翻る、靴音が遠ざかる
(前編)



祐巳ちゃんが、迷っている。

それに気がついてしまっても…私は、どうする事も出来ない。
そんな自分の不甲斐無さと臆病さに苦く笑うだけだった。

…私はまた、失ってしまうのかもしれないのか…と。









「祐巳」
「あ、お姉さま」

薔薇の館に向おうとしていた祐巳を、祥子さまが呼び止めた。
「一緒に行きましょう」という祥子さまに祐巳は「はいっ」と返事をする。

祥子さまと、こんな風に歩くのは久し振りで、祐巳はちょっぴり嬉しい。

…大好きな、お姉さま。

新入生歓迎会…マリア祭で、アヴェ・マリアを弾いていた祥子さまに、祐巳は憧れた。


その憧れの祥子さまの妹になれた事は、今だに祐巳には信じられない事のひとつだった。



あの朝、祥子さまにタイを直されなければ。
その場面を蔦子さんに撮られていなければ。
蔦子さんにそそのかされて薔薇の館に行かなければ。

祐巳は、祥子さまの妹にはなっていなかったかもしれない。

…そして…
あの人に、あんなに近くなる事も、無かった。

今はもう高等部を卒業して、大学部に進んだ、あの人と…こんな感情をお互いに持つ様にはならなかったかもしれない。

…聖さま。

今は何やってるかな…と、優しい笑顔を見せるあの人に、思いを馳せる。

「祐巳?どうかして?」
「え、あ…いいえ。ちょっとボーッとしちゃいました」

祥子さまと一緒にいるのに、聖さまを思っていた祐巳は…何となく後ろめたさを感じてしまった。
「えへへ」と笑うと、祥子さまも微笑んで祐巳を見る。

…ツキン

胸に走る痛み。
この痛みはきっとずっと祐巳について回るだろう。


祐巳は、お姉さまの祥子さまではなく、聖さまに恋をしてしまったから。
『好き』と『大好き』の重みの差に気付いてしまったから。







「…あら?」

祥子さまが、歩を止めた。
それに合わせて祐巳も足を止めた。

風に乗って、音楽が聞こえる。

「アヴェ・マリア、ですね」
「ええ…そうね」

何処からか、聞こえてきたピアノの音…何処かって、多分音楽室からなんだろうけれど。


「…祐巳が私を知ったのは、新入生歓迎会で私がアヴェ・マリアを弾いた時だって、以前云っていたわよね」

不意な祥子さまの言葉に祐巳は首を傾げた。

「はい…そうですが…」
「…もし」

祥子さまが、祐巳を真っ直ぐに見据えると、笑顔なのに泣いているかの様な表情で云った。


「もし、今また…私が、今度は貴方の為にアヴェ・マリアを弾いたなら…またあの頃の様に貴方は私を見てくれるかしらね…」
「…え」

一瞬、何を云われたのか、解らなかった。
けれど、ゆっくりと…本当にゆっくりと、祥子さまの言葉が祐巳の心に染み込んでいく。

胸の痛みが、いつもより強く感じた。
どうにもならない胸の痛みに涙が出そうになる。

「お…姉さま…」

空気が薄くなったかの様に、息苦しい感じがして、喘ぐ様に呟いた。

そんな祐巳に祥子さまは目を伏せて「行きましょう」と歩き出した。

祐巳は…しばらくそこから動く事が出来なかった。









「祐巳さん、バスが来たわ」
「え、ああ…うん」

志摩子さんに云われて、祐巳はバスが来ていた事に気が付いた。
乗り込んで、いつもの場所に座って、祐巳は溜め息をつく。
一番後ろの席。
志摩子さんが窓側に、祐巳はその隣。

なんだか、今の今まで、祐巳はずっと上の空だったのか…薔薇の館でどんな話をしたのか、覚えてはいなかった。

ただ、祥子さまの言葉に囚われていて。

あんな風に、淋し気に云われてしまうと…やはり悲しい。
だって、大好きな人の言葉なんだから。

でも…でも…


「お姉さま」
「え」

ドアが閉まる寸前、駆け込む様に聖さまがバスに乗り込んでくるのを見ながら志摩子さんが呟いた。

何故だか解らないけど…安心なような、落ち着かないような…そんな感じがする。

「ごきげんよう、お姉さま」
「ごきげんよう志摩子…祐巳、ちゃん?」

聖さまが不思議そうな顔で祐巳を見ている。

「ごきげんよう、聖さま」

祐巳は聖さまを見て微笑んでそう云った。
でも、聖さまは眉をひそめて祐巳を見る。
志摩子さんも驚いた様な顔をした。

どうして、ふたりともそんな顔をするんだろう。
祐巳には解らなかった。


でも聖さまはそれ以上言葉を紡ぐ事はなく、祐巳の隣に腰を下ろす。
それを待っていたかの様にバスが走り出した。

誰も何も云わず、祐巳はその沈黙にどうしていいのか解らない。

志摩子さんは窓の外の流れる景色を見ている。
聖さまは真っ直ぐに前を見ている。

祐巳は…間に挟まれて困った顔をしているだろうと思う。

その時、聖さまの手が祐巳の手を握ってきた。
それに少し驚いて、聖さまの顔を見た。

聖さまは相変わらず真っ直ぐ前を向いている。
でも…表情にほんの少しの翳りが見えて、ドキリとした。

けれど優しい、聖さまの手が祐巳の手を握っている。
祐巳はそっと、その手を握り返した。
その手に、何となく気持ちが落ち着いてきて、ゆっくりと心が温かくなるような感じがして…祐巳は聖さまにも志摩子さんにも解らないくらいにほんの少しだけ、聖さまに体を寄せた。

それに気付いたのか、聖さまが祐巳の手を握る手にそっとチカラを込めた。
些細な事なのに、そのチカラは祐巳を嬉しくさせた。









祐巳ちゃんと別れて、私は志摩子を見た。
志摩子は、心配そうな顔で祐巳ちゃんが乗ったバスを見送っている。

「…志摩子。祐巳ちゃん、いつから様子がおかしかった?」

私がそう云うと、静かな声で「薔薇の館に来た時からです…」と云った。

何かが、祐巳ちゃんを混乱させていた。
祐巳ちゃんの表情からそれが見えた。

「…あ…そういえば…祥子さまもいつもと様子が違っていたような気が…」
「祥子?」
「ええ…遅れてきた祐巳さんに、何ひとつお云いになられませんでした」
「……」

あの潔癖な祥子の事、祐巳ちゃんが遅れて薔薇の館に来たなら理由のひとつやふたつ、聞き出すに違いない。
…という事は。
祥子は祐巳ちゃんが何故遅くなったか知っているって事だ。
もしくは、祐巳ちゃんが遅れた原因そのもの。


「…そっか」


祥子の『何か』に、祐巳ちゃんは困惑しているか、迷っている。
多分。

…祥子の、何かが…祐巳ちゃんを迷わせた。
それは言葉か、行動か…

憶測でしかないけれど、限りなく真実に近いだろう。



私は、志摩子に別れを告げると、家に帰る為ではなく、M駅から離れる為だけに行き先を決めずに適当なバスに乗り込んだ。
そして空いている窓際の座席に深く座る。

…今だに祥子は祐巳ちゃんに多大な影響を与えられる存在である、という事を思い知らされた気がした。

「…姉妹なんだから、当然だ」

自分に言い聞かせる様に呟いて、笑みを口元に浮かべようとしても、ただ口元が歪んだだけで、笑みの形にはならない。

「そう…姉妹なんだから」

さっき。
バスの中で手を握ると、祐巳ちゃんはすがる様に手を握り返してきた。
まるで何かと葛藤しているかの様に。

迷ってる。
心が、揺れているのかもしれない。


…もし。
もし、祥子の『何か』が、祐巳ちゃんの心を揺らしたのなら…
祐巳ちゃんの心が祥子に傾いてしまっているのだとしたら…

私は、どうする…いや、どうなるのだろう…

栞が私から消えた時、あの時の私にはお姉さまが居て下さった。
そして、蓉子がいた。
お姉さまと蓉子に支えられて、私は立つ事が出来た様なものだ。

でも…もし、祐巳ちゃんが私の傍から消えてしまったら…

…見当もつかない。

私は、目を閉じた。

どうなって、しまうだろう…私は…


やっぱり、人間の気質なんてモノは、なかなか変わるものではない。
だってホラ。
私はこんなにも、弱い。





「…あ…」

ボンヤリと見ていた窓の外の景色。
そこに見間違える事などある筈のない、少女のがいた。

『次は――』

嘘の様にタイミングよくバス停で止まったバスから降りて、私はその姿を探した。
セーラーカラーとプリーツスカート…そしてふたつに分けた髪を風になびかせながら、歩いているその姿を。

「祐巳ちゃん!」

私の声に、驚いた様に振り返るツインテール。

「聖さま…!どうしてここに?」

駆け寄ってくる姿に、何故か泣きそうになる。

「それは私の科白だよ…祐巳ちゃんち、こっちじゃないでしょ?」
「お母さんのお使いで…って、どうしたんですか聖さま…!」

吃驚した目で私の頬に手を伸ばした。

「…え?」

祐巳ちゃんの指が、頬を滑ると、濡れた頬にひんやりとした風。

…涙?

心配そうな目をする祐巳ちゃんに、私は涙を拭いながら云った。


「…祐巳ちゃん…おうちに伺っても、いい?聞きたい事と…云いたい事が、あるんだ」





…to be continued

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