溜め息
(聖祐巳)
「どうしたのよ祐巳さん。浮かない顔して」
薔薇の館への道すがら。
由乃さんが祐巳の顔を覗き込むようにして云った。
そんな様子を志摩子さんは何も云わずに見守っている。
「…由乃さん…私そんなに浮かない顔、してる?」
「してるから云ってるんじゃない…ねぇ、志摩子さん」
「…そうね」
志摩子さんが苦笑しながら由乃さんに同意する。
「…う…」
何云ってんのよ、という様な由乃さんの呆れ顔に祐巳はぐうの音も出ない。
「…でも、ホント…今日は元気が無いわ…ううん、違う、段々と元気が無くなっていっている感じ」
志摩子さんの言葉に、祐巳は更にどうしようもなくなってしまいそうになった。
…その通りだったから。
朝から、祐巳はずっと落ち着かなかった。
登校時のバスの中でも、バスを降りて表門からマリア様までの道のりでも、マリア様にお祈りしている時なんて背中が気になって気になって仕方が無かったし。
校舎にたどり着いてからは、ポケットに入れてきてしまった、小さなアライグマがついているソレが気になって、ついポケットの上から触れて、思わず赤くなってしまったり。
移動教室で渡り廊下を歩いている時やお昼休みに薔薇の館へ向う時もつい『外』が気になったり。
『また明日』
祐巳が落ち着かなかったのは、そう云った聖さまの言葉のせい。
でも…聖さまは姿を見せてくれなかった。
…解ってる。
いつも姿を見せていたのは放課後。
マリア様から表門までの並木道とか、バス停とかだって事。
でも…
時間が過ぎていく内に、期待していた気持ちが落ち着いて冷静になったけれど。
…でも。
祐巳は聖さまに、逢いたかったから…
だから…少し…ううん、とても寂しい。
薔薇の館にたどり着いて、扉を開いて入っていく由乃さんの後について行きながら、祐巳はそっと後ろを振り返る。
やっぱり、聖さまの姿は無かった。
◇
今日は昼からの講義しかない。
しかもひとつだけ。
別にそれだけなら今日は行かなくてもどうにでもなる。
私は愛車を走らせながら苦く笑った。
リリアンへ行けば、高等部が気になるだろう。
姿を見たくなってしまうだろう。
姿を見れば、声を掛けたくなる。
…声を掛ければ、触れたくなる。
今日は、正直いつもの様に羽交い絞めのみで抑えられる自信が、ちょっと無い。
いや、多分制服姿の祐巳ちゃんや、一緒にいるであろう志摩子や由乃ちゃんたちを前にすれば大丈夫だろうとは思うけれど。
でも…ね。
助手席に置いてある、大判封筒を横目で見ながら溜息をついた。
前に好きだと云っていたクッキーを買うためにメープルパーラーに立ち寄って、何気に店内を見回していると、見慣れた姿を見掛けて思わず声を洩らしてしまった。
「あれ…?」
相手も気付いた様で、驚いた様な顔をした後で、にっこりと微笑んでくれた。
「あら、佐藤さん。今日和、奇遇ですねぇ」
「今日和、小母様」
人好きのする、笑顔に私の顔も緩んでしまう。
こういう処は、似ていると思う。
本人はお父さん似だと云っていたけれど。
「昨日は遅くなってしまって申し訳ありませんでした」
「いいえ、こちらこそ。ご迷惑とか掛けたりしませんでした?」
「そんな事は全く無いですよ」
そう、全く無い。
出来たらずっといてもらいたい位だ。
「小母様、それは…」
大きな包みがふたつ。
もしバスで来ているなら大変だろう。
「これ?お盆に行く親戚へのお土産にと思ったんだけど、どれにしようか迷ってしまって…一番大きな詰め合わせを買っちゃったの」
まずい。
この展開はちょっとまずい。
やはり先手を打とうと考えて正解だったかもしれない。
「小母様、私の車に乗って行きませんか?…実は、ひとつお願いがあって…お伺いしようと思っていたんです」
◇
祐巳はバスに揺られながら小さく溜息をつく。
志摩子さんは、そんな祐巳に気付いているんだろうけれど、何も聞かないでいてくれる。
あの後も、さりげなく話を他に逸らしてくれて、由乃さんの攻撃にあう事も無く、山百合会の今日の仕事を終える事が出来た。
イケイケな由乃さんの押しも有難い時もあるけれど、今は志摩子さんの様に黙って見守っていてくれるのが、今は有難い。
「…どうしたの?祐巳さん?」
ジッと見詰めてしまっていたようで、志摩子さんがほんの少し落ち着かな気に聞いてきた。
「あ、ごめん。なんかボーッと見詰めちゃった」
ぽりぽりと頭を掻きながら云うと、嫌ね、と志摩子さんが微笑んだ。
M駅で志摩子さんと別れて、祐巳は家の方向に向うバスに乗り込んだ。
…また明日って、云ってたのにな…
すれ違ってしまったのか、聖さまに逢う事は出来なかった。
志摩子さんと由乃さんと並木道を歩きながら、祐巳は周囲をずっと気にしていたのに。
何処からか、聖さまが現れるんじゃないか、って。
でも…由乃さんと別れてバス停でバスを待っている時も、M駅でも、聖さまの姿は無かった。
ポケットの中から、聖さまから貰ったソレを取り出して手のひらに乗せる。
アライグマがついた、銀色の鍵。
ほんの少し、金属特有の冷たさを感じながら、そっと握り締めた。
バスを降りて、とぼとぼと家への道を歩く。
ホントに、とぼとぼ、という感じ。
もし今祐麒がいたら、「何そんな元気のない歩き方してるんだよ」と溜息をつくだろう。
…だって、ホントに元気が無いんだもん…
家に着けば、お母さんもいるし、心配させる訳にいかないから元気な祐巳にならないといけない。
でも、今この道程ではそんな必要が無いから…
盛大な溜息をつこうとした。
つこうと、した。
けど、祐巳は思わずそれを飲み込んだ。
「……へ?」
見慣れた、と云うか、馴染んでいるソレを見たから。
「な、なんで…!」
祐巳は今までの『とぼとぼ』から打って変わって猛然とダッシュした。
◇
少しだけ、時間を戻して。
「突然お伺いしてしまって…何か御用はありませんでしたか?」
「用はさっき終わってしまったもの。大丈夫ですよ」
申し訳なく云う私に小母様はいそいそとお茶を用意してくれている。
お茶って云うより、コーヒーだけど。
「それで、私にお願いってのいうのは?」
そう云いながらカップを差し出し、にっこりと微笑まれた。
うわ、早速ですか、小母様。
「実は…友人が行けなくなってしまいキャンセルするというのをタダ同然で譲り受けたんですけど…」
私は苦笑を洩らしながら横に置いていた大判封筒を手に取って、ソレを取り出す。
さて…
「…やはり、祐巳ちゃんに聞くより先に、小母様の意見を伺おうかと」
「まぁ、北海道…」
「祐巳ちゃん、お借りしてもよろしいでしょうか?」
国内とはいえ、同じ都内を行き来するのとは訳が違う。
…これから先を見越したものが必要だから。
だから、今から私は一芝居打たなくてはいけない。
小母様たちを安心させる為にも。
…祐巳ちゃんを安心させる為にも。
「でも、佐藤さんにはいつもお世話になってしまっているのに…よろしいの?」
「正直、お世話になってるのは私の方かもしれません」
「まさか。白薔薇さまだった佐藤さんが…?」
その言葉に苦笑する私に、小母様は小首を傾げた。
…ああ、こんな処も、似ているかもしれない。
「白薔薇さま…なんてやってましたけど、それはたまたま私の『姉』だった人がそうだったというだけで…本来私はとても人見知りが激しいんです」
「本当に?」
今の人当たりの良さは、栞との別れの後に習得したもの。
そうしなければ、ならなかった…というだけのもの。
実際、今も私は人見知りのままだ。
人間、そんな簡単に気質なんて変わるものじゃない。
私の周りには、山百合会の人間しかいなかったに等しい。
だから、やってこれたというもの。
…あの時、祐巳ちゃんが山百合会に出入りし始めた頃…あんな風に構うとは、自分でも信じられなかった部分もあった。
出逢って数日の子の手を取ってダンスの真似事をしたり、祥子に見せ付けて煽る為とはいえ、抱きしめる、なんて事をするなんて…
「ええ。人見知りなんですよ。だけど、祐巳ちゃんは出会った頃から不思議と和みまして…。まぁ、祐巳ちゃんはどうかは解りませんけど、私は二歳の歳の差とか全く考えず、本当に親友の様に思っているんです」
…親友、なんてのは、嘘だけどね…
にっこり笑いながら、嘘を吐く。
罪悪感が、無い訳では無いけれど。
でも、本当の事を云う事こそ、この人を苦しめる。
いくらリリアンの卒業生だったこの人でも…在校時代に姉妹を持っていたとしても…もしかすると、誰かに淡い想いを抱いていた事があったとしても…多分それを知れば、苦しむに違いないから。
だから、『親友』。
それに多分、恋心を抱かなければ親愛の情を抱いていたはず。
でもそれは『多分』の域を出ない。
私は、祐巳ちゃんに恋をしただろうから。
何故か解らないけれど、確信している。
「…親友…。ほんとに祐巳ちゃんは幸せねぇ…」
小母様が微笑みながら呟いた。
「私はまったく構いませんよ。祐巳が行きたいのなら、それで。佐藤さんになら安心して任せられますし…でも、費用の方は…」
「あ、友人も知り合いのツテで安くチケットを買ったらしいので、殆どタダ同然で譲ってもらったんです。だから心配いりません」
これは本当。
驚くほど格安で譲ってもらった。
なんと、江利子に。
江利子はもちろん山之辺氏と行く予定だったらしい。
でも山之辺氏の都合がどうにもつかない。
仕方が無くキャンセルしようと思った。
でも、キャンセルする位なら…と
「…そうですか…」
「ご安心下さい」
ダメ押しの様に微笑んだ。
と、その時。
ドアが閉まる音がして、小母様が「あら、帰ったみたい」とリビングの扉を見た。
と、その扉が開いて驚き顔の祐巳ちゃんが現れた。
「せ、聖さま!?」
「あらいやね祐巳ちゃん、『ただいま』は?」
小母様の苦笑混じりの声に祐巳ちゃんが「あ、ただいまお母さん」と云うと、ソファに座る私に顔を向ける。
私はヒラヒラと手を振って笑った。
「やほー祐巳ちゃん、お邪魔してるよ」
「どどどどど」
「どうしてここに?」
「…はい…」
久々に道路工事を聞いた。
小母様はそんな祐巳ちゃんにクスクスと笑っている。
「ちょっとね、祐巳ちゃんをお誘いする為に小母様の了承を得に来たのよ」
「は?」
「祐巳ちゃん、8月6日から3泊4日で北海道行かない?」
◇
祐巳は盛大な溜息をついた。
なんかもう、今日はどっぷりと疲れてしまった気がする。
昨日聖さまがファンシーショップで祐巳を置いて何処かに行ったのは、旅行会社に行って航空券の手続きやらパンフやらを貰いに行ったらしい。
それと…合鍵の作製。
くすくすと笑いながら祐巳のベッドに寝転んでいる聖さまに、ッ祐巳は椅子に座って、また大きな溜息を落とした。
…この人には敵わない…もう絶対。
「なぁに?祐巳ちゃん、そんな溜息ついちゃって」
「…『また明日』って云っていたのは、うちに来るって事だったんですね…」
「うん」
『うん』だって。
そんな軽く『うん』なんて云われちゃったら、今日一日の祐巳のドキドキとか、もやもやはどうなるのか。
「…学校で、探したんですよ」
寝転んでいる聖さまに溜息混じりに呟く。
『また明日』って聖さまが云ったから。
だから一日中、目は聖さまを探していた。
それなのに、逢えなかったから、本当に残念で…悲しくて。
志摩子さんと別れて、バスに乗ってから寂しさに泣きそうになった。
…それなのに、この人は!
「…聖さまの、莫迦…」
「酷いな」
頬杖をついて苦笑する聖さまに、祐巳は恐い顔をする。
恐くなんてないだろうけど。
おいでおいで、と手招きする聖さまに、椅子から立ち上がりベッドに腰を下ろした。
「そうやって、私を振り回して楽しいですか?」
「ちょっとね」
ベッドについた祐巳の手を取って、聖さまは口元へと持っていく。
そして、指に口付ける。
「…小母様の、了承っていうか…そういうの、ちょっと欲しくてね。だからお伺いしたの」
「了…承?」
その重々しい言葉に祐巳は聖さまをまじまじと見る。
「うん。昨日までうちの泊まってくれてたし、『泊まる』って事は許してくれてるんだろうけど…でもそれは同じ都内の事だから。でもやっぱり『旅行』となると…ね。遠慮とか、気遣いとかも出てきちゃうかもだし。それに私は一応祐巳ちゃんの先輩って事だしね…」
「…先輩…そう、ですね…お母さんの中では今だに聖さまは『ロサ・ギガンティア』みたいだし」
「ま、ちょっとそういうのも、話してみたくて。だから祐巳ちゃんに云う前に小母様に話したんだな」
方手は聖さまに囚われたまま。
柔らかい感触が指を伝ってくる。
「…そう、だったんですか」
「学校で逢えなくて、寂しかった?」
ニッと笑う聖さまを無視して明後日の方向に顔を向ける。
「ごめんね」
手首に唇を滑らせて云う聖さまに、ぐぅの音も出ない。
祐巳は空いているもう片方の手で聖さまの髪に触れた。
さらさらと指が通る。
その感触が気持ちいいのか、聖さまが目を細めた。
なんだか、猫みたい。
謀り事を楽しんで、いつでも祐巳を驚かして。
そして『してやったり』と笑う、この人が好きで好きでたまらない祐巳に祐巳は自分で笑うしかない。
「…で。6日から、一緒に行ってくれる?北海道」
どうなるか、予測を立てて動いているはずなのに、何故そこで頼りなげな、心配そうな顔をするんですか。
それも、戦略のうちですか?聖さま。
…もしここで祐巳が「その頃は予定が」とか「お姉さまの別荘に行くんです」とか云ったら…どんな顔をするだろう。
多分、笑って「そっか」と云うんだろう。
寂しい目をしながら、「じゃあ仕方ないね」と笑うんだろう。
だから冗談でも、拒否の言葉なんか云えない。
「…確か、8月7日は北海道の方は七夕でしたっけ」
「え?ああ…うん」
「7月7日は雨でしたから…あちらで天の川、見られるといいですね」
聖さまが、ゆっくりと微笑む。
「そうだね」と祐巳にしか見せない様な、笑顔で。
思わず、溜息をつく。
どうやっても、聖さまには敵わない。
「美味しいもの食べて、花火大会見て、織姫と牽牛を冷やかそう」
後書き
執筆日:20040831-20040906
「聖さまの封筒の謎」、解明(笑)
謎って云ったって、解る人には解っていたみたいですけど。
日記にそれとなく書いていたので。
大判封筒の中にはチケットとパンフが入っていました。
江利子さまから格安で譲って貰ったらしいです。
江利子さまもご親戚からのツテで取ったものだったので破格の値段だった模様。
それこそ祐巳ちゃんや祐巳ちゃんのお母さんのみきさんも安心価格。
さて。どうしますかねー
旅行編、読みます?
でも次はちょっと本編をば。