目には見えない『忘れ物』
(聖祐巳)



どうしてだろう。
以前聞いた時は「とても似合う」って思ったはずなのに。

どうして今、こんなにショックを受けているんだろう。

そして、当然、既にその事を知っているだろうあの人が、どう思っているのか考えてしまうんだろう。



今日、3年生は二者面談…進路指導日。
山百合会の仕事もほんの少しだけで、瞳子ちゃんと可南子ちゃんも、今日はいない。
瞳子ちゃんは演劇部の方へ、可南子ちゃんはきっと帰宅しただろうと思う。
だから祐巳たちもササッと仕事を片付けて、帰宅する事にした。



「祐巳さんはリリアンの大学部に進むんでしょ?」

帰り道。
マリア様へのお祈りを済ませ、校門への道を歩きながら、今日が進路指導の日という事で、祐巳たちの間でもそんな話が会話にのぼる。

「うーん…きっとそうなると思うけど…」

幼稚舎からずっとリリアンの祐巳は、多分大学部もリリアンに行くと思う。
もしかしたら、これから何処か別に行きたいと思える所が見つかれば解らないけど。

「志摩子さんは?」

由乃さんが志摩子さんに聞く。
その言葉に乃梨子ちゃんが志摩子さんへと控えめな視線を向けた。
やっぱり、気になるんだろうな、と祐巳は思う。
だって、祐巳も祥子さまの進路が気になっているし。
だから、乃梨子ちゃんの気持はなんとなく解る。

由乃さんの所は、令さまがリリアンの大学部に行くって解ってるみたいだし、家も隣だから、ちょっと羨ましい。

…そういえば、聖さまの大学もなかなか聞けなくて、外部に行くとばかり思い込んで、恥ずかしい事しちゃったんだよねぇ…

消したい過去をうっかり思い出して赤面していると、志摩子さんが「そうね」と微笑んだ。

「やっぱり、私はシスターになりたいと思うの」

サァ…ッと、風が通り過ぎた。
そう思ったのは祐巳だけかもしれない。

今、志摩子さん、何て云ったの?

『私はシスターになりたいと思うの』

そう云った?


「じゃあ、修道院?」

由乃さんがとどめの様に、そう聞いた。
何故そんな事を思ったんだろう…とどめ、だなんて。

「ええ。そうなると思うわ」

静かな笑顔を浮かべて、志摩子さんはしっかりとした口調で云った。

ずっと前、志摩子さんからシスターになりたくて中等部からリリアンに入った事を聞いた。

それを聞いた時、小学生の頃からしっかりとした目標を持っていた志摩子さんの事を素敵だと祐巳は思った。
シスターは志摩子さんにとても似合う、そうとも思った。
だって志摩子さんは、本当にマリア様のように綺麗だと思うし、それこそ幼稚舎からここに通っている祐巳よりも、ずっとずっと信仰心というものがあるんだから。

――でも。

心に風が吹く。
冷たい風が、心を冷やしていく。


以前、シスターになる為にリリアンに進学し、それから数か月後のクリスマスイブに、リリアンを去って行ってしまった人がいたと聞いた。

久保栞さん、という人。

聖さまの、想い人。

その聖さまの『妹』は志摩子さん。

志摩子さんも、シスターになりたい。

聖さまは、志摩子さんのお姉さまだから、その事は当然知っているだろうと思う。

でも…それを知った時、聖さまはどう思ったんだろう。

聖さまが大切に思う二人共が、シスターへの道を歩む事を…


「祐巳さま?」

乃梨子ちゃんが、知らず知らずにうつむいていた祐巳に声を掛けた。
その声で由乃さんと志摩子さんも、祐巳の様子に気付く。

「どうしたの?祐巳さん?」

覗き込んで来る由乃さんに、何とか微笑んで「なんでもないよ」と云いながら、顔をあげようとした。

「やっほー♪」
「…っ!」

声と共にガバッと後ろから抱き締められた。
こんな事をする人は一人しかいない。

今一番、逢いたくなかった…その人しか。

「お姉さま」
「聖さま!」

志摩子さんと由乃さんが突然現れた聖さまに驚いた声をあげた。
そしてすぐに「ごきげんよう」と挨拶をする。

「はい、ごきげんよう。今帰り?祥子や令は?」
「今日は二者面談の日なんですよ」
「ああ、成程。もうそんな時期か…。だけど祐巳ちゃん、どうかした?元気ないね。いつもの怪獣の鳴き声もしなかったし」

後ろから抱き締めている腕を緩めて、祐巳の顔を覗き込もうとする聖さまからスルリと逃れて、少し遅れた「ごきげんよう」を云う。

「ごきげんよう、聖さま…。由乃さん、志摩子さん、乃梨子ちゃん、ごめんね、私ちょっと忘れ物しちゃったみたいだから、取りに戻るよ。先に行っていて構わないから」
「え?」

じゃ、ごきげんよう、と云って、祐巳はそこから離れた。

「祐巳さん…?」

志摩子さんの声が聞こえる。

でも、祐巳の足は早くなる。
何故か、辛かったから。
何故か、涙がこぼれそうになったから。

だから一刻も早く、そこから離れたかった。



「…どうしたのかしら…祐巳さん」

不思議そうに呟く志摩子に私は、祐巳ちゃんの小さくなっていく背中を見ながら「忘れ物、取りに行ったんでしょ?」と云った。

祐巳ちゃんの様子がおかしかったのは、誰の目から見ても明らかだったけれど。
それを必死に隠そうとしていたのを尊重してあげたかった。

「…志摩…いえ、お姉さま」

市松人形の様な髪の志摩子の妹が、遠慮がちに志摩子の袖を引いた。

「何?乃梨子」
「祐巳さま…何か怒っていらっしゃったみたいだったんですが…」
「…え?」

由乃ちゃんが、今はもう見えなくなった祐巳ちゃんの走って行った方を見た。

「怒って…?」
「はい。多分、お姉さまが修道院へ行くと云った、その頃…」
「え…?」

志摩子が驚いた様に目を見開いた。


…違う。
祐巳ちゃんは『怒っている』んじゃない。
いや、『怒っている』のかもしれないけれど、それだけじゃない。


「祐巳さん…どうして…」
「うーん、怒ってるって云うのとは違うんじゃない?」

困惑した表情の志摩子に、私は場違いな程のんびりと云った。

「お姉さま…」
「きっとさ、志摩子が修道院へ行くって聞いて、寂しかったんじゃないのかな。祐巳ちゃんや由乃ちゃんはリリアンの大学部に進むかもしれないんでしょ?志摩子だけ離れちゃうの、寂しかったんじゃない?」
「ああ…そうかも…」

私がそう云うと、由乃ちゃんが合点が云ったと云う様に手を打った。
志摩子は「え…?」と呟いて、少し複雑そうな表情で、私を見る。

けれど私が云えるのはここまでだ。

「さてと。んじゃ私は友達と待ち合わせしてるから。じゃあね」

ぐーっと空へ手を伸ばして伸びをすると、小走りに大学部へと足を向けた。

背中に「ごきげんよう」という声が聞こえる。
それに軽く後ろ手に手を振った。




「確かに、寂しいもんね…志摩子さんがいないのは…」
聖を見送りながら、由乃が云った。

志摩子は「有難う」と云いながら、乃梨子を見る。
乃梨子は由乃と同じ様に、聖の後ろ姿を見ていた。

けれどそれは由乃とは違うものを見ている様だった。

「聖さま、もしかして…」

乃梨子が次第に見えなくなっていく聖の後ろ姿に呟いた。

「え?何?乃梨子ちゃん」

その、ポツリと呟いた声に由乃が乃梨子を見る。

「あ…いえ、別に」

乃梨子は何かを云い掛けたけれど、少し慌てた様に云い繕った。

志摩子が、由乃の視線の死角になる処で、人差し指を立てて、口元に当てていたから。



どうしてこんなに悲しいんだろう。
どうしてこんなに切ないんだろう。

祐巳は、あのロサ・キネンシスがある古い温室に、まるで逃げ込む様にやってきた。
もしかしたら、祐巳の態度を不信に思った由乃さんたちが追って来るかもしれない、そう思って。

でも、ここならきっと、誰も来ないから。
きっと誰にも見つからないから。

ロサ・キネンシスが植えられている処にしゃがみこむ。

前にも、悲しい時にここに来た。
あの時は、空回りした祐巳を誤解した祥子さまに叱られてしまったんだっけ。

そして、こうしてロサ・キネンシスの前にしゃがみこんでいたら、聖さまが来てくれた。

話した内容は、もうあまり憶えていないけど、聖さまが来てくれた事が、素直に嬉しかった。

そんな事を考えながらも、ポトポトと落ちる涙が土に吸い込まれていく。

それを見て、塩分を含んだ水は花に良くないんじゃないか、なんて事を思わず考えた自分自身に祐巳は苦笑した。

…カシャン

硝子が鳴る音にハッと顔あげると、以前の時と同じ様な科白が聞こえた。
違うのは、その人が着ているものが、リリアンの制服ではなく私服だという事だけ。

「やっぱり、ここにいたんだ」

走って来たのだろうか。
少し息を切らせた聖さまが、そこにいた。

「…どうして…」

祐巳は、今この場所に聖さまが現れたのが信じられなくて、ただ呆然と、近付いてくる聖さまを見ていた。
すぐ側まで来た聖さまは、祐巳の目が涙で濡れてるのを見て、ポン、と頭に手を乗せてワシワシと撫でる。

「…どうして、ここに…?」

優しい笑みを浮かべている聖さまに、それだけを何とか口にした。

「祐巳ちゃんが呼んでる様な気がしたからね。呼んだでしょ?
私の事」
「…え?」

濡れている頬を手で拭いながら、そう云う聖さまに、祐巳はここに来てから自分が思っていた事を思い返す。

『あの時は聖さまが来てくれた』
『聖さまが来てくれた事が嬉しかった』

そんな事を考えていた。

本当に、祐巳は聖さまを呼んでいたのかもしれない。


黙って祐巳の顔を見ていた聖さまが、何故か目を見開いた。
けれど、直ぐにフッと微笑んで祐巳の頭をまた撫でる。

「…寂しくなっちゃった?志摩子が修道院へ行くかも知れないって聞いたら」
「……志摩子さんが修道院に行ってしまうかもしれないのは確かに寂しいです…でも…!」
「でも?」
「でも私よりもずっとずっとせ…」

そこまで云って、祐巳はハッと口を閉じた。

これは、祐巳が云っていい事じゃないかもしれない。祐巳が踏み込んではいけない場所かもしれない。
急にそう思った。

聖さまが怪訝そうな顔をしている。

でも、祐巳は口を閉ざしたまま、ただ足元を見つめてた。



急に口を閉ざして下を向いてしまった祐巳ちゃんを、私は覗き込む様にして名前を呼んだ。

「…祐巳ちゃん?」

きゅっと口を結んでいる祐巳ちゃんに途方にくれてしまう。

一体、どうしたと云うんだろう…

私は祐巳ちゃんが口を閉ざしてしまう前後の会話を思い返す。

『……志摩子さんが修道院に行ってしまうかもしれないのは確かに寂しいです…でも…!』
『でも?』
『でも私よりもずっとずっとせ…』

そこで、思わずハッとする。

『デモ、私ヨリモ、ズットズット、「聖サマ」ノ方ガ…』

…もしかして、祐巳ちゃんは…そう云いたかった?

口を結んでいる祐巳ちゃんに、私はそっと、呟いた。

「…私の事、考えてくれたのかな…?」

バッと祐巳ちゃんが顔をあげた。

相変わらずの百面相に苦笑する。
さっきから、その表情が何を考えているのか教えてくれている。

私が「祐巳ちゃんが呼んでる気がした」と云った言葉に、肯定の表情を見せたのには驚いたけれど。

「やっぱりそうなんだ」
「……っ」

止まりかけていた涙がまた、見る見る目に溢れ出す。

「ごめんなさい…っ」

小さな体を更に小さくして謝る祐巳ちゃんに、何故?と問う。

「どうして謝るの?」
「だっ…て…」
「だって?」
「だって…私なんかが…踏み込んじゃいけないって…」
「…栞の事…?」
「…っ」

私が栞の名を口にした途端、ビクッと肩が揺れ、更にその体を小さくした。

ああ、そうか…
以前栞の事を話したけど、祐巳ちゃんはまだその話を憶えていてくれたのか。

そりゃ、そんな簡単に忘れはしないだろうけど。


「祐巳ちゃん…」

けれど、それが解ったからと云って、何故祐巳ちゃんが泣かないといけないのかが解らない。

掛ける言葉を無くしてしまう。
何故こんなに泣いているのか、解らない。

「そんなに泣かないでいいから…何を思ったのか、云って?祐巳ちゃんが何故そんな風に泣いてるのか、私には全然解らないよ?」

そう云ってみても、ふるふると頭を横に振るだけ。

「祐巳ちゃん!」

ちょっと強い口調で名前を呼ぶ。
大きく肩が揺れて、しゃくりあげる声も一瞬止まった。

「…ごめん、なさい」
「何も解らないのに謝られても困っちゃうよ」
「……志摩子、さんが」

やっとの事で、祐巳ちゃんが重い口を重そうに開き始めた。

「うん」
「志摩、子さんが…修道、院へ、行くって聞い、て…私、すごく似合う、て、思っ…たんです」
「うん」

しゃくりあげながら、途切れ途切れに云う祐巳ちゃんに、先を諭すように頷く。

「…前に、聞い、た時は…そう、思ったのに、さっき…聞いた時は…すごく、ショックで」
「…うん」
「……そして、聖さまの、事、思い出して…」
「私?」
「……ごめん、なさい…」
「……」

何故私の事を思い出したからと云って謝る事があるんだろう?

「…聖さまが、志摩子さんから、それを聞いた時…どう思っただろう、って…聖さまの、大切な人達が…シスターになっちゃう…って…」

ああ、そうか…

「…ごめんなさい…聖さま」

それで祐巳ちゃんは泣いていたのか…

私は、まだしゃくりあげている小さな肩を自分へと引き寄せた。

「もういいよ」

胸に引き寄せて、ぽんぽん、と背中を叩く。

「もう泣かなくていいから」
「…っ、でも…っ、志摩子さんがいなくなるのも…っ嫌なんです…っ」
「うん、解ってる」
「こんな事、考えるのは駄目だって、解ってるのに…!」
「もう、いいから…」

祐巳ちゃんを抱き締める腕に少し力を込める。

「解ってるから…」

抱き締めている、その小さな体が、ひどく愛しかった。




「…せい…さま…?」



落ち着いてみると、祐巳は、聖さまの胸に抱き締められていて。

いつも後ろから抱き締められたりするのなんて、もう日常茶飯事みたいになっているのに、それとは何かが違っていて。

聖さまは祐巳のピンチに気付いてくれるし、すごく優しい。

でも…抱き締められた暖かさや、優しさそのものが、いつもとは、全然違っていて。

祐巳はなんだかドキドキしてきてしまった。

しかも先程云った事が半分以上飛んでしまっている今、急に居心地が悪くなって、身じろぐと、聖さまはゆっくりと腕の力を抜いてくれた。

「お。泣き止んだね」

微笑む聖さまの顔が何故か直視出来ず、ちょっとだけうつむき加減に「すいません」と呟いた。

「よし、じゃあ帰ろっか?」
「あ、ちょっと顔洗います」

涙で汚れた顔のままバスに乗るのはちょっと…と温室内にある水道蛇口の前へ行く。

蛇口を捻ると、温室の温かさに温んだ水が出てきたけれど、すぐに冷たい水に変わる。

その水で顔を洗っていると、赤くなり始めた空を硝子越しに見上げながら、聖さまがポツリと呟きを落とした。

「…有難うね、祐巳ちゃん」


聖さまの声まで、いつもより、ずっと優しい。

え?と振り返ると、空を見上げる聖さまが、とても綺麗で…

…何故だか、不思議な気持になった。


fin??



後書き

最終執筆日:20040518

せ、聖祐巳、なんです…(コッソリ)
解らないかもしれませんが…そうなんです。
少しずつ、距離を縮めたい…そう考えているのですが…



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