのかもしれないけれど、急ぎの用なので、マリア様には目を瞑って戴くしかない。
…聖さまなら、こんな事気にしなかったんだろうけど。
でも猫かぶりだからなぁ…
去年の白薔薇さまだったあの人を思い浮かべて、思わずそう考えてクスッと笑いが零れてしまう。
たどり着いた美術準備室には、案の定というか誰もいない。
でも、誰か…それこそ合唱部の部長さんに聞けば何処へ行ったか見当がつくかもしれない。
そう思いながら近くにある音楽室へと進んだ。
防音扉を開くと、ピアノの音が聞こえてきた。
アヴェ・マリア…
祐巳は思わず昨日祥子さまが云った言葉を思い出した。
『…アヴェ・マリアを弾いたなら…またあの頃の様に…』
それを云った時の、祥子さまの表情も一緒に思い出されて、祐巳の心は苦しくなる。
大好きな祥子さまの言葉なのに…そう云われても、祐巳の心はあの人から離れる事はなくて。
それが、申し訳なくて。
大好きな『お姉さま』の言葉だから、尚更悲しく…苦しくて。
それなのに、祐巳のそんな気持ちは、聖さまに逢って、手を握ってもらって…抱き寄せられて、口付けられて、ゆっくりと落ち着いていってしまった。
大好きな人に、あんな悲しそうな顔をさせてしまったのに。
でも、そんな祐巳に心が揺れてしまっているんじゃないかと、不安になってしまった聖さまの心配を取り除いてあげたいと思ってしまった。
弱い心を祐巳に見せてくれる聖さまの傍にいたいと、思ってしまう。
祐巳の心は、聖さまを求めてやまなかった。
…to be continued
執筆日:20041102