嗚咽
小さく、呼ぶ声が聞こえた気がして、振り返った。
そこには今にも泣き出しそうな顔をした祐巳ちゃんが立っていた。
「…祐巳ちゃん…?」
「せ…い…さまぁ…」
見る見る顔が歪んでいく。
そして、大粒の涙がひとつ、頬を伝うと同時に私の胸に飛び込んできた。
「祐巳ちゃん…っ」
まるで緊張の糸が解けたかの様に泣いている祐巳ちゃんに私は動揺を隠せなかった。
どうしたの、と唇が動こうとした時、祥子が立って居る事に気付いた。
その表情が、寂しげで…思わず息を飲んだ。
祥子、と呟き掛けた時、そっと目を閉じると思わず見惚れる程綺麗に私に向かって頭を下げた。
その、ゆっくりと頭を下げた祥子に、私はあの梅雨の日の出来事を思い出した。
あの日…ある擦れ違いから祐巳ちゃんは祥子から逃げるように走ってきて、丁度居合わせた私の胸に泣きながら飛び込んできた。
放り出された傘と鞄を私に渡すと、祥子は「お世話お掛けします」と頭を下げた。
そして、縦ロールが印象的なあの子と一緒に車に乗り込んで去ったのだ。
あの時と同じ様に、祥子は私に向かって頭を下げた。
けれど、あの時と違う。
天気も勿論だけど、祥子の表情も違った。
優しい目を、祐巳ちゃんに向けていた。
頭を下げ、去っていく祥子に、私はあの時と同じ様に祐巳ちゃんに云った。
「…祥子、行っちゃうよ」
どうして、そんな事を云ったんだろう。
自分でも、解らない。
まるで、自らあの日をなぞろうとでも云うのか。
そう云った私に、祐巳ちゃんはゆっくりと顔を上げた。
そして、祥子の後姿を確認し、そっと目を伏せると、あの時とは違う柔らかい表情で私を見た。
「…いいんです」
そう云って、祐巳ちゃんは微笑んだ。
「……」
何も云えなかった。
否。
私が何か云っていい物ではない…そう判断した。
バスの中でも祐巳ちゃんは何も云わなかった。
…云えなかったのかもしれない。
でも、M駅でバスを降りて「ごきげんよう」といつもの様に別れようとした私の袖を、祐巳ちゃんが控えめに摘んでいて。
何処かすがる様な目をしていて。
そんな祐巳ちゃんを見ていて、私は「…うちに来る?」と呟いていた。
どうせ、うちには誰も居ないだろうから、話を邪魔される事は無いだろう…そう思って。
案の定、家には誰も居なくて、正直ホッとした。
私は祐巳ちゃんを部屋に連れて行き、特別にミルクと砂糖多めのココアを作って手渡した。
一口、飲んでにっこりしたのを見て、今日も祐巳ちゃんの好みに作れたと安心する。
そのココアが潤滑油になったのか…ポツリポツリと今日あった事を話し始めた…
それを聞いて、私は何も云えなくなった。
私には、何も云えない。
云ってはいけない…そう思った。
「………」
私は冷めてしまっただろう祐巳ちゃんの手の中のマグカップを取って、立ち上がった。
「…っ」
祐巳ちゃんが、息を飲んだのが解った。
私は微笑んで見せる。
うまく笑えているか、解らないけど。
「冷めちゃったから、淹れ直してくるから…ちょっと待ってて?」
そう云うと、部屋を出た。
…別に部屋でおかわりを淹れる事は可能なのに…
私は自嘲気味に笑って階段を下りていく。
…聞いて良かったのか、悪かったのか…
そんな事を思いながら、新たにカップを取り出して、今度はカフェ・オ・レを淹れるべく、サイフォンをセットした。
…ひとりにさせてしまえば、それだけ不安になるだろう。
でも…今の私も、ほんの少し独りになりたかった。
祥子の気持は…理解出来た。
『解る』なんて、云ってはいけない。
私は、祥子じゃないのだから。
『理解』は出来ても、本当の意味で『解る』事は有り得ない。
いくらどう考えたって、私の考えに過ぎないから。
祥子の気持は、祥子だけのものだから。
でも…祐巳ちゃんに『気持はどうする事も出来ない』と云った祥子のその時の想いは計り知れないだろう…という事だけは、理解出来る。
「…祥子」
目を閉じて、空を仰ぐ。
「ごめ…」
そこまで云い掛けて、留まる。
私が、云ってはいけない言葉だから。
この言葉は、祥子を侮辱するに値する言葉だから。
だから…この言葉だけは、云ってはいけない。
新しいマグカップを手に階段を上がり、ドアの前に立って、中にいる祐巳ちゃんに声を掛けた。
「祐巳ちゃん、開けてくれる?両手塞がっちゃってるから」
私の呼びかけにゆっくりとドアが開く。
祐巳ちゃんの、心配そうな心細げな顔が見えた。
「待たせてごめんね。特製カフェ・オ・レを淹れてきた」
はい、とマグカップを祐巳ちゃんに手渡す。
すると…祐巳ちゃんが俯いた。
思わず、祐巳ちゃんの頭に手を置いた。
そしてゆっくりと撫でる。
私を待っている間、心細かったんだろう。
話したはいいけれど、私はそれに何も云わずに座を外した。
だから不安になったんだろう。
「…待たせてごめんね」
ふるふる、と頭を振る祐巳ちゃんに申し訳ない気持になる。
祥子を思うと、どうしても辛かった。
でも、祐巳ちゃんはもっともっと…辛いのだ。
解っていたのに。
「ごめん…ひとりにして」
祐巳ちゃんの手に渡したマグカップを取り、テーブルに置く。
そして、頭を私の胸に引き寄せた。
「私には…何も云えない…でも…」
「解って…ます…でも…甘えちゃって…いいですか…?」
答える代わりに、背中に腕を回した。
「……っうく…」
声を洩らさぬ様に…押し殺す様に、泣いている祐巳ちゃんに、私はただ背中をゆっくりと撫でてあげる事しか出来なかった。
多分…祥子も泣いているのでは…ないだろうか…
私は、ゆっくりと目を閉じた。
嗚咽が止んで、少し経って。
祐巳ちゃんが私の胸に頬を寄せたまま、呟いた。
「聖さま…」
「…ん?」
そのままで、私も返す。
「これだけは…解っているんです…」
私の背中に手を回して。
そしてキュッ、と服を握り締めて。
「どんなに…辛くても…悲しくても…私は…好きなんです…」
私は自分の体に腕を回している、まだあどけなさが残る少女を見た。
妙に、凛とした声が云う。
「聖さまが…好きなんです…」
私は、精一杯、真面目に「うん」と頷いた。
大切な言葉を、真摯に受け止める。
そして、頬に零れ落ちる涙を感じながら、云った。
「私も、祐巳ちゃんを好きだよ。その為に、誰かを悲しませても…傷付けたとしても…」
執筆日:20050111
『一本橋を渡るように』はこれで一区切りです。
…と云っても、うちの話は全部繋がっているみたいですけどね。