agitato
[アジタート:激情的に]
-事情と情事 祐巳side-
4
いつまでも、ここにいる訳には、いかない。
祐巳は大きく息を吸って、吐いてから、聖さまがいるリビングに足を向けた。
手櫛で髪を整えただけの聖さまがミネラルウォーターを飲んでいるのが目に入ってきて、一瞬足が止まりそうになるけれど、なんとか足を進ませる。
…まともに、聖さまの顔が見られない。
だから、怒ってると思われたのかもしれない。
「祐巳ちゃん?」
「…なんですか」
「怒ってる?」
でも祐巳はただ「いいえ」と云っただけでテーブルにあった聖さまの本を手に取ると、ソファではなく床に腰を下ろした。
中身は全部英語だけど、でも何かに逃げなきゃ間が持たない。
怒ってると思われても構わない。
だって、どうしたって聖さまの顔をまともに見られない。
かといって、聖さまの側から離れたくない。
それなら怒ってると思われている方がいい。
だって、祐巳はもう、それ以外自分がどうしたらいいのか、さっぱり解らないから。
ゆっくりと、ページをめくる祐巳を、聖さまはソファに座ってただ見つめている。
その視線を首の後ろに感じて、段々落ち着かなくなってくる。
見ないでほしい。
そんなに、見つめないでほしい。
でも、目を逸らされたくはない。
矛盾って、こういう事を云うんだろう。
「…祐巳ちゃん…もうそろそろ機嫌直してよ」
仕方がないな、というように聖さまが云った。
呆れられてる。
どうしようもない、と思われてるんだろうと思うと切なくなってくる。
それでも、祐巳は聖さまの側に居たくて。
でも、顔は見られなくて。
だって…あんな風に云われたら…顔なんて見られない。
聖さまは、まるで見透かしたように『想像しちゃった?』と云った。
まっすぐに、その目は祐巳を見ていて。
どうしていいか、解らなくなって。
今も、解らない。
どうしたらいいんだろう。
このままでなんか、いられる筈、ない。
…なんであんな事、考えちゃったんだろ…
なんで、祐巳はあの写真に祐巳と聖さまを見てしまったんだろう。
正直、似ても似つかない。
聖さまはあんなじゃない。
もっとずっと、綺麗で。
もっとずっと、スタイルだっていい。
祐巳はあんなに可愛くないし、スタイルだって、良くない…
ああもう…段々悲しくなってきた。
どうして聖さまは祐巳を好きだって云ってくれるんだろう。
欲しいって、思ってくれるんだろう。
…祐巳は、聖さまが欲しいよ。
好きで、どうしようもないよ。
綺麗だから、カッコいいから、素敵だから…
でもそれだけじゃない。
『聖さま』という人だから。
だから好き。
好きだから、触れたいのに…触れられない。
それは、怖いから?
祐巳は今、どうしてこんな事してるんだろう。
聖さまに背中を向けて。
呆れられて。
莫迦みたい。
「…もう、やだ」
どうしようもなくなってきて、祐巳は本を床に置いて膝を抱えた。
もう、やだ。
どうしたらいいんだろう、本当に。
きっと聖さまは気付いてる。
だって、いつもそうだから。
祐巳以上に、祐巳の気持ちに敏感な人だから。
だから、きっと…聖さまは祐巳のこのどうしようもない気持ちも、解ってるに違いない。
「祐巳ちゃん」
聖さまの手が、祐巳の髪に触れてきて、そして軽く、クン、と引いた。
「ね…祐巳ちゃん…そろそろ許して」
「……」
許す?
祐巳は別に聖さまを怒ってなんかいない。
許さなきゃいけないような事を、聖さまは何もしてない。
ただ、祐巳が勝手に動揺して、聖さまの顔が見られなくなって、拗ねているような態度を取っているだけ。
…そう、祐巳が聖さまの顔を見られないだけなんだから。
「祐巳ちゃんが、祐麒の隠した本の写真から想像しちゃったのって、祐巳ちゃんと私、だよね?」
「……っ!」
気付かれてるだろうって、解っていた。
でも、それをそのまま口にされてしまって、つい体がビクン、と揺れてしまった。
恥ずかしい…っ
恥ずかしくて、死んでしまいそう…!
そう思いながら祐巳は膝を抱えて、その腕の中に顔を隠す。
このまま、小さく小さくなって、消えてしまえたら…
そんな風に思っている祐巳に、聖さまは優しい声でささやいてくる。
「もしそうなら…私はちょっと嬉しいんだ…だって、それって私を欲しがってくれている証拠だから」
欲しがってる。
その言葉に、祐巳は堪らなくなって目を固く閉じた。
やっぱり、解られている。
もう、どうしようもなく、恥ずかしい。
「…祐巳ちゃん」
きし、とソファが音を立てると共に、聖さまが祐巳をふんわりと抱きしめた。
そして、そっと髪にキスをくれる。
「ね…祐巳ちゃん…私が思っている様に、祐巳ちゃんも私を欲しいと思ってくれてるのかな…」
聖さまが、思っている様に…?
それって、どんな風になんだろう…
「私は、ずっと祐巳ちゃんを欲しかった」
…『ずっと』
その言葉に、ドキンとする。
祐巳だって…聖さまが欲しいって思ってた。
聖さまの側に居たくて。
聖さまに触りたくて。
…抱きしめたくて。
祐巳にだけは、甘えてほしくて。
だって、いつも聖さまは独りで立とうとしているように見えるから。
だから、祐巳にだけは遠慮しないで、寄り掛かってほしくて。
…聖さまは、今どんな目をして祐巳をみているんだろう。
急に気になってきた。
「ね…もっと顔上げて。キス、したいから」
ほんの少し、顔を上げたら聖さまの優しい声が振ってくる。
今…キスなんかされたら…もっと欲しくなってしまいそう。
「……いやです」
「どうして?」
聖さまに触れたい気持ちが溢れてしまう。
きっと。
「我慢出来なくなっちゃう…」
思わず、漏らしてしまった言葉に、聖さまの手がきつく祐巳を抱きしめる。
「顔、上げて」
声が、近い。
「…や」
「祐巳ちゃん」
耳に、聖さまの唇が触れそうなほど、近付いて…息が掛かった。
ぞくりと、背中に何かが走った。
「っ!」
「お願い」
掠れる、優しい声が云う『お願い』に体が揺れる。
聖さまの、『お願い』
祐巳に、顔を上げてと…キスがしたいと、云う。
「もう…我慢出来ないから…私の方が」
そんな声で、そんな風に云われてしまったら…抗うことなんて出来ないじゃないですか。
祐巳は熱い頬にほんの少しの涼しい風を感じながら聖さまを見た。
いつも優しい笑顔を浮かべている聖さまは、何かに耐えるような顔で祐巳を見ていた。
思わず、ドキンとしてしまう顔。
その表情の意味が、今の祐巳にはとてもよく解った。
綺麗な瞳は、潤んでいて。
けれど、耐えるような表情には渇いているような…そんな感じがあって。
今の聖さまの感情に、名前をつけるとしたら……
近付いてくる聖さまの唇を、目を伏せながら待ちながら祐巳はそれを考える。
『欲情』という言葉が、一番当てはまるような気がした。
だってそれは、今、祐巳の中にもある感情だって…そう思ったから。
聖さまが、欲しいって。
…to be continued
20050617