月の魔力
気をつけて
月は人を惑わせるから
満月は人を惑わせるから
だから、気をつけて
授業を終えてから山百合会の仕事を片付けて、祐巳はいそいそと聖さまのお部屋へと向かった。
バスの中でも顔の筋肉が緩んでしまって、ついつい微笑んでしまう。
だって、今日は聖さまとお月見なんだもの。
でも…ちょっと空が曇り気味。
でも雨は降らないと思う。
だって、祐巳の髪は云う事を聞いてくれたし。
聖さまは今日、大学をお休みしている。
講義が丁度無いので、レポートをやってると昨日云っていた。
『学校が終わって、祐巳ちゃんが来るのを楽しみに待ってるから…レポートしながらね』
そう云って笑っていた。
レポート、もう終わったかな…なんて思いながらバスの揺れに身を任せた。
◇
インターホンを鳴らすと、ほんの少しの間の後、鍵を回す音が聞こえてドアが開いた。
…だから、一応誰が来たか確認した方がいいですよ、もう…かりにも聖さまは女性なんですから。
「おかえり、祐巳ちゃん」
聖さまが笑顔でそう云った。
『おかえり』
そう云われて、なんだかくすぐったくて、思わず顔が赤くなってしまい俯いた。
「祐巳ちゃん?」
「あ…えっと…ただいま」
なんだか、物凄く恥ずかしい。
そっと聖さまの顔を見ると、聖さまの頬もほんのり赤くなっていて、祐巳を見る目がまん丸だった。
「…なんか、照れちゃった」
ふっ、と視線を明後日の方向に向けると、そう聖さまは呟いて祐巳の手を引いてドアを閉めた。
ドアが閉まるのと、ほぼ同時に唇を塞がれた。
ふわ…っ、と香る、甘い香り。
深く口付けられて、その甘い香りが口の中にも広まった。
チョコレートの、味。
それが確認出来たと同時に聖さまが離れて云った。
「…ごめん…ちょっと、我慢出来なくなっちゃった」
入って、と云われて祐巳はまだ靴も脱いでいない事に気付いた。
どうりで、いつもより聖さまの背が高い筈。
祐巳は聖さまより一段低い処にいたから。
靴を脱ぎ揃えて、聖さまの後を追っていく。
「聖さま、チョコレート食べてました?」
「え?ああ、うん。さっきまでレポートやってたから…甘いモノ欲しくなって」
テーブルを見ると銀紙に包まれた板チョコが半分程残されていた。
「食べていいよ…って、祐巳ちゃんにはちょっとアレかも…」
アレ?
アレってなんなのだろう…
首を傾げていると、聖さまがそのチョコレートをひと欠片割り、祐巳の口の中へ。
「…にが…っ!」
何?このチョコレート…!
聖さまはさっき「甘いモノが欲しくなって」と云っていたんじゃなかったっけ?
「やっぱり苦いか…祐巳ちゃんは甘党だからねぇ…」
「聖さま…ここのチョコなんなんですか…?」
「ただのBlackチョコだけど…でもそんなに苦い?」
初めてBlackチョコを食べた祐巳には本当に信じられない位苦かった。
チョコレートって、甘いモノのはずなのに…
って、あれ…?
でもさっき、聖さまからはとても甘く感じたのに…
不思議に思いながら、祐巳は頬を掻いた。
「処で、今日うちに寄る事、おうちの人には…」
「あ、勿論云って来ました。聖さまのお家に寄って帰ると」
聖さまは祐巳の言葉を聞いて「そう」と笑った。
…やっぱり、聖さまはいつも祐巳の事を第一に考えてくれている。
それが嬉しくもあり…時にはもどかしい。
でも、そうする事で祐巳が困らない様にといつも動いてくれるんだ。
「祐巳ちゃん?」
どうかした?という目で祐巳を見ている聖さまに「なんでもないです」と笑った。
「…はい、じゃあ9時過ぎにはそちらへ…いいえ、構いませんよ。こちらこそ…はい…はい…では」
聖さまが祐巳の家に電話をかけているのを、ソファに座って聞いている。
夕飯を聖さまと食べるからと云って朝、家を出てきてはいるのだけど…聖さまが念のためにと電話を掛けた。
…そんなに気にしなくてもいいのに…
祐巳はほんの少し、頬を膨らませてクッションを抱きしめながらソファに横になった。
服は聖さまから借りたので、制服のシワを気にしなくてもいい。
「祐巳ちゃん?どうした?」
ソファに転がっている祐巳の傍に立って聖さまは頭を撫でてくる。
それを目を閉じて受けながら「いいえ」と云った。
なんだろう…
さっきから、祐巳はちょっと変。
いつもなら嬉しい聖さまの気遣いがなんだか煩わしい。
そんな事、しなくてもいいのに…なんて思ってしまう。
祐巳のために動いてくれている聖さまに、こんな事考えるなんて…
頭の何処かでそれを申し訳なく思っている自分がいるのに、でも何故だか解らない気持ちがあった。
不思議そうな顔で祐巳を見る聖さまから、思わず目を逸らしてしまう。
「…あ」
大きな、ベランダから、雲の合間から姿を見せた紅い月が見えた。
ベランダを見ている祐巳に、聖さまも振り返ってそちらを見た。
「ああ、月の出だ…」
少し高い場所にある聖さまの部屋だから、昇り始めた月が見える。
…なんだろう…体がざわつく感じがする。
妙にドキドキする心臓に祐巳は手を当てた。
「…どうしかしたの?」
「いえ…」
なんでも、という声が少し、掠れてしまった。
「祐巳ちゃん?具合でも悪いの?」
傍から見ても祐巳の様子がおかしいのだろうか。
聖さまが祐巳の顔を覗き込んでくる。
でも、それが嫌でたまらない。
どうしちゃったんだろう…
「なんでもないです…」
「そんな訳ないでしょう?」
怒った様な顔をする聖さまを眉をひそめながら見る。
祐巳は、テーブルの上のBlackチョコを手に取ってひと欠片割る。
それを口に入れようとしたけれど、急にある事を思い立った。
「祐巳ちゃ…」
聖さまが口を開いた瞬間に、そのチョコレートの欠片を入れた。
「…え?」
聖さまが祐巳の行動に驚いた顔をした。
…そりゃあ口の中にチョコを放り込まれれば、誰だって驚く。
そして祐巳はその聖さまの首に腕を回した。
やっぱり、祐巳の思った通り。
聖さまの口に入れたチョコの欠片は、さっき祐巳が食べた時よりも段違いに甘かった。
唇が離れると、聖さまは信じられないものでも見るみたいな顔で祐巳を見た。
「…祐巳ちゃん…?」
「さっきはとても苦かったのに…やっぱり、聖さまの口に入れたチョコは甘いんです…何故なんでしょうか…」
聖さまの顔を見ながら、思った事を思った通りに云う。
「…そんなの…解らないよ…」
いつもなら、祐巳の質問には大抵の事は答えてくれる聖さまなのに。
今日の聖さまは、やっぱり何処か違う。
あんな風に玄関で祐巳の唇を塞ぐなんて。
だからなんだろうか…
祐巳も今日はちょっと変。
聖さまの腕に抱きしめられて、チョコレートの味がするキスをしながら紅い月を見た。
「…月には、魔力があるんだって」
知ってる?と、聖さまが呟いた。
「魔力…ですか?」
祐巳に聖さまが頷く。
そして「そんなの、信じてなかったんだけどね…」と笑う。
「月の満ち欠けが、潮の満ち引きに関係しているように、人間にも影響を与える事があるんだって」
それを聞きながら、祐巳は何故かそれが信じられる自分を笑う。
だって、今の祐巳と聖さまも、ちょっとは影響を受けているんじゃないかって、思えるから。
祐巳の顔を見ていた聖さまも笑う。
もちろん、お月様だけのせいじゃないのは、祐巳にも解っている。
そしてきっと、聖さまにも。
ちょっとだけ、お月様の魔力を借りただけだって事なんだから。
後書き
執筆日:20041001
如何でしょ。
思わず『月の魔力』って本を引っ張り出して読みましたよ私(笑)