夜明け前
〜後編〜




冬はどうしても苦手なようだ。
小さな…目には見えない小さな傷が、寒さで疼いてしまうのかもしれない。

去年のイヴ。
栞らしき影を見た私から、祐巳ちゃんは姿を消してしまうという事が…その手が離れ掛けた事があった。
それは、自分で思っていた以上に深い傷になっているのだろうか…。
祐巳ちゃんが、私の過去から目を背ける事が出来ない様に、私も過去から目を背ける事が出来ないのだろう。

栞が私の前から消えた事。
祐巳ちゃんが私の前から消えようとした事。
そのふたつの出来事から目を背ける事が。


…冬は、苦手だ。
寒さが、私を苛むから。









助手席から祐巳ちゃんが私を窺っているのが、解った。

でも…何となく、今は何かをうまく云える自信が無くて、私は運転に集中する。
実際、みんな初詣に出掛けるのか、車が多くなっている。
それにほんの少し降った雪が、ちょっと恐い。

だから、運転に慎重になるのも、集中してしまうのも、仕方が無かった。

…なんて、こんなのは言い訳だって、解っている。






祐巳ちゃんに逢うまで、正直恐かった。
クリスマスイヴの夜、祐巳ちゃんの本心というのかな…心の中に仕舞ってあっただろう事を、たった一杯のシャンパンが解き放ってしまったから。
だから…祐巳ちゃんは私に逢ってくれないんじゃないか、と…そう思った。

祐巳ちゃんが懸命に隠していた事を、私が知ってしまった。
他でもない、祐巳ちゃん自身の言葉によって。

実際に、25日の朝…祐巳ちゃんは少しだけ戸惑っているような余所余所しさがあった。
無理もない、そう思って私は努めて普段通りに接した。
『気にしてないよ』と云う様に。

だから…電話で初詣の誘いをしたときも、いい返事がもらえないんじゃないかと思った。
正直、その電話でさえ、掛けるのに相当に勇気が要った。
掛けてしまえば…まぁ、断れないように先に応対してくれた小母様に根回ししてしまったんだけど。
『一度夜にお参りとか、してみたいなぁ…なんて思いまして。祐巳ちゃんもきっと夜にはお参りした事無いですよね?如何でしょう、やはり夜遅くですから、いけませんか?』なんて私もよく云えたものだ。
そんな私に小母様は二つ返事で了解してくれたのだけれど。
そうなれば、祐巳ちゃんに私の申し出を断る事なんて、出来ないから。

我ながらズルイな、と思う。
でも、それでも…どんな手を使ってでも、私は祐巳ちゃんに逢いたかった。

…解ってる。
これが『依存』と云えるかもしれないという事は。

もしかしたら…また私は栞の時のように両手を祐巳ちゃんに差し出しているのかもしれない。
それだけは、避けたい。
あの時の二の舞は御免だから。
そう思っている…のに、今はただ、祐巳ちゃんの温もりが欲しかった。

…祐巳ちゃんに逢って…触れる事が出来たら…それだけで、いい。
そうすれば、きっと、今直ぐにも私を覆い隠してしまいそうな、この黒いものを払拭出来るんじゃないか…なんて。
心の弱い私は、『私』を支える『強さ』が欲しかった。




一人暮らしをはじめてから、殆ど家には帰っていなかった。
だから、覚悟はしていた。
多分、いなかった分を埋める為の干渉を受けるだろう事は。

『自由』な生活を知ってしまった今、私にとっての家は安息の場では無くなってしまっているのかもしれない。
勿論、金銭的に完全な自立を果たしていない身分だから、いつでも親の息が掛かっているようなものだけれど。
完全な自活が出来るようになるまでの、仮初めの『自由』ではあるけれど。
でも、だからこそ…過干渉はちょっとツライだろうな…と、覚悟はしていた…けれど。

『聖ちゃん、一人暮らしはどう?不自由していない?』

…そこまでは、いい。

『聖ちゃんの事はいつでも心配しているのよ。きちんとご飯食べているかとか…お勉強に差支えはないかとか。聖ちゃんなら何も心配する事なんて無いって、お母さんもちろん信じているけど…でも心配してしまうの。だって貴方は私たちの大切な娘なのだから…お母さんの気持ち、聖ちゃんなら解ってくれるわよね?』

…でもここまで聞くと、もう勘弁して欲しくなる。
そのままリビングに居ようものなら、父親や親戚やら、色んな人の話が登場し始める。

母親は、信じているんだそうだ、私を。
心配しているんだそうだ、私を。
そして、期待通りに動いて欲しいのだろう…私に。
理想通りに、歩んで欲しいのだ…私に。

『信じている』
その言葉で縛るのだ。
勘弁してほしい。
お願いだから。



私に、一体『何』を望むのか。
何故、私を育てたのに、私の気質を見ないのだろうか。
…それは、他ならぬ私自身が隠していたのかもしれないけれど。

だって。
幼い子供にとって、『親』は子供の世界の最たるものだろうから。












「祐巳ちゃん、駐車場に車入れるから、先に部屋に行っててもらえる?一週間空けていたから、冷え切ってると思うけど…」
「あ…はい。解りました」

エントランスの入口前に祐巳ちゃんを降ろすと、私は地下駐車場へと車を入れる。
部屋の鍵の確認をされなかったという事は、祐巳ちゃんは合鍵をキチンと持っていてくれているようで、それをとても嬉しいと思う。
私はいつもの場所に車を駐車すると、小走りに部屋へと向かった。

…我慢なんて、もう出来ないから。
限界が、近かったから。



部屋に入ると、明かりが私を出迎えた。
ポッ、と気持ちが暖かくなるような、そんな感じ。
コートも脱がずにボンヤリと部屋の中を見回していた私に、キッチンにいた祐巳ちゃんが気付いて近付いてきた。

「今お湯沸かしてますから、沸いたら…」

全部は云わせてあげられなかった。
私は、近付いてきた祐巳ちゃんを、抱きしめてしまっていたから。
…まるで食虫植物。
触手に触れた途端に蓋を閉じるウツボカズラみたい。
いや、絡め取ってしまった事を思うと、モウセンゴケも方が似合っているかも。

「…聖、さま?」
「…黙って」

しっかりと、胸に抱いて、私は『祐巳ちゃん』を堪能する。

ずっと、こうしたかった。
祐巳ちゃんの家に行って、小母様の後ろのリビングのドアから祐巳ちゃんが姿を見せた時から。
私の体全部で、祐巳ちゃんを感じたかった。

「聖さま…」

心配そうな、声。
ゆっくりと私に体を預けて、余計な力を抜く祐巳ちゃんに、私は泣きたくなる。

優しさと云うのは、こういうものだと思う。
気遣うと云うのは、こういう事だと思う。

あの親たちに、教えてやりたいけど…絶対、解らないだろう。


「…私、いますよ…聖さまの傍に。だから、安心して下さいね」


こらえていたものが、頬を滑り落ちて行くのを感じながら、更に祐巳ちゃんを抱きしめる腕に力を込めた。








湿っぽい空気がなくなるまで、私は祐巳ちゃんを抱きしめていた。
けれど、微かに聞こえるシュンシュンという音に気付いた祐巳ちゃんが身動ぎする。
ゆっくり腕の拘束を外すと、「ちょっと待ってて下さいね」と、祐巳ちゃんはキッチンへと急いだ。
そして、お湯が沸いたのを確認すると、コンロの火を消し、また私の前に舞い戻ってきた。

「…聖さま…ここに来たのは何故なんですか…?もしかして…何かおうちでありました?」

心配そうな目をして私を見上げる祐巳ちゃんに苦笑しながら肩を竦める。
着たままだったコートを脱いで、ソファの背に掛けると、私はそのままソファに腰を下ろした。
私を追って、祐巳ちゃんもソファに座った。

「聖さま…」
「…ここに来たのは…」
「…は」
「ここに来たのは、祐巳ちゃんに触れたかったから」

真っ直ぐに、祐巳ちゃんを見据えて私は云った。
そう…祐巳ちゃんに触れたかったから。
もうずっと。

たった一週間。
されど一週間。

気持ちが疲れてしまっていた私の、望み。
それは祐巳ちゃんと逢って、祐巳ちゃんに触れる事だった。

『依存』などはしたくない。
必要以上に寄り掛かる事はしたくない。
祐巳ちゃんの負担になる事だけは、避けたい。

けれど…こうしてしまう事は、負担になってしまうのではないのだろうか…




「せ…い、さま?」

祐巳ちゃんが不思議そうな顔をして私を見ている。

「…聖さま…来週にはこちらに戻るんですよね…?」
「うん」

7日を過ぎたら、この部屋に戻ってくる予定だ。
一週間後に。
そう…まだあと一週間、家に居なきゃいけないのだ。
他人から見れば、何を大袈裟な…と思うかもしれない。

でも。
コレは理屈じゃなかったから。
なんとしても…祐巳ちゃんに逢いたかった。
逢いたかったから。

だから。

「祐巳ちゃんに、触れたかったんだ…迷惑?」
「…!いいえ…っ」

迷惑なんて…!
そう祐巳ちゃんが必死に云う。


なんてズルイんだろう…私は。
こんな風に云われれば、『迷惑だ』なんて云えるはずもないのに。

段々、自分のやっている事に冷めてきた。
なんて莫迦な事をやっているんだろう…
自虐的な笑みすら、こぼれそうになる。

そう、根本的な事を、失念してしまう位に。
祐巳ちゃんの表情が曇ってきている事にも、気付かない位に。

「…また、私の事、忘れてますね…」

祐巳ちゃんが、俯いて唇を噛んでいる。

「逢いたかったとか、触れたかったとか、云う割りに…聖さまは私を忘れてしまうんですよね」
「…え」
「私、前に云いましたよね…聖さまはご自分しか見えなくなる時があるって。それが悪い事だなんて思ってません。誰だって同じですから。でも…聖さまはそんな時、本当に聖さまご自身しか、見なくなる。私の言葉を、一切聞いて…いいえ、信じてくれなくなる」


夏の…あの暑かった北海道での出来事。
『聖さまの莫迦!』
そう云ってバスルームに閉じ籠もってしまった祐巳ちゃん。
『聖さまは、どうして私から目を逸らしてしまうんですか!』
泣きながら、バスルームのドア越しに云う祐巳ちゃんの声を、私はなす術もなく聞いていた。


あの時の息苦しさ…切なさが、私を取り巻いた。
愚かな自分に腹立たしさすら、感じたあの時。
その全てが、甦る。

「…もしかして、イヴに私が云った事も、聖さまを悩ませている原因のひとつだったりします、か…?」

俯いたまま云う祐巳ちゃんに、ハッと私は俯き掛けていた顔を上げた。

誤解させている。
そうだ。
私がこんな態度を取っていれば、祐巳ちゃんならそういう考えを持つのは当然だった。

「それは、違うから」

はっきりと、告げる。
祐巳ちゃんの言葉は関係無いと。

…いや、全くの無関係ではないかもしれない。
祐巳ちゃんの言葉を聞いたから、私は祐巳ちゃんに避けられるのではないかと恐くなったのだし。
あの言葉を聞いたからこそ、祐巳ちゃんに逢いたい…触れたいと想いを募らせていたんだから。

でも決して祐巳ちゃんは考えているような事ではない。
祐巳ちゃんは、自分の言葉に私が悩んでいると、辟易していると考えているみたいだから。
だから、それは違う。

「…ただ、気持ちが疲れてるんだ…だから、祐巳ちゃんに逢いたかった。祐巳ちゃんといると、気持が安らぐから…ホントに」
「それなら、『迷惑』か、なんて聞かないで下さい…私がそんな風に聖さまを思う訳無いんですから。そういう私の気持を忘れないで下さい」



寒さが、私を迷わせる。

「ねぇ、祐巳ちゃん」

寒さが、私を弱くする。
寒さが、私を苛む。
凍えてしまった私の心は、まるで機械か何かの様に誤作動してしまう。
普段なら、気にも留めないような言葉にも揺れる。
親の何気無い言葉とかにも。

傷なんかつかない。
でも、疲れてしまう。

「…なんですか?聖さま」
「祐巳ちゃん…」
「はい…?」

そんな私を温めてくれようとしてくれる人はきっと沢山いるに違いない。

…でも私を温め、そして癒す事の出来る人は…多分ひとりだけかもしれない。


「私を…温めてくれる?」






祐巳ちゃんは、私の言葉を『正しく』理解してくれたみたいだ。

それが嬉しくもあり、照れ臭くもあり。
ソファの上に体を横たえて祐巳ちゃんの唇を唇に受けながら、気恥ずかしさに笑みがこぼれる。

「…くすぐったい」

唇が離れた時に、呟いた。

「下手くそだって、云いたいんですね?」
「違うよ。そうじゃなくて…」

コレが、とトレードマークのふたつの髪の片方を軽く握る。

リボンを解いて、ゴムを外して。
そして手ぐしで髪を梳く。

「あ…もう…また結い直さなくちゃいけないじゃないですか」
「私が解かなくでも、直に乱れてしまうよ」
「…乱さないで下さいよ」
「やだ」

そう云ってもう片方も解いた。

「ほら…まだ冷えてるから、温めてよ」
「…もう」

うん、と目を閉じて唇を突き出す。
ゆっくりと触れさせてくる温かい唇…密着している体。

唇を温めてくれている内に、段々と私と祐巳ちゃんを遮っているものが邪魔になり出していた。

「もっと…きちんと温めてよ」
「え…」

祐巳ちゃんが首を傾げた。
私は微笑んで、祐巳ちゃんのセーターの中の温かな背中に手を差し入れた。

「ひゃん…っ!」
「祐巳ちゃんの全部で、私を温めて」



逢いたくて、触れたくて。
ソレだけが目的なんかじゃなかったけど。
でも、肌に触れてしまうと歯止めが利かなくなってしまう。

よく、去年までの私は我慢出来ていたものだ。
気持を自覚してから、去年初めて肌を合わせる前までの、私は。

ていうか…今の私の我慢が足りなくなっているのだろうか。
私の汗ばんだ背中に腕を回して切なげな…艶めいた表情を浮かべる祐巳ちゃんに、そんな事を考えている冷静な思考は、今にも飛んでしまいそうだけど。

そう。去年なんだ。
ふと、私はそう思って口元に笑みを浮かべる。
ふたつの年にまたがって、一緒にいる事が出来た。
昨年や一昨年は年が明けてからの逢瀬だったから。

でも今年は。

愛しい腕に引き寄せられて唇を重ねて、私は思考のスイッチをオフにした。






夜が明ける前に、車に乗り込んだ。

ぬくもりと、『何か』を乗り越える為の力を、私は君から貰った。
もう大丈夫。
寒さに負けたりなんかしない。

でも…私は何か君にあげる事が出来るだろうか?
いつでも、君は私にばかり与えてくれるから、時々心配になる。
私に出来る事なら、なんでもしよう。
君に少しでも貰ったもののお返しを出来るように。

「聖さま」
「何?」
「また明日、お参りに行きませんか?」

助手席で、祐巳ちゃんが笑う。

「あの神社に、行きません?去年とおととしに行ったリリアンの傍の」
「いいけど…どうして?」
「実は…私、忘れられなくって…あの神社」
「んん?なんで?」

そう云う私に、ほんの少し頬を染めて、祐巳ちゃんは笑った。


「またタコ焼き食べあいっことか、しましょうよ。去年やおととしみたいに」

初めてふたりで初詣した神社。
祐巳ちゃんの中で楽しかった事として残っているようだ。

「でも、巫女さんに色目使ったら、厭ですからね」

しっかりと、釘を刺される。
釘なんか刺さなくても、そんな事はしないのに。


「私だけ、見てて下さい…今年も」



最終執筆日:20050110



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