「…あれ?ここは…」
「そ。リリアン。祐巳ちゃんが安心してくれて、落ち着いて話せる場所ってここしか思い浮かばなかった。ここなら、マリア様が見てるから祐巳ちゃんも安心でしょ?」

その見慣れた門はリリアンの裏門で。
祐巳は夜のリリアンの裏門を初めて見たので、一瞬それが何処の門なのか解らなかった。
この裏門をまっすぐ行った所…表門からの道との交わり部分にマリア様の像が立っている。
マリア様は、いつも祐巳たちリリアンの生徒を見守っていて下さる。

「…さっき祐巳ちゃんが云った事だけど…半分は正解かな。だけど、あとの半分は本当に祐巳ちゃんと夜の街をドライブしたかっただけだよ」
「そ…なんですか…」

ハンドルに額をコツンと当てると、聖さまはクスクスと笑った。
その顔は髪に隠れて丁度見えないけれど、寂しそうな、哀しそうな、そんな感じがした。
そのままの体勢で聖さまが言葉を紡ぐ。

「夢って、記憶が見せるものと、日常生活の中の出来事を整理する為に見るものとか、色々あるらしいけど…うたた寝の時見る夢ってのは、あまり良くない事が多いかな」
「厭な夢、だったんですか?」

祐巳がそう聞くと、聖さまは体を起こし、シートに背中を預けた。
そして腕を組んで…それは丁度、自分の体を抱きしめている様にも見えて、祐巳はちょっとドキリとする。

「ん?…そうだねぇ…厭な夢とか悪夢とかではない、かな。ただ、痛い…感じ」
「…痛い…」
「あの時は、それが永遠に続けばいい、なんて思っていたけど…それは生きていくのにはイケナイ事だったかもしれないから。だから、痛い夢」

聖さまが夢に見ていたのは、やっぱり栞さんとの思い出だったんだと、祐巳は思った。

きっと、優しい時間を過ごしていた時の夢。
それこそ、永遠を望んでしまう位。
栞さんだけを見ていた時の、聖さまの記憶。

『逢わない方がいいから』

以前、栞さんの話を聞いた時、逢いたいかを聞いた由乃さんに聖さまは窓の外に目を向けながら、そう云った。
なのに聖さまの記憶は、聖さま自身に今も栞さんを見せ続ける。
聖さまが『永遠』を望む程、幸せだった頃の栞さんを。

…ずるい。

何故か解らないけど、そう思った。

栞さんは、ずるい。

こんな事、考えちゃいけない事だと思う。
でも、どうしてこんな事考えちゃうんだろう。

聖さまの心に、今も住み続けている人。
祐巳はその人を、何故かずるいと思ってしまう。

「…祐巳ちゃん?」

何も云わない祐巳に、聖さまが不思議そうな目で問い掛ける。

今思っている事がこぼれてしまいそうで恐かった。

こんな事、云えない。
云える筈もない。

だから祐巳はキュッと手を膝の上で握っていた。

手も開くと、力が抜けて言葉もこぼれてしまいそうだから。

祐巳を百面相だと云ったのは聖さまだから、表情が見えない様にうつむいて。

「どうしたの」
「…なんでもないです」
「嘘」
「嘘じゃないです」
「嘘だね」
「どうしてそんな事聖さまに解るんですか!」
「どうしても」
「…っ、なんで…」

ああもう、堂々めぐりだ。

「祐巳ちゃんの事だから、解るよ」
「…そんなに解り易いんですか、私は」

もう嫌だ。
顔もあげていないのに、何故。

「…ずるい」
「え?」

思わずこぼれ落ちてしまった言葉に、聖さまが聞き返してきた。

「……さんも…聖さまも…ずるい…」
「祐巳、ちゃん?」

聖さまが祐巳を驚いた目で見てる。

ひとつこぼれ落ちると、もう止まらない。
次々言葉がこぼれていく。

栞さんは、ずるい。
今でも聖さまの心に鮮やかな色を残して。

聖さまは、ずるい。
どうやっても、どれだけ隠そうと頑張っても、祐巳の事を解ってしまう。

でも…

「私も…ずるい…」

…ポトリ

握り締めている手の上に、涙がひとつおちた。


「祐巳ちゃん…」


聖さまが、本当に驚いているのが解る。
急に祐巳がこんな風になっちゃったんだから、当然かもしれないけど。

ずるいと思う。
自分が。

聖さまが、祐巳の事に気付いてくれるから、気付いて助けてくれるから、甘えてしまっているんだ。

だから、さっき聖さまが云った言葉が恐かったんだと思う。

『邪魔にならない』

今は、聖さまは祐巳を気に掛けてくれてる。
それは側にいても、邪魔にならないからかもしれない。

でも。
でもいつか…その時が来たら、聖さまはきっと…

「祐巳ちゃんの何がずるいの?」

今はこんな風にしてくれてるけど…きっと、いつか背を向けたまま、振り向いてくれなくなる。
あの梅雨の時は、あんな小さな祐巳の声にも気付いて振り返ってくれた。
でも、あの時の様には祐巳の声に振り返ってくれなくなるかもしれない。

嫌だ。
その日が来るのが、恐い。

「祐巳ちゃん、云って。何で…」
「…嫌です」
「そりゃ…確かに、私は祐巳ちゃんの云う通り、ずるいかもしれない…でも祐巳ちゃんの何処が」
「…嫌です…っ!」

祐巳は耳を塞いで膝におでこが付く位に体を折る。
聖さまの声を聞いていたら、きっと話してしまう。
それは今までの経験で痛い程に解ってる。

「…祐巳ちゃん…」

途方に暮れた様な、呆れた様な聖さまの声。

こんな祐巳の心を知られたくない。
でも、こうしている事を『駄々をこねている』って呆れられるんじゃないかって考えると…
こんな風にしている事…それすら、恐くなってくる。

意を決して、祐巳はそっと顔をあげる。
そして聖さまを見た。
すると、聖さまは哀しそうな顔のまま、微笑んだ。

「やっとこっち見てくれた」

そう云うと、祐巳の頬に手を伸ばしてきた。


その笑顔と、声と、手に、祐巳の心臓が大きな音を立てた。


「ずるいって、何を思って云ってるのか、解らないけど…祐巳ちゃんが云いたくないなら、云わなくていいよ。でもね、もし私が祐巳ちゃんにそう思わせたなら…」
「ち、違います!そうじゃなくて…」

慌てて祐巳は聖さまの言葉を否定する。
そうじゃない、そうじゃなくて。

「…聖さまは、私の事、なんでも解ってしまうのに…私は解らなくて…でも、なんでも解ってくれるから、それに甘えてしまって…」

もう支離滅裂。
しどろもどろもいい所。

でも、聖さまの哀しそうな顔を見たら…頑なに口を閉ざすなんて、出来なくなって。

…これじゃいつも通り。
やっぱり聖さまにはかなわない。

でもいいやって、それでもいいやって、今は思ってしまってる。


「聖さまの邪魔になりたくない…嫌われたく、ないんです」

『嫌われたくない』

祐巳は自分が云った言葉に驚いた。

そりゃ誰だって人に嫌われたくないに決まってるけど。
でも、祐巳が今、聖さまに云ったのは…ちょっと違っていた様な気がして。

『嫌われたくない』

聖さまには。

こう思うのは、何故?

「…私が祐巳ちゃんを邪魔に思う訳ないじゃない。それに私が祐巳ちゃんを嫌うなんて…絶対ありえない」

ちょっと強い口調で云う聖さまに祐巳は驚いてしまった。
いつもの様な、あのオヤジな感じじゃなくて、真面目な、怒った様な顔をしてる聖さま。

「聖さま…」


頭の中なのか、それとも心なのか。
祐巳の何処かで警鐘が鳴ってる。

大事な事に気付けというのか、それとも気付くなというのか、どちらかは解らないけど。

それはここの処、ずっと聞こえていたかもしれない。

なんなんだろう。
祐巳はどうしてしまったんだろう。

ずっと。
そうずっと、聖さまの事がいつでも心の何処かに引っ掛かって。
聖さまの云った言葉にドキドキして。
今まで何も感じなかった接触にもドキドキして。
ただ見ているだけでドキドキして。

聖さまはカッコイイ人だから。
下級生に人気のあった人だから。

祐巳も、大好きだった。


でも、こんな気持にはならなかったのに。
それなのに。



聖さまが、苦しい様な、泣きそうな、そんな顔で祐巳を見ている。
どうして、そんな顔で祐巳を見るんだろう。

祐巳まで、苦しくなってくる。

「聖、さま…?」

祐巳が、聖さまの名を呼ぶと…一瞬目を閉じて、何かに耐える様な顔をして。

そして、運転席から身を乗り出して祐巳に近付いた。







リリアンの裏門の前に停められていた車が静かに走り出す。


聖さまは何も云わない。
祐巳も、何も云わない。

ラジオの音だけが、沈黙を埋めていて。

でも、内容なんてさっぱり祐巳の耳に入って来なくて。

ただ、「音」だけ。

それだけが車内に流れていた。

その内に、流れていく景色は段々慣れ親しんだ風景に変わっていく。


聖さまは何も云わず、祐巳の家への最短距離を走る。
何故だろう。
酷く寂しさが心に押し寄せてきて。

思わず聖さまの左袖を引いてしまいたくなる。

でも…そんな事、出来なくて。

また祐巳の心には寂しさが増していった。




そして、殆ど、というより全然祐巳のナビなんていらずに聖さまは家まで辿り着いてしまった。


「…有難う、御座いました」
「待って。私も行く。遅くなったから、ご挨拶させて」

そう云うと聖さまも一緒に来て、出迎えてくれたお母さんに優等生な態度で名を名乗り、遅くなってしまい申し訳ありません、と頭を下げて。

そんな聖さまの態度と笑顔にお母さんは更なる好感を持ったようだった。

お茶でも、というお母さんに、時間も遅いから、と丁寧に断りを入れて、でもまたの機会に、と告げると玄関のドアを開く。
その流れがかっこよくて。
お母さんがうっとりしていた。
祐巳も、見取れてしまった。






「聖さま」

祐巳は玄関を出て、車を停めてある場所へと向かう聖さまの後を追って、呼び止めた。

「今日、は…有難う御座いました」
「…ううん。こっちこそ…」

小さな声で「ごめん」と聞こえた。

その聖さまの言葉に祐巳は何も云えなくて。

息が苦しい。
酸素が薄いんじゃないかってくらい。

だから、ただ頭を横に振った。

「マリア様に、見られちゃったよ?」

聖さまは苦く笑いながらそう云って「おやすみ」と車へと歩いていく。

「おやすみ、なさい…」

聞こえるか、聞こえないかって位の声で云う祐巳に聖さまは手を振って応えた。




走り去っていく、聖さまの車を見送る祐巳にどうしようもない寂しさが襲ってきた。

小さくなっていく、聖さまの車。

いつもの道なのに。
見慣れた道なのに。

心細くて、泣きそうになる。

「聖さま…」

身を乗り出してきた聖さまの唇が、そっと触れて離れた唇が、切ない。

「…聖さま…っ」





大事な事に気付けという事だったのか、それとも気付くなという事だったのか、祐巳には解らない。

でも、気付いてしまった。

これで明日からの日常が変わってしまうんじゃないか、なんて思ってしまう。

気付いてしまったら、もう知らないふりなんて出来る訳ないから。



聖さまの事が、大好きだった。

本当に、大好きだった。

でも、祐巳は気付いてしまったから。

『大好き』より、『好き』という気持ちの方が重いという事に。




「聖さま…私は、聖さまの事が…好きです…」




fin??



後書き

執筆最終日:20040627

『日常』は、常日頃とかいう意味ですよね。
常日頃とは云いますが、全く同じ日なんてのは存在しないと思うんで。
日常なんて、過ぎ去る光の様なものなのでは?
それはほんの些細な事でも屈折したり、反射したりする、とても繊細なもので。

たった一人の人間の存在にもその日常は変えられていく。
きっかけなんて様々で。
そんな危うい中を生きているんだろう、なんて思います。

今回のラストで祐巳ちゃんに聖さまへの気持ちを自覚させてしまいましたが。
「聖さま」という一筋の光が、祐巳ちゃんの日常をほんの少し変化させて、本来照らす予定のない心の一部分に光を当てたのだ、みたいな事を書きたかったんですけど…
なんだかちょっと不発感が漂ってますけど…それは松島の修行不足って事よね(泣)



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