翻る、靴音が遠ざかる
(後編)


――私が…そうさせている

私、自身が。







「…祐巳ちゃん…おうちに伺っても、いい?聞きたい事と…云いたい事が、あるんだ」


聖さまの言葉に、祐巳はただ、頷いた。

お母さんのお使いはついさっき、済んでいるし。
それ以前に断る理由なんてない。
…聖さまが一緒にいてくれるのは、嬉しいから。

真っ直ぐに、祐巳を見ている聖さま。
祐巳に、この人を拒むなんて事自体、出来る訳がないんだから。


だけど…聖さまが祐巳に聞きたい事って…?
そして云いたい事って…なんなんだろう。







バスに乗って十分位でバス停に着いた。
家までの道程を、聖さまと歩く。

聖さまは、あれから何も云わない。

なんとなく、沈黙が寂しい。
たった数分の家までの距離を、途方もなく長く感じてしまう。

それでも、規則正しく足を動かしているだけでいつの間にか家まで辿り着く。

祐巳はカバンから鍵を取り出して、施錠を解除し、聖さまに「どうぞ」と云った。

「…小母様は?」
「あ…今日は居ないんです…それで、変わりにお使いを頼まれて」
「そう…」

玄関に入り、きちんと鍵をかけて、そして聖さまより先に靴を脱ぐとお客様用スリッパを置いた。

「ありがと…お邪魔します」
「リビングでいいですか?それとも、私の部屋の方がいいですか?」
「…祐麒は?」
「今日はまだみたいです。生徒会の仕事で、結構遅くなる日も多くて…帰宅時間は色々なんです」
「…ふぅん…」
「部屋の方が、落ち着きますか?」

聖さまに、部屋の方を提案する。
やっぱり、リビングだと落ち着かないかもしれないし。

「ん…そうかな。…祐麒が帰ってきたら、心配するといけないし」

聖さまが最後の方をポツリと小さく云った。

心配…?
何故祐麒が心配するんだろう。

「じゃあ…聖さま、私お茶を持って行きますので、先に部屋の方へ…」
「ん…解った」

階段をゆっくりと登っていく音を聞きながら祐巳は、キッチンの方へと向う。

紅茶の葉をティーポットに入れて、お湯を注ぎ、そして頂き物のクッキーを取り出した。



以前、瞳子ちゃんから教わった様に、丁寧に、丁寧に、紅茶を扱いながら、祐巳は二階の祐巳の部屋にいる聖さまを思う。

リリアン前のバス停から乗り込んできた時、聖さまは祐巳を見て不思議そうな顔をして…そして次に眉をひそめた。

あの時から、何かがおかしい。

祐巳の手を握った聖さまに、翳りが見えたり。
そして…偶然に逢った街の中で、聖さまは祐巳を見て涙をこぼした。

多分、聖さまは祐巳の動揺を感じ取っていたのかもしれない。

『…アヴェ・マリアを弾いたなら…またあの頃の様に…』

祥子さまの言葉。
微笑みを浮かべていたのに、泣いているかの様に見えた祥子さま。

…祐巳が、祥子さまに云われた事にどうしていいか解らなくなっていたから…なんだろうか。
それが顔に出ていたんだろうか。

でも、祐巳は聖さまに握られた手に、ざわついていた心がゆっくりと落ち着いていったんだけど…



祐巳は温めておいたカップに紅茶を注ぎながら、どうにもならない気持ちがあるのだと、思い知った。









祐巳ちゃんの部屋は、ある意味『普通』に女の子の部屋だ。
特別女の子女の子した甘ったるい感じではなく、だからといって殺風景でもない。
標準的な女の子の部屋、という感じだ。
何気なく見た本棚にも少女漫画や小説、雑誌が並んでいる。

「…あ」

浮かび掛けた笑みが、固まった。
…淡いピンクの背表紙が、目に入ったせい。

…『いばらの森』、か…

私は、去年の出来事を思い出す。

これを私が書いたのではないか、という噂が祐巳ちゃん達下級生を中心に駆け巡ったらしい。

あまりに、私の過去に似通っていたから。

私は文庫を手に取り、ぱらぱらと頁を繰る。

…ホラ、こんな一文。

『この感情は何だろう。私は自問した。
答えはでない。親友という言葉で片付けられるほど冷静な関係ではなく、けれど同性である以上多分恋愛と呼べはしない。』

この文ととても似通った事を、私は考えていた。

栞と一緒にいたい。
栞とひとつになりたい。

この『いばらの森』のセイの様な事を。

この結末だって…
あの時、栞がM駅で待つ私の前に現れたなら、ありえる結末だったかもしれない。

M駅から、知らない土地へ行って…最終的には死を選んだかもしれない。


けれど、あの時栞は現れなかった。


代わりにお姉さまと蓉子が現れた。

お姉さまが卒業する時は『妹なんて』と鼻で笑った私に志摩子という妹が出来た。

あんな辛い思いをするなら、もう誰とも心を通わせたりしない…そう思っていたのに…
今の私の心の中には祐巳ちゃんがいる。

ずっと憧れていた祥子という姉よりも、私を選んでくれた、祐巳ちゃんが。


けれど…
私だって、14年以上もリリアンに通っていて、高等部でお姉さまと志摩子という姉妹を得た。
他の姉妹とは違うかもしれないけれど、一応は『姉妹』の絆の深さというものを理解している。

だから、祥子と祐巳ちゃんの『姉妹』という絆の深さだって理解している。
『お姉さま』である、祥子の言葉や態度に迷ったり揺れたりする事があって当然。

でも私は、祥子の祐巳ちゃんへの『姉』以上の気持ちを知っている。
祐巳ちゃんも、それを知っているに違いない。

だからこそ、私は恐い。

祐巳ちゃんの心が、揺れる事が。
私の傍からいなくなる事…祥子の元へ、帰ってしまう事が。




「…聖さま」

ティーカップとポット等を乗せたトレイを持った祐巳ちゃんがドアを開いて立っていた。

私が手にしているものに目を奪われている。

「これ、祐巳ちゃんの愛読書?」

何度も何度も読んだ様な読み跡がある事に、手に取った時から気付いていた。
一体、どういう気持ちで読んでいるのだろう。

ドアを閉め、祐巳ちゃんはテーブルにトレイを置くと、私の傍に近付いてきた。

「…愛読書、とかそんなのでは…ないです」

そう云って私の手から『いばらの森』を取ろうとする。
その手を、何故か私は避けた。

「聖さま…?」
「…前に云ったけど…この本のセイは、私に似てるらしい。内容的にも、全く違う処もあれば、ドキリとする程似ている処もある」

パラパラと頁を繰りながら、祐巳ちゃんに囁く様に云った。
そんな私に、祐巳ちゃんは何処かが痛いかの様な表情で私を見ながら云う。

「…でも、どんなに似ていても、『いばらの森』の『セイ』と聖さまは違います…」
「そう?同じかもしれないよ?」
「違います!」

そう云うと、祐巳ちゃんは私の手から文庫を取り上げる様に奪い、本棚へと押し込んだ。

「…違うんです…」

何かを、云い聞かせるかの様に今一度呟いて、祐巳ちゃんは私の傍から離れて行こうとした。

「…っ!」
「え…?」

思わず、祐巳ちゃんの手を掴んでしまった自分に自分で驚く。
手を掴まれた祐巳ちゃんはもっと驚いているだろう。

「聖、さま?」

…何故だろう。
祐巳ちゃんが『何か』を期待する様な…待っているかの様な目で私を見る。

その目に、引き込まれる様に、私は祐巳ちゃんを胸に引き寄せた。
そして、愕く程素直に、『言葉』が私の唇から零れ落ちた。

祐巳ちゃんはどんな魔法を私に掛けた?






「…祥子の元へ、帰らないで」







「…やっぱり、聖さまには隠せないんですね…」

祐巳ちゃんが、私の胸に頬を寄せたまま、云った。
それは、一体どういう意味?

私から、心が離れた、という意味なのか?
祥子へと心が向っている、という事なのか?

「祐巳…」
「祥子さまに、云われたんです…『貴方の為にアヴェ・マリアを弾いたなら、またあの頃の様に貴方は私を見てくれるかしらね』と…私は新入生歓迎会でアヴェ・マリアを弾く祥子さまに憧れたから」

それは知ってる。
以前聞いた事がある。

「それを聞いた時…しばらく動けませんでした…そのあとも、何をどうしたのかきちんと覚えていません…」
「…動揺したんだ?」

私の問い掛けに、NOともYESとも祐巳ちゃんは云わない。
ただ、私の背中に手を回した。

「祥子さまの事は、大好きです…でも…どんなに大好きなお姉さまからの言葉でも…ダメなんです…」

強く、私にしがみ付くようにしながら、祐巳ちゃんは言葉を紡ぐ。

「…ただ手を握って貰えただけでも気持ちが落ち着いて…心が温かくなって…でも切なくて…そんな風に思うのは…祥子さまより、聖さまなんです」



―――私は、祐巳ちゃんを信じられていなかったんだろうか。

あちこちに心を揺らす様な子だと、思っていたんだろうか。

思わず、自分の思考を恥じた。





私は恐くてたまらない。

いつ、祐巳ちゃんが私のそばから離れていくか。
いつ、祥子の元に帰ると云い出すのか。

でも…そう思うという事は、祐巳ちゃんをきちんと信じていないという事になる。

「ごめんね」

こんなに不甲斐無くて。


私は、腕の中の祐巳ちゃんを抱きしめるチカラを強めた。


不安が今、高い靴音を立てながら遠くなっていく。




後書き

執筆日:20041003〜20041006

な、なんかもう負けだぁ
何故こんなしか書けないんだろう…
なんだか、書ききれてないっす…

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