貴方は知らない
この、冷たさを
かたくなさを
寂しさを

…絶望を




「そ…れは、一体…どういう事、なんですか?」

沈黙を破ったのは、蔦子。
蔦子のその言葉に、止められていた時間が動き出す。

「そうです、どういう事なんですか、お姉さま…!」
「落ち着きなさい、祥子。…貴方がそんな調子でどうするの」


傍らの祥子を諌めると、優しく微笑んでその髪を撫でた。
それだけで、祥子の気持ちに落ち着きが戻ってくる。

それを確認したかの様に、蓉子はぐるりとその場にいる者の顔を見渡した。

「今朝、私が大学に行く途中の事よ。用があって、いつもは行かない方向のバスに乗っていた。そんなに長い時間では無かったんだけど、私が乗ったバスの数台先で事故が遭って立ち往生したの」

開かれたままだったビスケットの扉を、聖がゆっくりと、静かに閉めた。
その聖の行動で、そこにいた者たちは初めて、そこに聖がいた事に気付いた。

それ程まで、今の今まで、聖の存在感というか…気配は希薄だった。

「もう少しでバス停という処で。バスが止まってまもなく、救急車が来たわ。それが走り去って…少し経ってから、周囲は動き出した。数メートル先にあったバス停に停車して、乗り込んできた客がバスの中にいた知り合いに云っていたの」

そこで、蓉子は一旦言葉を切って、目を閉じた。

「…なんと、云っていたんですか…?」

由乃が、先を諭す。

それにゆっくりと蓉子が目を開く。

「…それを聞いた時正直息を飲んだわ…『リリアン女学園の子が、転んだ子供を助けようと車道に飛び出した』と聞いたから…」

「……」


沈黙が、薔薇の館を充たす。


それが、その車道に飛び出したリリアンの学生こそが、祐巳なのではないか?
朝の、同じような時間にもう一件、リリアンの学生が事故に巻き込まれた、などとは到底考えられない。


「…そのリリアンの子がどんな状態かとか、それは解らないわ。話していた客は、私から離れた処にいたし、声をひそめて話していたから」
「そうだ…病院は?その救急車は…」
「由乃、それは解らないよ。どの病院へ行くかなんて解らないから」

逸る由乃に令が諌める。

「第一、その子が祐巳ちゃんだっていう確信は無いんだし」
「…いいえ。祐巳ちゃんかもしれないの」

令が希望を告げる。
けれど、それは蓉子によって一蹴された。

「何故そんな事が云い切れるんですか!お姉さま!」
「落ち着きなさい、祥子。聖に聞いたら、そこは祐巳ちゃんの家に近い場所だったの。多分、祐巳ちゃんが通学に使っている沿線…」

『聖』という名に、皆の視線が聖に集まる。
それにも動じず、聖は静かな表情で腕を組んで壁にもたれていた。

「本当、なんですか?聖さま…その場所、祐巳さんの…?」

由乃の言葉に、聖は落としていた目線をあげて由乃を見ると、ゆっくりと頷いた。

聖の、あまりに静かさに、違和感を感じながら令が「それなら」と提案を出す。

「それなら、病院は絞られるじゃないですか。その周辺の病院に…」
「…いや、下手に動くより、情報が入るのを待った方がいい」
「…そう、ね…聖の云う通り、待っていた方がいいかもしれ…」
「…っ!黙って待っていろと云うんですか!」

聖の物云いに驚いた様にしたが、頷く蓉子に祥子が声を上げた。
今にもテーブルを叩き割らんばかりの祥子に聖は冷たい一瞥を向ける。

「…そうよ」
「よく…そんな風に落ち着いていられますね…!さっきから見ていれば…っ!貴方は祐巳が心配じゃないんですか!」
「だからって祥子。貴方みたいに声を荒げたからと云って、どうにかなるの?」
「…っ!」
「やめなさい、祥子…聖も、煽らないで」

そう云ってその場を諌めた蓉子だったが、内心、聖のあまりの静かさに訝しさを感じていたのは確か。
二年前の、聖を知っている蓉子には、尚更。

栞を想うあまり、自分を見失いそうになっていた聖。
誰の忠告も聞かずに、栞だけを見詰めていた聖。

その聖を、知っている。

実際、動揺した祥子から電話を貰って、それを聖に知らせた時の絶句具合から、どうしようもない位に動揺して、祐巳が運ばれたらしい病院を片っ端から調べ上げる位の事をやるのではないかと思った。

けれど、聖は『静か』だ。
この薔薇の館にいる、誰よりも。

「…今は、待ちましょう」

蓉子はそこにいる一人一人の目を見据える様に、云った。

「職員室に行ってくるわ。もしかしたら、混乱を招かないように、高等部の生徒には教えない様にしているのかもしれないから…聖、一緒に来て」







「ご、ごきげんよう、ロサ・キネンシス…じゃない、蓉子さま!」
「ごきげんよう」

声を掛けてくる後輩たちに笑顔を向けながら職員室への廊下を歩く。
そこで、蓉子が気付いた。

聖は『静か』だ。
まるで、栞と出逢う前の様に、愛想無く廊下を歩いている事に。
声を掛けられても、ほとんど無視の様な態度に後輩達も困惑している。

「…聖、貴方…」
「…何?」

向けられる視線は静かなもの。
…あまりにも、無機質な印象を受ける目。
まるで、硝子だ。

「…いいえ。先生達、何か教えてくれるといいわね」
「…そうだね」


本当に、そう思う。
教師達が情報をくれたらいい。
どんなものでもいい。



何かが動き出さなければ聖が毀れてしまいそうだ…蓉子はそう思った。


…to be continued