最後の夜
トントン、というドアをノックする音がして、静かに開かれたドアからおばさまが顔を覗かせた。
「あらあら…」
「おばさま」
「祐麒が子機から祐巳が寝ちゃってるって聞いて来てみたんだけど…本当によく眠っちゃって…」
私の膝に頭を乗せて眠ってしまっている祐巳ちゃんを見て、おばさまは微笑む。
私は内心ヒヤヒヤものだったりする。
…だって、ひざ枕なんて…ねぇ…
「この子、佐藤さんが大好きなのねぇ…こんな無防備に眠っちゃって」
「最近、ずっと勉強を頑張っていたみたいですから…疲れているからなんじゃないでしょうか」
当たり障り無く、云う私におばさまが笑みを深めた。
思わず、ドキリとする。
「こうなってしまったらなかなか起きないのよ…もし良かったら、泊まっていっては如何?」
「……え」
「ほら、祐巳の手、佐藤さんの服、握っちゃってるし」
「あ」
気付かなかった。
いつの間に…と私は驚いて、次に苦笑する。
そんな私におばさまは…静かに呟いた。
「祐巳の事、宜しくお願いしますね」
そう、呟いて…そして「泊まっていって下さいね」と、部屋を出て行った。
†
バスの揺れに体を預けるように、祐巳ちゃんが眠っている。
走り回っていたから、疲れたんだろう。
肩に寄り掛からせるようにして、私は祐巳ちゃんの体を支えるようにしていた。
でも、もう少しで停留所に到着するだろう。
ちょっと可哀想だな、と思いつつ、寝顔を眺める。
まだ、ちょっと幼い寝顔。
「…祐巳ちゃん、そろそろ着くよ」
確かにまだ幼いけれど、でもゆっくりとまぶたを開く瞬間の、その表情は、思わずハッとする程、綺麗だった。
フロントでキーを貰い、エレベータに乗り込むと、ふらりと祐巳ちゃんの体が揺れる。
まだ半分夢の世界らしい。
さりげなく体に寄り掛からせるようにして支えながら到着を待つ。
丁度一緒に乗り込んだ年配の女性たちが、祐巳ちゃんを微笑ましく見ている。
「疲れちゃったのねぇ…でも穏やかな顔。楽しかったのね」
女性の言葉に私も微笑む。
なんだか、嬉しかったから。
その女性たちも途中の階で降り、最上階の私たちが最後に残る。
…誰もいないなら、抱きかかえてしまってもいいけれど。
もしエレベータを降りて部屋に行くまでに誰かとすれ違わないとも限らない。
「祐巳ちゃん、しっかり立って」
「はい…」
まぶたを擦りながら頷く祐巳ちゃんを支えつつもエレベータを降りて部屋に向かった。
部屋のドアを開いて、半分眠っている祐巳ちゃんをベッドへ連れていく。
さっき食べたパンは、おやつにしては多めで、今の時点で夕飯の事は考えられない。
それは祐巳ちゃんが目を覚ましてから考えてもいい。
もし夕飯の時間を逃しても、ルームサービスもあるし、買ってきたパンもある。
私はベッドに体を横たえた祐巳ちゃんの髪をそっと撫で、ついでに自分もその隣に横になった。
祐巳ちゃんについて歩いて、結構疲れていたらしい。
穏やかな寝息は、私を眠りに落とすのに十分な効果があった。
夢も見ずに眠っていた。
自分で思っていたより、体は疲れていたらしい。
ゆっくりと、体を起こして窓の外を見る。
帰った時はまだまだ青かった空が、完全に闇色になり、白い月がこちらを覗いている。
時計は、既に21時を過ぎている。
湖上の花火も終えたようだ。
「目、覚めたんですね。よく眠れました?」
「…随分寝ちゃったみたい…なんか妙に頭がすっきりしちゃってる」
そういう私に祐巳ちゃんは微笑みながら濡れた髪をタオルで拭いている。
「先にバスルーム使わせて戴いちゃいました。結構汗かいていたので」
「天気良かったもんね。まさに遊園地日和だった」
「ええ!」
満面の笑みを浮かべている。
余程楽しかったんだろう。
思わずこちらも笑んでしまった。
「…本当に、今回は連れてきて下さって有難う御座いました」
「どうしたの、急に」
ベッドの、私の隣に座って、祐巳ちゃんは改まったように云った。
そしてゆっくりと微笑む。
「江利子さまにも、感謝しなきゃ。こんなに楽しい時間、過ごさせて下さったんですから」
まあ確かに、江利子のお陰って云えば、そうだ。
でもそんな事を云えば、なんだか大きく出られそうで恐い。
そんな事を考えている私の腕に、そっと体を寄り掛からせてきた。
ふわり、とシャンプーの香り。
「明日、帰るんですね…」
ちょっと、残念そうに云う祐巳ちゃんに、私は「帰りたくなくなっちゃう?」と冗談混じりに云ってみた。
「…いいえ、と云えば…嘘になりますけど…でも、こうやって限られた時間の中で過ごすから、良いのかも」
私は祐巳ちゃんの濡れた髪にそっと唇を寄せた。
「これからも、いろんな所に行ってみたいです。聖さまと、沢山」
「うん…そうだね」
これが、この土地での最後の夜になる。
そう思うと…結構感慨深い。
明日には、暑い東京に戻るのだ。
「…私も、シャワー浴びてくるかな」
そう云って祐巳ちゃんの頬に口付ける。
「待ってて、くれる?」
唇を耳元に滑らせて、囁く。
最後の、夜だから…と。
きっと、祐巳ちゃんにもこの言葉がどういう意味か、解るはず。
祐巳ちゃんは、頬を染めてゆっくりと頷いて「待ってます」と呟いた。
…うーん。
バスルームから戻ってくると、祐巳ちゃんはベッドに横になって眠ってしまっていた。
髪に触れると、少し身動ぎして、また穏やかな寝息を立てる。
私は苦笑すると、仕方が無いか、と笑う。
走り回って疲れている…というのもある。
でも旅行というのは、知らない土地であればあるだけ、知らずに気を張ってしまうものだから。
疲れが出ても仕方が無い。
そっと羽根布団を掛けて、祐巳ちゃんの頬にキスをした。
「おやすみ、祐巳ちゃん」
愛しい少女に、そう云って私はその安らかな寝顔を見詰める。
そうしている内に私にも睡魔がやってきた。
別々に眠ってもいいが、やはり祐巳ちゃんの体温を感じながら眠りたくて、起こさないように、隣に体を滑り込ませる。
穏やかな、寝顔。
まるで天使のように無垢だ。
私は天使を抱きしめるようにして、眠りに付いた。
執筆日:20050217
私も眠いです(苦笑)