創作悲劇と温かな涙
私は知っている
その、温かな事を
柔らかな事を
優しき事を
…愛おしさを
「…何莫迦な事云ってるんですか…」
「だってさ?人間なんて、いつ何処で何が起こるか、なんて解ったものじゃないんだから」
「そりゃあそうかもしれませんけど…それとこれとは話が別な気がするんですけど?」
バスの中。
相変わらず、最後部の死角になる部分に二人で座って。
ほんの少しの、密な時間。
柔らかく、絡む指をそっと指で撫でながら。
周りには聞こえない、けれどお互いには聞こえる声で。
「…結構さ、祐巳ちゃんってシビアだよね…なんか欲しがってるの、私だけみたい…」
「な…何云って…」
「…私が、欲張り過ぎるのかな」
ちょっと拗ねた様に、寂しげに呟いてみる。
それに慌てた様に目を覗き込んでくる。
その、いとおしい仕草。
「…もう…今日だけ、ですよ?」
そう云って、目を閉じる。
掠める唇。
この、ほんの少しの密な時間に、ほんの少しの触れ合い。
衆人環視ではないけれど、もしかすると誰かに気付かれるかもしれない、という落ち着かなさの中。
「…聖さまだけじゃ、ないです…私だって…欲しいんですから」
結局は、私に甘く折れてくれる。
この愛しい人を、私はいついかなる時も、その存在をこの身に感じていたい。
そう、思っている。
■
「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
天使達が集う、この学園。
今日もいつもと変わらない、日常が始まろうとしていた。
けれど。
何故か今日はいつもとどこか違っている感じがして。
銀杏並木を歩きながら、青い空を見上げた。
マリア様の心の様に晴れ渡った空。
…何事も無ければ、良いのだけど。
そう考えて、フッと微笑むと頭を軽く振った。
マリア様が見守っていて下さるのだから、大丈夫。
「祐巳さん、今日はお休みなんですって?」
授業をふたつ終えて、志摩子が廊下に出た時。
由乃が藤組の前にいた。
――ちょっと、神妙な顔で。
「…うん」
「どうかしたの?由乃さん?」
いつもと様子の違う由乃に、何となく志摩子も『何か』を感じ取った。
何かを云いたげに、目をさ迷わせる由乃に志摩子は首を傾げる。
「由乃さん?」
「…あのね、志摩子さん」
「ちょっと待った、話はこっちで」
フッ、と現れた蔦子が由乃の腕を取っていた。
「蔦子さん」
「志摩子さんも、こっち来て」
声を潜め、云う蔦子に周りを見回して志摩子は軽く頷いた。
人気の少ない、階段下。
「ここなら、大丈夫かしら」
辺りに人の気配が無い事を確認して、蔦子はやっと内面の緊張を解いた。
表面的には、いつもの様に微笑みすら浮かべて歩いていた。
けれど…内面は、緊張しすぎる程に緊張していた。
「どうしたの?蔦子さん?一体…」
「志摩子さん…今日ね、祐巳さん、来てないの」
由乃が、困惑顔で呟く。
「ええ、知ってるわ。桂さんが云っていたから」
「…祐巳さん、無断欠席なの…」
「…え?」
祐巳には到底似合わない言葉を聞いて、志摩子は眉をひそめた。
蔦子を見ると、神妙な顔をしている。
心なしか、顔色も悪い。
志摩子は正直云って、蔦子のこのような顔を見るのは、初めてだったかもしれない。
「…その事で、私もちょっと色々と探りを入れてきたんだけど…祐巳さん…事故に巻き込まれたらしい」
緊急召集が掛かり、薔薇の名を掲げるもの達と、事情説明の為、蔦子が薔薇の館にいた。
「どういう事なの!祐巳…祐巳は…!」
「落ち着きなよ、祥子…こういう時こそ、落ち着かなきゃダメ」
声を荒げる祥子に令が諌める。
でも…!と云う祥子に「解るけど、ここは抑えて」と云うと、蔦子に向き直る。
「で、蔦子さん。詳しい状況は?」
「登校途中、事故に遭った、という事だけで…今、真美さんが情報を集めに駆け回ってます……祐巳さんの家には当然誰もいません。留守電になってました」
乃梨子が紅茶を皆の前に置いて、そっと口を開いた。
…誰もが聞きたくて、でも何故か口に出来なかった事。
「…祐巳さまが運ばれた病院は判らないんですか…?」
その言葉に表情を固くしながら、蔦子は首を横に振った。
『事故』
『病院』
『家族も家にいない』
このキーワードに、不吉な影を感じずにはいられない。
何も判らない事が、不安を煽る。
コンコン
ビスケットの扉をノックする音に、ハッとした様に皆が扉に目を向ける。
「ごきげんよう、皆さん」
「お姉さま…!」
「祥子…」
祥子が立ち上がり、駆け寄る。
その祥子を受け止め、皆に目を向ける。
凛とした眼差し。
それはあの頃と変わりない、頼れる人の眼差し。
「蓉子さま!」
「祥子から、携帯に電話を貰ったの…祐巳ちゃんが事故にあったって…。もしかしたら、私はその場に居合わせているかもしれない」
衝撃的な言葉に皆が唖然とする。
その、爆弾発言を落とした蓉子の直ぐ後ろに、聖がたたずんでいるのに、志摩子だけが気付いていた。