一本橋を渡るように・4
苦しませたくはないの。
でも、貴方の心が、私に向いてくれたなら…そう願う事は辞められそうにないの。
…たとえ、叶わぬ願いだとしても。
祐巳は、掛けようとしていた声を飲み込んだ。
とてもよく知っている人の、背中。
長い髪が艶やかにその背中を流れていた。
…祥子さま。
アヴェ・マリアを弾いていたのは、祥子さまだった。
思わず、踵を返そうとしてしまう体を叱咤して、足を留める。
祥子さまを探していたのに、どうして逃げようとするのだろう…
え?ちょっと待って。『逃げる』なんて…どうして?
祥子さまが紡ぐ、ピアノの音。
…去年の、新入生歓迎式で聞いたのと同じアヴェ・マリア。
祐巳はあの時、祥子さまをひとめ見て憧れた。
小笠原祥子さま…紅薔薇のつぼみ…
あの時はまだつぼみだった。
…今の祐巳と、同じ。
憧れた。祥子さまの様になりたいって思った。
ひょんな事からお近付きになって、妹になった今だって憧れる気持ちは変わらない。
だって、ホントに素敵な人だから。
慕ってる。
とても。
大好きって思う。
祥子さまの妹になれた事は誇りだし、とても嬉しい。
大切なお姉さまとして、大好き。
けれど…
「…祐巳?」
ぱたん、とピアノを閉じて立ち上がった祥子さまが祐巳を見て驚いた様な目をした。
「…っ、すいません、お姉さまお声も掛けずに…」
「いつからそこに?」
「ついさっきです。由乃さんから、薔薇の館にお姉さまのお返事が欲しいという部の方がいらしているって聞いたので」
何故こんなに祐巳は慌てているんだろう。
まるで悪戯を見つかった子供みたいに。
「ああ…それならさっき合唱部の部長から直接聞いたわ。探しに来てくれたのね…有難う、祐巳」
「いいえ…御用がないのでしたら薔薇の館に戻りましょうお姉さま」
そうね、と祥子さまが頷いた。
何故こんなに祐巳はここから早く出ようとしているんだろう。
まるで…そうまるで、祥子さまに何かを云われるのを避けるみたいに。
「…やっぱり、ダメなのね」
どきん、と心臓が大きく跳ねた。
「何がですか?」なんて、云えない。
祐巳は何も云えずにその場に立ち竦む事しか出来なかった。
だって、祥子さまの表情が、昨日のあの言葉を云った時と同じ表情だったから。
「…どうすれば、祐巳の気持ちが解るのかしらね…もしかすると栞さんになら、解るのかしら」
また、心臓が大きく跳ねた。
栞さん。
久保栞さん。
祥子さまの同じクラスだった人。
一昨年…二学期終了と共にリリアンを去った人。
…聖さまの心に今も住んでいるだろう人。
「いいえ。誰にも解らないわよね…だって、祐巳は祐巳だもの。祐巳の気持ちは祐巳だけのものですものね」
祥子さまが祐巳のタイに手を触れさせて、そっと撫でるように整える。
「私の気持ちが、私だけのものであるように」
ふわ…っと優しい力が祐巳の手を引いた。
そして背中に回る、腕。
抱きしめられた、という事は解る。
でも急な事で、祐巳は何をどう反応していいのか解らない。
「貴方が、好きよ」
耳元で、囁かれる言葉。
『好き』
祐巳だって、祥子さまの事は大好き。
そう…大好き。
だって、ずっと憧れていたんだから。
あの新入生歓迎式でアヴェ・マリアを弾いていた祥子さまに憧れたんだから。
祥子さまみたいな人になりたいって、少しでも祥子さまみたいになれるようにって、ずっと。
……でも。
祥子さまが云った通り、自分の気持ちは自分だけのもの。
祥子さまは、祥子さまの。
祐巳は、祐巳の。
そして、祐巳の気持ちは…
急に抱きしめてきたりセクハラみたいな事してオヤジみたいで。
でもそれは巧妙に引かれた一本の線引きみたいなもので。
それなのに祐巳のピンチには駆けつけてくれて。
過去の傷を今も心の中に仕舞い込んで。
その傷さえ力に変えて立っている。
自分の弱さをもキチンと受け入れている、強い人。
祥子さまの事は大好き。本当に、大好き。
大好き…なのに…っ
祐巳の心を包んでいるのは…
「お…ねえさま…ご…ん…なさい…っ」
祥子さまの腕から逃れて、祐巳はその場にしゃがみこんだ。
もう、どうしようもなくなってしまった。
だって、祐巳の心を占めているのは、あの人で。
祥子さまが大好きなのに、祐巳の好きな人は、あの人で。
「大好き…なのに…お姉さ…まの事…だい…好きなの、に…!」
それだけは、どうしても変えられない。
祐巳は、聖さまが好きだから。
「…祐巳」
そっと、祥子さまが祐巳の髪を撫でた。
その手の優しさが、ツライ。
「莫迦ね…だから云っているでしょう?私の貴方を思う気持ちは私のものだけど、それは誰にもどうする事も出来ない様に、貴方の気持ちも、誰にもどうする事も出来ないって」
祐巳は、顔を上げられない。
祥子さまの手は、髪を撫で続ける。
優しく、優しく。
「…そう…どうする事も、出来ないの…」
祥子さまの声が、震えていた。
◆
どうする事も出来ないって、解っているの。
あの子の気持ちはあの子だけのもの、誰にも変える事など出来ない。
解ってる。私にだってそんな事は。
でも、私の気持ちだって、私自身のものだから。
どうする事も出来ないの。
どうして、こんなにあの子に惹かれてしまったのだろう。
何に対しても一生懸命で、笑顔を絶やさなくて。そしてコロコロと変わる表情。
祐巳の事を考えると、笑顔になる。
お母さまにも「貴方は祐巳ちゃんの事を話す時、とても優しい表情になるのね」と云われた事がある。
そんな事ありませんわ、と云ったけれど。
でも、あの子の事を考えると、気持ちが暖かくなる。
優しくなれる。
―――多分、聖さまもそうなのだろう。
卒業前、高等部在学中の数ヶ月。白薔薇さまだった頃。
聖さまのあの子を見る目は、優しかった。
どうして、とずっと思っていた。
祐巳と聖さまの気持ちを知ってから。
でも、少なくても、聖さまの気持ちは解るような気がした。
祐巳を思う気持ち、は。
どうして祐巳を、なんて私が云うのはおかしい。
だって、あの子に惹かれたのは私も同じなのだから。
私以外にあの子に惹かれない訳がない。
あの子は、素敵な子なんだから。
そして…思ってしまう事は…どうして、祐巳の心に『想いの種』を植える事が出来たのが、私ではなく、聖さまだったのだろう…と云う事。
いいえ。
私だってあの子の心にその種を植えられたはず。
でもその種は私が望む形に育たなかった…だけ。
私の心に植え付けられ、育った想いとは、違う形に育ってしまったという事。
それは、悲しい事だけど。
目を真っ赤にしている祐巳と、薔薇の館に戻った。
志摩子は、何も云わずに紅茶を淹れてくれる。
令も、多分何があったかを察しているだろうけれど、ただポン、と私の肩を軽く叩いて「今日はこれで帰ろうか」と云ってくれた。
それに「そうね」と答えてテーブルの上の資料をトントン、と揃えた。
「祐巳ちゃん、気分悪そうだから、先に帰るといいよ。私は由乃が戻るのを待ってるし。みんなも、先に帰っていいよ」
「…はい…じゃあ…これ片付けたら…」
資料の束を仕舞おうと立ち上がる祐巳に、志摩子が「いいわ、祐巳さん」と制止した。
「でも…」
「いいのよ。明日、元気な顔を見せてくれたら」
微笑む志摩子に、祐巳は申し訳なさそうな顔をした。
…この志摩子の言葉は、前にも聞いた事があった。
そう…あの日。
祐巳がM駅で倒れた時。
…聖さまと、祐巳の気持ちを知った時。
あの時、帰り道で「平気なの?」と聞いた私に志摩子は「祐巳さんが元気になってくれさえすれば、それでいい」と云った。
ふっ、とその言葉が私の中に沁み込んだ。
祐巳が、元気だったら。
祐巳が祐巳らしく、いてくれたら。
祐巳が、笑っていてくれれば…
ああ…そういう事なのね…
とぼとぼと歩く祐巳の姿を遠目に見ながらマリア様に手を合わせた。
マリア様は、ここでこうしてリリアンの生徒を見守っていらっしゃる。
多分、私の心の中の葛藤も全てお見通しなのだろう。
見守って下さっているのだ、自ら答えを導き出せるリリアンの生徒を信じていて下さるのだろう。
…どうか、私が行くべき一本の道を照らして下さい。
その道が、たとえ茨の道でも、貴方の慈悲深き御心で私を見守り下さい…私は、乗り越えてみせますから。
顔を上げて、マリア様に背をむけて、私は祐巳の背中を見ながら歩を進めた。
心なしか、ツインテールも元気が無いように見えた。
その時。祐巳が駆け出した。
その走り方が、あの梅雨の日を思い出させた。
見上げた空は、茜色だというのに。
あ。
祐巳が、立ち止まった、その先。
ゆっくりと振り返った、その人。
茜色に染まった空。
あの時とはそれだけが違っていた。
祐巳がその人の胸に飛び込んでいく。
その人は、驚いた顔で祐巳を受け止めた。
まるで緊張の糸が解けたのかの様に、祐巳が泣いている。
あの梅雨の日の再現のようだった。
その人が…聖さまが、私を見た。
一瞬、キュッと唇を結んで、何かを云う為に開こうとする。
私は、そっと目を閉じて、ゆっくりと頭を下げた。
後書き
執筆日:20041216
3から一ヶ月以上も経ってしまいました…
その間に祥子さまが落ち着いてしまった…(愕然)
もっと荒れる予定だったのに…おかしい。
でも今は祥子さま落ち着いてしまったけど、もしかするとまたどうしようもない気持ちになってしまうかもしれません。
だって、気持ちはどうにもならないものですからね。
簡単に落ち着くような『好き』ではないんです。
祥子さまも、そして志摩子も。←爆弾発言!?