暗雲から光…?
(瞳子)
梅雨の重苦しい空気と共に、祥子お姉さまがクーラーの程良く効いた車内に乗り込んでいらした。
「行って」
祥子お姉さまに云われ、運転手は車を発進させる。
濡れた肩口をハンカチで気休め程度に拭きながら私に向かって微笑んで囁かれた。
「待たせてしまってごめんなさいね、瞳子ちゃん」
「いいえ…でも、よろしいんですか?祥子お姉さま…」
何が、とは云わない。
私はリヤウインドウを遠慮がちに振り返る。
傘も差さぬままの祐巳さまが、車を追って来、そのまましゃがみこんでしまったのが見えた。
その姿に思わず、あっ、と声を漏らしてしまった。
「良いのよ。…聖さま…前白薔薇さまがついていて下さるから」
その言葉通り、小さくなっていく祐巳さまに傘を差しかける人の姿が見えて、そしてその姿は車の進路変更と共に消えた。
消えると同時に祥子お姉さまが小さな溜息をつく。
ルームミラー越しに見ていらしたのかもしれない…多分。
「……祥子お姉さま」
「お祖母さま、待ってらっしゃるわ」
祥子お姉さまがおっしゃった。
ほんの少し浮かべられた微笑みに微かな寂しさみたいなものを感じたのは、気のせいでは無いはず。
窓の外を見ている祥子お姉さまに習う様に、私も窓の外に目を向ける。
どんよりとした雲が気持も重くさせる様な気がして雨は勿論、梅雨時期は好きになれない。
幼稚舎の頃はお気に入りのレインコートや長靴、そして傘を使う為に雨を望んだ時もあったのだけれど。
でも、その雨降りも今では憂鬱なだけ。
もしかすると、祥子お姉さまのお祖母さまの容態が思わしくなくなられてしまったのも、この天候の所為もあるのではないかとすら思えてしまう。
祥子お姉さまのお祖母さまが私のお祖父さまの病院に入院されて、確か1年位になる。
山の麓の、療養所の様な小さな病院。
…入院されたのも、梅雨時期だったかもしれない。
そう思うと殊更に梅雨が厭なものに感じられた。
「…あら?紅薔薇のつぼみじゃない?ミルクホールに向かわれるのかしら」
お昼休み。
いつもの様にいちご牛乳を買いに行ったその帰り、祐巳さまが向かって来るのが見えた。
クラスメイトらしき数人とおしゃべりしながら。
笑いながら。
祥子お姉さまとあんな風に別れて、どうして笑っているの?
そこでふと思い出すのは昨日の雨の中の光景。
前白薔薇さまに傘を差しかけられている祐巳さま。
…祥子お姉さまは今とてもお辛い思いをなさっているのに。
祐巳さまは祥子お姉さまの妹なのに。
祥子お姉さまに選ばれた妹なのに。
…それなのに…
すれ違い様、思わず口から「最低」と言葉が飛び出していた。
それに振り返った祐巳さまは真っ直ぐに私の顔を見る。
初めて薔薇の館で逢った時のおどおどとしている様な、落ち着きの無い様な、そんな雰囲気が見え隠れしていながらも「負けない」とでも云う様な目で。
だから遠慮なく続く言葉をぶつけられた。
祐巳さまは私に云われる筋合いの無い事、と切り返して来たけれど。
筋合いが無い訳はない。
だって昨日あの場にいたのだから。
祥子お姉さまのお辛さを、ほんの少しは知っているから。
――それが言い訳でしかないと、解っているけれど。
「ちょっと瞳子さんったら」
「祐巳さん、行こう」
慌てた様に祐巳さまから離そうとする敦子さんと美幸さんに腕を引かれた時、祐巳さまのクラスメイトらしき方々もミルクホールへと足を向けた。
でも、これだけは云っておかなくてはいけない。
云いたい事があるなら、どうして云わないのかと。
聞きたい事があるなら、どうして聞かないのかと。
いつでも何かを云いたげに、聞きたげにしていながら、大事な事から目をそらして、ただ笑っているだけ。
そんなのはなんにもならないのに。
「やっぱり、祐巳さまは祥子さまに相応しくありませんっ」
そこまで云うと口を押さえられてしまい、引きずられる様にその場から離されてしまった。
祐巳さまから、離されてしまった。
ミルクホールから離れても、祐巳さまの姿が見えなくなっても、しばらくズルズルと引きずられ、教室近くまで来てようやく拘束を解かれて大きく息をついた。
いつもなら中庭で昼食を食べているのだけれど、今はいつ雨が降り出すか解らない梅雨時期。
みんなミルクホールに行ったり、教室で机を移動させたりして昼食を食べている。
教室に戻って、くっつけてあった机に座った途端、大きく息をついて敦子さんと美幸さんが口々に云った。
「もう…何を云うのよ、瞳子さんったら…」
「ホント、驚いてしまったわ。私、まだ胸がドキドキしているもの」
正直まだまだ云いたい事はあったのだけど。
確かにあの場であれ以上云うのは無理だろうし、友人なら上級生に喧嘩を売っている様なあの状況を止める為に引きずってでも引き離すのは至極当然の事だったと思う。
だけど、許せなかった。
祥子お姉さまとあんな風に別れたのに笑っていられる祐巳さまが。
公衆の面前だろうがなんだろうが、云わずにはいられなかった。
何も云わずに黙々とお弁当を食べている私に2人とも目を合わせて肩をすくめた。
「ちょっと瞳子、何やってるのよ一体」
トン、と机に手をつかれて開いていた文庫本から目を上げると、乃梨子さんが私を見下ろしていた。
「瞳子が祐巳さまに喧嘩売ったって聞いたんだけど。紅薔薇さまに相応しくないとか云ったとか」
「……」
「… 瞳子は紅薔薇さまが早く帰ったり休まれたりしていた理由、知ってるんでしょ?薔薇の館まで迎えに来てたりしてたとか聞いたんだから。その事と今回の事って関係ある?」
「…… 乃梨子さんには関係ありません」
文庫本に目を下ろして云う私に乃梨子さんは「確かに私は関係ないんだろうけど」と溜息混じりに呟く。
「でも、それなら瞳子も同じでしょ?祐巳さまが相応しくないとか…そんなのは瞳子が云う事じゃあないじゃない。瞳子が何を知っていようと、結局は祐巳さまと紅薔薇さまの問題なんだから、不用意に騒ぎを起こすのは感心しない」
そう云うと、乃梨子さんは自分の机へと向かった。
その時、予鈴が鳴る。
あと5分もしたら本鈴と共に先生がやってくるだろう。
私は内容が全く頭に入って来なかった、文字ではなくただの記号の羅列でしかなかった文庫本を開いた時のままのページにブックマーカーを挟んでカバンの中に仕舞った。
噂が乱れ飛んでいた。
実際の出来事よりも噂の方がエキサイトしていて、噂の中で私は祐巳さまを平手打ちしたりロザリオを取りあったりしているそうで、それが本当なのか探ってくるクラスメイトや新聞部をかわしながら日を過ごしている。
別に祐巳さまに云った事は後悔などはしてはいない。
けれど …乃梨子さんが云っていた事は時折思い出された。
祥子お姉さまはずっと清子小母さまと一緒にお祖母さまに付きっ切りらしい。
何度も危険な状態になられ、予断がならないらしいと聞いている。
相変わらずの雨。
その所為なのか、なんなのか…気持が重たかった。
あれから一週間以上経った放課後。
私は薔薇の館にいた。
――一体、コレはどういう状況なんだろう…私は何故今ここにいるのかしら…
隣の席に座っている祐巳さまは「ねえねえ」と制服の半袖部分を指でつまんで引いている。
あの日、お昼になって朝からだらだらと降り続けていた雨が一時的になのか、ピタリと止んだ。
そんな時、教室にいた人達が急にざわついた。
「――松平瞳子さん、いらっしゃる?」
雨が止んでいる中庭。
石畳の上に立ち、衆人環視の中。
私は思わず「はぁ?」と、素っ頓狂な声をあげてしまっていた。
…一体なんなのかしらこの人!?
わからない、全然わからない。
しかも山百合会の手伝いをしてくれとか云っている。
「期間限定、一学期いっぱい。無報酬、お茶飲み放題。どう?」
……結局、祐巳さまに押し切られたのか流されたのか何なのか、私は山百合会の仕事を祥子お姉さまが戻られるまで、という期限付きで手伝う事になってしまったのだ。
それにしても。
つい一週間前の、あのいじいじうじうじは何処に行ったというの?
どうにもたまらず、薔薇の館を飛び出したら祐巳さまが追ってくる。
祐巳さまの側にいると調子が狂う…だから一人になりたくて薔薇の館を飛び出してきたのに。
ついてくるなと云ってもついてくる祐巳さまを意地になって振り切るのもおかしいかもしれないし、そのまま放っておくけれど。
祐巳さまは、あのうじうじが嘘の様に元気になっている。
…あの時、祥子お姉さまが「前白薔薇さまがついていて下さるから良いの」と云っていたけれど…前白薔薇さまの所為で祐巳さまは元気になったのかしら。
祥子お姉さまは、いないのに。
お姉さまはまだ、いないのに。
思わず溜息をつく。
けれど…私の気重はなんだったのだろう。
ほんの少し、あの気持の重さは消えていた。
…それに取って代わる様に奇妙な感覚が私の調子を崩していたのだけど。
私の調子を崩してくれている『元凶』が、大学部敷地内の噴水に向かって駆け出す。
「ちょっと、祐巳さまっ」
思わず後を追い掛けながら、先程と立場が逆になっている事に気付く。
小さい子供の様に駆けていく姿に呆れながら、ほんの少し、ほんの少しだけこういうのも良いかも、なんて思う自分がいる。
追い掛けたり追い掛けられたり。
そんな関係。
何度も云うけど、ほんの少しだけだけど。
fin
後書き
執筆終了日:20031104
今更ですが瞳子ちゃんスキーが昂じて『パラソルをさして』の一場面を瞳子ちゃんverで書いてみたんですけど…
な、なんかゴメンナサイって感じ…あわわ、ゴメンナサイ(泣)
なるべく『パラソル』の雰囲気毀したくない毀さない様に…と思って書いたんですけど…難しいですね…私の底の浅さが解ります(苦笑)
こんなの瞳子ちゃんじゃないわ…
でも瞳子ちゃん話はまだ書く予定です…可南子ちゃんっていうライバルも現れた事だし。
頑張れ負けるな瞳子ちゃん!
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