抱きしめたい
(祐巳)





あの人はいつでも祐巳を気に掛けてくれた。
いつでも祐巳を助けてくれた。
笑い掛けてくれた。

そんなに優しくされたら、単純な祐巳は勘違いしちゃいますよ?
それでも、構いませんか?






カーテンも閉じていない部屋の中。

祐巳はベッドの上に座り込んで、とある本を読んでいる。
月明かりが差し込んでいて、明かりをつけなくても充分明るい。

それに、なんとなく、明かりをつけるとか、そんな気分じゃなかった。


去年、聖さまが書いたのではないかと噂になった、須加星の『いばらの森』。
本当は春日さんという方の書いた小説。

祐巳は部屋に入るなり、それを手に取った。

ページをめくっている手が、段々と震えてくる。
ポタポタと、涙が頬を伝って顎から落ちているけれど、拭う事もしないでページをめくっていた。



『だって、似ているじゃない、私に』

あの時、さらりと云ってのけた、聖さま。

勿論、あの時聖さまは『違う箇所も多々あるし、ドキリとするほど重なる部分もある』と云っていたから、この本の全てを聖さまに重ねるのはイケナイ事だと思う。

…でも、この『いばらの森』のセイの様な激しさを、聖さまも持ち合わせているだって事を祐巳は知った。

春日さんは17歳の時、佐織さんと別れてしまってからもずっと…本当に長い間ずっと、佐織さんへの思いを胸の中のいばらの森に仕舞い込んでいたんだろうと思う。

聖さまの心にも、今も栞さんが住んでいるんだろうと思う。

だからきっと、誰も聖さまの心に触れる事は、許されないんじゃないかって、思った。

人の気持は多分そんなに簡単な物じゃないと思うから。
簡単に消えてしまう気持なんかじゃないと思うから。




…溢れてくる涙は、本を読んでいるからなのか。
祐巳には解らない。




聖さまは祐巳に優しい。

困った事や哀しい事があったりすると、必ずと云っても良い位、側にいて助けてくれたり慰めて背中を押してくれた。
それに甘えてしまっている事は自分でも解ってた。


聖さまの邪魔にはなりたくなかった。
甘え続けている祐巳をいつの日か、聖さまは呆れてしまって、嫌われるんじゃないかって、思った。

それを云ったら、聖さまはいつもの様なオヤジな感じじゃない、真面目な…本当に怒った顔をした。

「私が祐巳ちゃんを邪魔に思う訳ないじゃない。それに私が祐巳ちゃんを嫌うなんて…絶対ありえない」

絶対ありえない、とまで云ってくれた聖さま。

でもその後、聖さまはまたあの表情を祐巳に見せた。
…最近の聖さまは、祐巳を苦しそうな、痛いような、そんな表情で見る事が多くて。
見られている祐巳まで、苦しくなってくる。

あの時だって祐巳をそんな風に見て…
そして、運転席から身を乗り出して、助手席の祐巳にゆっくりと近付いてきた。



祐巳は、近付いてきた聖さまに、当たり前の様に目を閉じた。

唇に、柔らかな何かが触れた。
それが聖さまの唇だって事は、すぐに解った。
だって、聖さまの綺麗な顔が近付いてきた時、解ったから。
キスしようとしてる、って。

祐巳の、ファーストキス。


以前、聖さまの卒業式の前日、祐巳は聖さまの唇のすぐ側の頬にキスをした。

それはお餞別の、キス。

別に唇へのキスでも嫌じゃ無かった。
でも、ちょっぴり背伸びして、唇を外れた頬にチュッっていうパフォーマンスが、あの時の祐巳に丁度良かったのは確か。


でも、今日のは違う。

聖さまの唇が、祐巳の唇に、ほんの少し…ほんの数秒、触れた…初めてのキス。

目を開くと、聖さまの泣き出しそうな笑顔。

そして、少し掠れた「ごめんね…」の言葉。



…バサッ

とうとう祐巳の手から本が落ちた。
祐巳は両手で顔を覆う。

「…せ、い…さま…」

涙が、とめどなく流れる。

あのキスで、思い知ってしまった。


…嫌じゃなかった。
唇には今も聖さまが触れた感触。

どうしようもないくらいの、愛おしさ。


祐巳は、聖さまを好きなんだって事を思い知った。


お餞別のキスだって、あの時の祐巳に自覚は全く無かったけど、もしかしたら聖さまを好きだったからかもしれない。

嫌われたくない。
邪魔になりたくない。
側に置いて欲しい。
側にいて欲しい。

どうしよう。
胸が苦しい。

全部が聖さまへ向かう感情。

ねぇ聖さま、どうして祐巳に優しくしてくれるんですか?


まだ聖さまが卒業される前。
寂しいと思っていると、必ず現れて後ろから抱きしめたりした。
泣いて飛び出したら追い掛けて来てくれて、慰めてくれた。
困っていると、さりげなく助言してくれた。
倒れて、保健室で泣いていたら、かばんを持って現れた。

「祐巳ちゃんになりたいって思った」なんて云ってくれた。

卒業してからも、それは変わらない。
雨の中、あんな小さな声にも振り返ってくれた。
抱きしめてくれた。
祐巳の様子がおかしいと気付いて声を掛けてくれた。

他にも沢山、聖さまは祐巳を見ていてくれて、助けてくれて、励ましてくれて…

「聖さま…っ」

どうしよう。
涙が止まらない。

どうして、寂しそうな目をするんですか?
どうして、泣きそうな目をするんですか?
どうして祐巳に、そんな表情を見せるんですか?


どうして、祐巳にキスしたんですか…?



口付けて、ごめんねと云った聖さまの泣き出しそうな顔を見て、祐巳は聖さまを抱きしめたかった。

どうして謝るんですかって。
謝らないで下さいって。

今なら言えるのに。
今なら、抱きしめられるのに。

祐巳は自分の体を抱きしめる。


聖さまに逢いたい。
さっき別れたばかりだけど。
でも、逢いたい。

だけど、祐巳はそうして聖さまに逢ったとして、どうするんだろう。
何を言うつもりなんだろう。

聖さまの声が聞きたい。
優しい声で名前を呼んで欲しい。
祐巳ちゃん、って優しい声で呼んで欲しい。
そして祐巳に向って微笑んで欲しい。


「聖さま…逢いたいです…」


多分、何も云えない。

でも今はただ、聖さまに逢いたかった。




後書き

執筆日:20040712

「…どうすればいい」は聖さま。
こちらは祐巳です。

まだ何も云えない、でも逢いたい。

そんな気持ちって確かに存在します。
どうしようもない、そんな気持ち。

これって、理屈じゃないし。

次は周囲の人間も絡んでくるかと。
世界は二人だけのものじゃないですから。



MARIA'S novel top