小さな恋のメロディー




『ホウリベ?あの、祝、って書く?おめでたそうで良いお名前だこと』
苗字の音を聞いて、漢字を云い当てられたのは、あの時が初めてだった。

押入れの襖を開いて、ちょっと奥の方にある、それを私は取り出した。

…薄紫色の、表紙。

それをそっと撫でる。
ツキン、と胸に痛みが走った。

あれから、もう二十年以上が経とうというのに、まだ、この痛みを感じる自分に苦笑した。

表紙を開くと、見返し部分に自分の名。
もちろん、それは私が書いたものではない。

『祝部みきさんへ』

その名の左下に、綺麗な、綺麗な文字。

その文字を、そっと指で辿ると、これを書いてくれた人の、おぼろげな姿が脳裏に浮かんだ。


「……さーこさま」

久し振りに、その名を口にした。





『祐巳の事、宜しくお願いしますね』

何故、あんな事を口にしたのか、自分でも不思議だった。
ただ、あの時は、そう云いたかった…それだけなのかもしれない。
けれど、急にそう云われた佐藤さんは困惑したような、探るような目をした。
無理もない。
そんな事を急に云われれば、誰だって困惑もするし、探りもするだろう。

…それでも、あの時そう云いたかったのだろう。
娘が信頼し、その身を預けられる人に。
娘を、優しい眼差しで見守ってくれている、その人に。






『サインを下さい』

そう云って指し示した処に、さーこさまはどんな本か確かめる事もせず、サインをして下さった。
さーこさまとは、それからは話す事も殆どなく。
リリアンを卒業されて、花寺に通っていた許嫁と結婚されたのだろうとだけ、思っていた。
誰、とか、そういう事は一切解らなかった。

それから、自分自身もリリアンを卒業し、彼と出会い、そして今、福沢姓を名乗っている。
子供も、ふたりいる。
彼に似た、まるで双子のように良く似た女の子と男の子。

娘はリリアン、息子は花寺へ通っている。

そして娘が高等部に上がり、リリアン高等部の伝統の姉妹を持ち……二年生の体育祭の時、私は『さーこさま』に逢った。

いいえ、さーこさま本人ではない。

『小笠原祥子です』

そう云って、微笑んだ娘の『姉』は、既に遠い思い出の中におぼろげに微笑んでいた『さーこさま』を私に思い起こさせた。
まるで妖精のように柔らかな雰囲気を持っていた『さーこさま』に、ほんの少し凛とした雰囲気をプラスして立つ娘の『姉』は、間違いなく『さーこさま』の娘だった。

これは、不思議な縁だと思った。
あの日、『妹にして下さい』と冗談めかして云った人の娘の妹に、私の娘がなったなんて、と。


リリアンでは『姉妹』は特別な意味を指す。
下級生は上級生に憧れ、時には恋心を抱く。
上級生も、下級生を愛しむ。
そして、沢山の上級生下級生が、自分の『姉妹』を見つけ出す。

…時には、姉妹以外の人に目を向けてしまう事だってある事も、知っている。

よく、娘も浮かない顔をしていたり、部屋で泣いていたりしていた。
よく、嬉しそうにしていたり、そわそわと落ち着かなさそうにしていた。

母親だから、察する事も多々あった。
リリアンの卒業生として、察する事も多々あった。

だから。
その娘の一喜一憂する相手が、少しずつ変化していた事にも、気付いていた。


その気持が、一過性のものであろうと、この先も続くものだろうと。
私は娘の行く先を、母親として、リリアンの先輩として、人として、見守ってやりたい。
そう思う。


あの時、私がさーこさまに感じていた気持は、今となってはもう解らないかもしれない。
でも、あの気持も、『恋』と呼べるものだったかもしれない。
だから、あの時友人の言動に不快感を持ったのかもしれない。

さーこさま。

そう咄嗟に口から飛び出した言葉に、『いいわよ』と云って下さった。
面と向かって、ほんの数回だけ呼んだ、その名。

さーこさま。

……胸に、走る痛み。

きっと、あの時の私の感情は『恋』と呼べるものだった。
とても、とても小さな。
きっと。
多分。



そういえば。
何かの時に、薔薇の館に出入りするようになった頃に娘が云っていた事があった。

「白薔薇さまってば、私の名前聞いて『めでたそうで、いいお名前』って云ってた事があったんだけど…そうかなぁ…ねぇお母さん、どう思う?」



『おめでたそうで良いお名前だこと』
さーこさまに初めて名前を告げた時、苗字の音を聞いて、漢字を云い当てられ、そう云われた。



思わず、不思議な縁だと思った。



執筆日:20050223


祐巳母、みきさん。
頭に浮かんだまま書いていったんですけど…いつも以上にダメダメになってしまいました…(泣)


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