愛しさと哀しさと悲しみを胸に抱いて
〜かなしさをむねにいだいて・4〜
(聖祐巳)
貴方大物よ?
この私にやきもちやかせるんだから。
私は以前、祐巳ちゃんにそう云った事がある。
そう云って、肩を抱いて祥子の元へとあの時は急いだ。
心身ともに、疲れ果てた妹の元へ。
けれど、今日の私は、可愛い妹の他に、親友と、孫の為にここに立っている。
いいえ、私の為でもある、きっと。
あの日…丁度一週間程前の、聖からの電話。
要領を得ない、穴だらけの会話。
何にそんなに動揺していたのか。
何をそんなに恐がっているのか。
それだけが解った。
そしてその原因が祐巳ちゃんである事。
自分はいいから、祐巳ちゃんを守ってくれ、なんて…
一体、何が起きるというのか。
けれど、今朝、妙な胸騒ぎを感じた。
そんな予感なんて、普段なら気にしない処だけれど、私は大学の講義を終えてから、バスに飛び乗った。
真白なマリアさまが私を見下ろす。
哀れな私たち…いつでも迷い続けている私たち…そして弱くて強い私たちをどうか見守っていて下さい……そう思いながら手を合わせた。
数カ月前の、まだ制服に袖を通していた頃の様に。
マリア様の前から離れると、見慣れたツインテールが目に入った。
…どうして今、ここに?
「祐巳ちゃ…」
名を呼ぼうとした時、そのツインテールフワリと揺れた。
その小柄な体が力なく倒れていく。
「祐巳ちゃん!」
駆け寄って、地面に膝が付く瞬間に抱きとめた。
「…蓉子さま…どうしてここに…」
「祐巳ちゃんこそどうしたの!顔が真っ青じゃない!」
「私は平気です…それより、早く薔薇の館へ行かなくちゃ…聖さまと祥子さまが…」
「…聖と祥子…?」
胸騒ぎが、した。
■
…涙が止まらない。
いつの間にか、祥子さまと志摩子さんはいなくなっていて、ここには聖さまと、聖さまの胸で泣いている祐巳だけになってしまっていた。
「祐巳ちゃん…」
聖さまが、祐巳の背中を優しく撫でている。
手が、ごめんね、と云っている。
待たせてごめんね、と囁いている。
思わず祐巳は握っている聖さまの服の裾を更に握りしめる。
置いて行かれたくない…そう思った。
「…どうして、全然逢ってくれなかったんですか…?」
祐巳は、聖さまに逢ったら聞こうと思っていた事を聞いた。
まるで避けられていたかのように逢う事が無かった一週間。
「…あんな事、しちゃったから…合わせる顔が無かったって言うか…ううん、ただ私が臆病だっただけ」
「臆病…?」
「うん。祐巳ちゃんが、私を避けるんじゃないかって、思ったりね」
苦笑する聖さまに祐巳は顔を上げた。
「聖さまが私を避けていたんじゃないですか」
「…うん、そうだね…」
ごめん、と聖さまは祐巳のおでこにおでこをくっつけた。
そして「熱がある」と呟く。
聖さまの綺麗な顔が間近にあって、祐巳はどきどきする。
長いまつげが、祐巳に触れそう。
すると、何やらハッとした様に聖さまは祐巳から離れた。
頬が赤い。
「…帰ろうか。家に誰かいる?」
「あ、はい…」
ふら付く体を聖さまに支えてもらいながら、ベッドから降りると、聖さまは祐巳をギュッと抱きしめた。
「聖…さま…?」
「…明日」
「え?」
「明日…祥子ときちんと話すから…」
祐巳は先ほどの祥子さまを思い出そうとした。
祐巳を心配そうに見ていてくれたのに…その時の祥子さまの顔を祐巳は思い出せない。
目が覚めて、確かにお顔を見たのに。
でも、ドアに手を掛けた聖さまの姿を見たら…
「祐巳ちゃんは、きちんと体調を整えて、それから学校に来る事。いい?」
俯いて祥子さまの事を考えていると、聖さまがそう云った。
聖さまは祐巳の手を引いて、医務室らしき処を出た。
それから、聖さまは何も云わず、ただ、祐巳の手を握っていた。
聖さまに連れられて乗せられたタクシーの中でも。
◆
どうしてここに、お姉さまがいるのだろう。
それに祐巳も。
「…聖さま…貴方が呼ばれたのですか…?」
自分と同様に驚いた目をしている聖さまに思わず問うた。
「いいえ、違うわ、祥子。私は祐巳ちゃんに呼ばれたの」
肩で息をしている祐巳を椅子に座らせると、お姉さまは真っすぐに私を見てそう云った。
「祐巳、に…?」
「…そう、祐巳ちゃんが私を呼んだの。何か予感がして、リリアン前でバスを降りたら…マリア様の側に祐巳ちゃんがいたわ」
「…祐巳ちゃん…どうして…」
聖さまが祐巳を見ている。
側に駆け寄りたいのを、我慢している。
祐巳の顔色は真っ青で、本当はここまで来るのもやっとだったに違いない。
そんな祐巳の姿に私も、どうしようもない気持になる。
「祐巳ちゃんはね、聖。貴方と祥子が今日ここで話すと聞いて、いても立ってもいられなくてここに来たんですって。その為に病院に行って、点滴を受けて。祐巳ちゃんだって、当事者なの。それを貴方達だけで話をして、どうなるっていうの」
呆れた様に云うお姉さまに、聖さまは苦笑する。
「確かに、蓉子の言う通りだ…ごめんね、祐巳ちゃん…」
「…いいえ…聖さま」
聖さまは祐巳に向かって微笑む。
祐巳も、聖さまに微笑みかけた。
でもその笑顔は互いを気遣う為の笑顔。
聖さまは、そうする事で少しでも祐巳の気を紛らわせようとしている。
祐巳は、笑む事で聖さまを安心させようとしている。
…こんな時でも、聖さまも祐巳も、相手の事を気遣っている…
そんな二人の様子に、言い知れぬ怒りが込み上げる。
一体、何なの?
…そう思う、余裕の無い自分が嫌だった。
でも、こんな風に目の当たりにすると、自分の正直な感情はどうする事も出来ない。
志摩子を妹に望んだ時…
確かに『何か』が違うという感じはあった。
でも、先に申し込んだのは私で。
なのに、聖さまは私の前から志摩子を連れて行った。
今度は、私は祐巳まで奪われてしまったというの?
この、目前にいる、『佐藤聖』という人間に、一度ならずも二度までも!
「…っ!」
怒りは、もう抑えられない処まで来ていた。
体が勝手に動き出す。
お姉さまが、ハッとした顔で私を見た。
「祥子!」
パン!
「……つぅ…」
聖さまは、解っていただろうに、黙って私の平手を受けた。
「聖さま!お姉さま…っ!」
祐巳が私と聖さまの間に駆け込んで来た。
まるで、聖さまを庇うかの様な祐巳に更なる怒りが込み上げた。
「祥子!やめなさい!」
振り上げた手をお姉さまが掴んで止めた。
「いいよ、蓉子…こんな事くらいで気が済むんなら」
「聖さま…!」
涙声の祐巳が聖さまを呼ぶ。
それに「大丈夫」と微笑む。
「いい加減にしなさい!」
お姉さまが声を上げた。
「貴方達は、自分が楽になる事や、逃げる事ばかりだって事に気が付いていないの!?」
お姉さまは聖さまと私を交互に見、あからさまに溜息をついた。
「聖。貴方は祥子に責められる事を望んでいるでしょう?そして祥子。貴方の妹は祐巳ちゃんよね?貴方は、怒りをぶつけるだけじゃなく、祐巳ちゃんと話をしたの?」
「…お姉さま」
「何故祐巳ちゃんが聖に惹かれたか、知ってるの?」
「…それは…」
お姉さまはまた、ふう、と溜息をついた。
「責められれば、自分がそれだけ楽になるわよね。怒りをぶつけるだけで、何も聞かずに逃げるだけなのも、自分にとって都合がいい、楽な方法よね。でもそんな事だけでいい訳?間に立っている祐巳ちゃんをどれだけ苦しめているか、考えた事はあるの?…人の想いなんて、やっかいな物よね…自分でもどうにも出来ないんだもの」
お姉さまの言葉に先ほどまで感じていた怒りが萎えた。
「ごめんなさい…聖さま…お姉さま…」
祐巳がぽつり、と呟いた。
「祐巳ちゃん…」
聖さまが祐巳を見る。
その頬は赤い。
「お姉さま」
祐巳が、真っ直ぐに私の前に立つ。
「私は、お姉さまの事が本当に大好きです…ずっと、ずっと憧れていて、妹になれた時、天にも昇る気持ちだった事は今でも鮮明に覚えています」
静かな…とても静かな口調。
こんな風に面と向って云われるのは、初めてかもしれない。
…いいえ、お祖母さまのお部屋で、聞いた事があった。
『貴方が好きなの』
…そう私は祐巳に心を打ち明けた。
祐巳を失う事が、どれだけ私にとって辛い事か、解ったあの時。
好きなの、と云った私に、祐巳は微笑んだ。
『私も、お姉さまの事が大好きです』
祐巳は私にそう云ってくれたのだ。
今、祐巳から聞いた言葉は、あの時となんら変わらない様に思えた。
「…でも」
祐巳は溢れ出す涙が頬を濡らしていくのも構わず、私を見据えたまま、云った。
「でも…私は、聖さまが…好きなんです…」
その聖さまを『好き』なのと、私を『大好き』なのでは、何が祐巳の中で違うのだろう。
…重み…?
私が祐巳に云った『好き』と、祐巳が聖さまを『好き』と云った言葉の重みはとてもよく似ている気がした。
けれど…私を『大好き』と云った言葉とは、何故か違う気がした。
何処が、なんて事は云えない。
ただ漠然と、違う言葉の重み…
ふらり、と祐巳の体が揺れた気がしたとほぼ同時に、聖さまが動いた。
「…っ、もういいから、祐巳ちゃん」
「聖さま…大丈夫です…」
倒れそうになった祐巳を支える聖さまの腕をつい、っと押し、祐巳は自分の足で立つ。
「お姉さまには、これからも色々教えて戴きたいです。本当の妹の様に、指導して戴きたいんです」
そう云って、祐巳は隣に立つ聖さまに視線を向ける。
「でも…聖さまとは、一緒に歩きたいんです…先を歩く聖さまに小走りでもいいから、追い掛けて、追い付いて…そんな事を繰り返して繰り返して…一緒にいきたいんです」
「…祐巳ちゃん…」
聖さまが、呆然と祐巳を見詰めている。
初めて、祐巳の告白を聞いた、という顔。
この二人は、まだ告白しあってはいなかったの?
そんな祐巳に、聖さまは喘ぐように、言葉を紡いだ。
「私は…ずるくて、弱いよ…?」
「構いません。ずるくても、弱くても…それでもいいんです。聖さまが聖さまでいて下さるなら」
「…何かあっても、守ってあげられない時もあるかもしれないよ…?」
「私は、守って貰いたいわけじゃ無いですから…一緒に歩きたいだけです」
祐巳の言葉を聞いて、夏の別荘での事を私は思い出した。
『私は祐巳を守れない…!』
あの時、そう思った。
けれど、あの時の祐巳は守られるだけではない、自分から戦いを挑んでいく事を選んだ。
西園寺の家での誕生日パーティー。
堂々と、好奇の目の中で、おばあさまの為に『マリアさまの心』を歌った。
その歌は、おばあさまの心をも開いた。
守られるだけじゃなく、一緒に戦いたい。
一緒に歩いていきたい。
今も、祐巳はそう云っている。
けれど…その相手は私ではなく、聖さま。
…でも、今の私では、それに何も…何も云えない…
そう、思った。
それ程までに、この二人の想いは深いのかもしれない。
私が知らない内に…
もしかすると、お互いに知らない内に…誰も気付かない内に育まれたものなのかもしれない。
先ほどまでの苛立ちは嘘のように無くなっていた。
不思議なほど、心が凪いでいる。
だけど…だけど、私は…私だって…
「…祐巳」
名を呼ぶと、祐巳は聖さまから視線を外して、私に向き直った。
「祐巳…私は、貴方が好きなの……これは、前に云ったから、解っているわね…?」
「…はい」
「そして、貴方は一年以上私の妹として、私の側にいたんだから、私の性格も解っているわね?」
「…はい…」
チャリ…
微かな音を立てて、祐巳は自分の首に下がっているロザリオを外した。
「祐巳ちゃん…!」
それを差し出そうとする祐巳に、聖さまが息を飲んだのが解った。
その聖さまとは反対に、お姉さまが苦笑したのが解った。
やはり、お姉さまには既に私がどうするか解っていたのかもしれない。
差し出されたロザリオを手に取ると、私はそのロザリオを祐巳の首に掛けた。
「…!」
「…まだまだね、祐巳ちゃん」
お姉さまが苦笑しながら祐巳に言う。
「…どうして…」
祐巳が呆然と私を見詰める。
「やっぱり、まだ私を解っていないのね、祐巳。私は、負ける事が嫌いなの」
聖さまが合点が云ったというように、詰めていた息を吐き出して、前髪を掻きあげた。
「覚えていらっしゃい、祐巳。必ず貴方に私を『好き』と云わせてみせるから。そして聖さま。いつか、祐巳を取り戻しましてよ?」
「え…、ええ!?」
祐巳が声を上げる。
と、同時に立ちくらみを起こして聖さまに支えられる。
「祥子には、負ける訳にいかないからね…心しておくよ」
◆
聖は、祐巳ちゃんをつれて薔薇の館を出て行った。
気力だけでここに来た祐巳ちゃんは限界を向え、聖の腕に支えられたまま、眠りに落ちていった。
その祐巳ちゃんをいとおしげに、眩しそうに見詰めるとビスケットの扉へと向った。
「…祥子」
「なんですか」
「…私は負けないから…手離すつもりなんて、無いから」
「望む所です」
聖は、祥子の言葉に微笑んで、祐巳ちゃんを抱えて出て行った。
あとに残ったのは、私と祥子。
「…祥子」
「…はい」
いらっしゃい、と手を差し伸べる。
それにゆっくりと近付いてくる。
「…よく、頑張ったわね」
「…っ…お姉さま…っ!」
こらえていたんだろう、祥子は堰を切ったように涙を流し出した。
祥子を胸に引き寄せて、ゆっくりと、その長い髪を撫でた。
「…痛かったでしょう…?」
聖を平手打ちした、その手を取って囁く。
「人を打てば、自分も痛いですもんね……手は、人を打つ為にあるんじゃない…人を愛しむ為にあるんだから」
祥子はどうしようもない、というように泣いている。
その背中を、髪を、ゆっくりと撫でた。
私は、今日、可愛い妹と、親友と、孫の為にここに来た。
…いいえ、私の為でも、ある。
ずっと、私は見て来たんだから。
リリアンの中等部に編入してきてから、ずっと。
あの、繊細な心も持つ親友を。
祥子の髪を撫でながら、私は頬を流れる涙に、目を閉じた。
◆
「……聖、さま…?」
「祐巳ちゃん…目が覚めたの?」
車の心地よい振動に祐巳ちゃんは半分覚醒、半分は今だ夢の中のよう。
「…今日は、有難う」
「…え?」
祐巳ちゃんが不思議そうな目を向ける。
それに私は微笑みを向けた。
「祥子と私の間に、立ってくれた」
「…いえ…あの時は…体が勝手に動いてしまっただけで…」
「うん…そうかもだけど…私は嬉しかったんだ」
助手席にちょこんと座っていた祐巳ちゃんがきょとんとした顔で私を見る。
「…好きだよ」
もしかすると、初めて面と向って云ったかもしれない。
「…聖さま…」
「何?」
俯きがちに祐巳ちゃんが呟く。
「私は、祥子さまが大好きなんです」
「…うん。知ってる」
膝に置いている手が震えながら、スカートをキュッと握り締める。
「でも…好き、なんです…聖さま…」
「……うん…」
「聖さまが、好きなんです…」
胸が、苦しい。
多分、この胸の苦しさは祐巳ちゃんも感じているはず。
『みんな、幸せ』
そんなもの、ありえない。
…もしかすると、いつの日か抵抗なく微笑みあえる日は来るかもしれない。
でも、記憶は残る。
胸に残る痛みが。
車を、駐車出来るスペースに止める。
こんな状態で、運転何て出来なかった。
「私も、祐巳ちゃんが好きだよ…」
ハンドルを握っている手が、震えた。
「本当に、どうしようもない程…」
祐巳ちゃんに向って微笑んでみせる。
濡れた頬を、隠す事もしないで。
fin??
後書き
加筆修正日:20040717
折を見て、また修正するかもしれません。
ですがこれで一応、fin。
人が人を好きになるのは理屈じゃないです。
でも、ヒカルちゃんも歌っていますが、誰かと誰かのの気持ちが重なった時、誰かが泣いているかもしれません。
その事は、忘れてはいけない事だと思います。
執筆日:20040716
なんだか、今何も考えられない状態です。
一応の決着です。
なんか、ごめん蓉子さま祥子さまって感じ…
性格違うんじゃないですか?
それ云ったら聖さまと祐巳も別人?って感じですけど…
そして一応「fin」と付けながらも、まだまだ書き切れていない感じが否めなくて…
少し経って、もう一度向き合ったら加筆とか、するかも。
感想とか、戴けたら嬉しいです。