agitato
[アジタート:激情的に]
-事情と情事 祐巳side-





いつまでも、ここにいる訳には、いかない。

祐巳は大きく息を吸って、吐いてから、聖さまがいるリビングに足を向けた。


手櫛で髪を整えただけの聖さまがミネラルウォーターを飲んでいるのが目に入ってきて、一瞬足が止まりそうになるけれど、なんとか足を進ませる。
…まともに、聖さまの顔が見られない。


だから、怒ってると思われたのかもしれない。


「祐巳ちゃん?」
「…なんですか」
「怒ってる?」

でも祐巳はただ「いいえ」と云っただけでテーブルにあった聖さまの本を手に取ると、ソファではなく床に腰を下ろした。
中身は全部英語だけど、でも何かに逃げなきゃ間が持たない。
怒ってると思われても構わない。
だって、どうしたって聖さまの顔をまともに見られない。
かといって、聖さまの側から離れたくない。
それなら怒ってると思われている方がいい。

だって、祐巳はもう、それ以外自分がどうしたらいいのか、さっぱり解らないから。



ゆっくりと、ページをめくる祐巳を、聖さまはソファに座ってただ見つめている。
その視線を首の後ろに感じて、段々落ち着かなくなってくる。

見ないでほしい。
そんなに、見つめないでほしい。
でも、目を逸らされたくはない。
矛盾って、こういう事を云うんだろう。

「…祐巳ちゃん…もうそろそろ機嫌直してよ」

仕方がないな、というように聖さまが云った。

呆れられてる。
どうしようもない、と思われてるんだろうと思うと切なくなってくる。

それでも、祐巳は聖さまの側に居たくて。
でも、顔は見られなくて。

だって…あんな風に云われたら…顔なんて見られない。

聖さまは、まるで見透かしたように『想像しちゃった?』と云った。
まっすぐに、その目は祐巳を見ていて。
どうしていいか、解らなくなって。

今も、解らない。
どうしたらいいんだろう。
このままでなんか、いられる筈、ない。

…なんであんな事、考えちゃったんだろ…

なんで、祐巳はあの写真に祐巳と聖さまを見てしまったんだろう。

正直、似ても似つかない。
聖さまはあんなじゃない。
もっとずっと、綺麗で。
もっとずっと、スタイルだっていい。

祐巳はあんなに可愛くないし、スタイルだって、良くない…

ああもう…段々悲しくなってきた。

どうして聖さまは祐巳を好きだって云ってくれるんだろう。
欲しいって、思ってくれるんだろう。

…祐巳は、聖さまが欲しいよ。
好きで、どうしようもないよ。

綺麗だから、カッコいいから、素敵だから…
でもそれだけじゃない。

『聖さま』という人だから。

だから好き。


好きだから、触れたいのに…触れられない。
それは、怖いから?


祐巳は今、どうしてこんな事してるんだろう。
聖さまに背中を向けて。

呆れられて。
莫迦みたい。





「…もう、やだ」

どうしようもなくなってきて、祐巳は本を床に置いて膝を抱えた。

もう、やだ。
どうしたらいいんだろう、本当に。

きっと聖さまは気付いてる。
だって、いつもそうだから。

祐巳以上に、祐巳の気持ちに敏感な人だから。

だから、きっと…聖さまは祐巳のこのどうしようもない気持ちも、解ってるに違いない。


「祐巳ちゃん」

聖さまの手が、祐巳の髪に触れてきて、そして軽く、クン、と引いた。

「ね…祐巳ちゃん…そろそろ許して」
「……」

許す?
祐巳は別に聖さまを怒ってなんかいない。
許さなきゃいけないような事を、聖さまは何もしてない。

ただ、祐巳が勝手に動揺して、聖さまの顔が見られなくなって、拗ねているような態度を取っているだけ。

…そう、祐巳が聖さまの顔を見られないだけなんだから。

「祐巳ちゃんが、祐麒の隠した本の写真から想像しちゃったのって、祐巳ちゃんと私、だよね?」
「……っ!」

気付かれてるだろうって、解っていた。
でも、それをそのまま口にされてしまって、つい体がビクン、と揺れてしまった。

恥ずかしい…っ
恥ずかしくて、死んでしまいそう…!
そう思いながら祐巳は膝を抱えて、その腕の中に顔を隠す。

このまま、小さく小さくなって、消えてしまえたら…
そんな風に思っている祐巳に、聖さまは優しい声でささやいてくる。

「もしそうなら…私はちょっと嬉しいんだ…だって、それって私を欲しがってくれている証拠だから」

欲しがってる。

その言葉に、祐巳は堪らなくなって目を固く閉じた。
やっぱり、解られている。
もう、どうしようもなく、恥ずかしい。

「…祐巳ちゃん」

きし、とソファが音を立てると共に、聖さまが祐巳をふんわりと抱きしめた。
そして、そっと髪にキスをくれる。

「ね…祐巳ちゃん…私が思っている様に、祐巳ちゃんも私を欲しいと思ってくれてるのかな…」

聖さまが、思っている様に…?
それって、どんな風になんだろう…

「私は、ずっと祐巳ちゃんを欲しかった」

…『ずっと』
その言葉に、ドキンとする。
祐巳だって…聖さまが欲しいって思ってた。

聖さまの側に居たくて。
聖さまに触りたくて。
…抱きしめたくて。

祐巳にだけは、甘えてほしくて。
だって、いつも聖さまは独りで立とうとしているように見えるから。
だから、祐巳にだけは遠慮しないで、寄り掛かってほしくて。



…聖さまは、今どんな目をして祐巳をみているんだろう。
急に気になってきた。


「ね…もっと顔上げて。キス、したいから」

ほんの少し、顔を上げたら聖さまの優しい声が振ってくる。
今…キスなんかされたら…もっと欲しくなってしまいそう。

「……いやです」
「どうして?」

聖さまに触れたい気持ちが溢れてしまう。
きっと。

「我慢出来なくなっちゃう…」

思わず、漏らしてしまった言葉に、聖さまの手がきつく祐巳を抱きしめる。

「顔、上げて」

声が、近い。

「…や」
「祐巳ちゃん」

耳に、聖さまの唇が触れそうなほど、近付いて…息が掛かった。
ぞくりと、背中に何かが走った。

「っ!」
「お願い」

掠れる、優しい声が云う『お願い』に体が揺れる。
聖さまの、『お願い』
祐巳に、顔を上げてと…キスがしたいと、云う。

「もう…我慢出来ないから…私の方が」



そんな声で、そんな風に云われてしまったら…抗うことなんて出来ないじゃないですか。

祐巳は熱い頬にほんの少しの涼しい風を感じながら聖さまを見た。



いつも優しい笑顔を浮かべている聖さまは、何かに耐えるような顔で祐巳を見ていた。

思わず、ドキンとしてしまう顔。

その表情の意味が、今の祐巳にはとてもよく解った。

綺麗な瞳は、潤んでいて。
けれど、耐えるような表情には渇いているような…そんな感じがあって。


今の聖さまの感情に、名前をつけるとしたら……
近付いてくる聖さまの唇を、目を伏せながら待ちながら祐巳はそれを考える。



『欲情』という言葉が、一番当てはまるような気がした。

だってそれは、今、祐巳の中にもある感情だって…そう思ったから。

聖さまが、欲しいって。





…to be continued


20050617


novel top