一本橋を渡るように・1








…まるで、あの梅雨の日の再現のようだった。
ただ違うのは、あの時の様に雨は降っていなくて。
めっきり早くなった夕暮れに空が赤く染まり始めていた。

そして…もっともあの時と違うのは……祐巳の、気持ち。













だって、どうしようもないじゃないの。
あの子は、あの人を求めてしまったんだから。
どうしようもないじゃない。

だけど私は、あの子の『姉』だから。
『姉』で居続けなければ。

それだけは、あの人にも譲れない。

この絆は、私の最後の砦。








思わず、願望が口から零れていた。

「お…姉さま…」

祐巳が、驚いた様に…困った様に私を見ている。
そんな祐巳を見て、私は自分が思った事が『声』になっていた事に気付いた。
いたたまれなくて、私は「行きましょう」と歩みを再開させた。

祐巳は、固まってしまったかの様に、その場から動かなかった。

私は、その祐巳を待つ事なく薔薇の館へと歩く。
出来るだけ、ゆっくりと歩く。

薔薇の館にたどり着き、その扉を開く時、そっと今来た道を見た。

少し離れて祐巳がついてきていると、そう思っていたのだけれど…
私の後ろには…誰も、いなかった。





「ごきげんよう、祥子さま」

ビスケットの扉を開くと、まずは控めな声が聞こえて来た。
そして次々と聞こえて来る「ごきげんよう」の声。
自分も「ごきげんよう」と云いながら、定位置になった椅子に座った。

以前はお姉さま…前紅薔薇さまの蓉子さまが座っていた場所。
そこに、私は座る。

「今日は遅いね、祐巳さん」
「ええ…どうしたのかしら」

由乃ちゃんと志摩子の声に思わず揺れそうになった肩に自分で慌ててしまう。
でも、それに気付いた者は居ないようで、ホッとする。

その時、キシキシという階段が軋む音が聞こえてきて、カチャリとビスケットの扉が開いた。

「…遅れてしまい申し訳ありません」

祐巳が、ぺこりと頭を下げた。

「…会議を始めるから、早く席にお付きなさい」

私はそれだけを云うと、資料を手に取った。
そんな私に、祐巳を除いた人間が訝しげな表情をして私を見た。

「…令、クリスマスのミサの前の件だけど」
「え?あ、ああ…うん」

急に話を振られた令がハッとした様に資料に目を落とした。






手元の資料に目を落としている様に見える祐巳。
けれど、その内側では先刻私が落としてしまった言葉に囚われてしまっているだろう。


由乃ちゃんに話しかけられても、反応しなかったりという事を何度か繰り返している。


そんな祐巳の為では無く、ただ仕事がひと段落したので、今日は早めに終了させる事にした。

「…じゃあ、今日はこの辺りで…」
「ああ、そうだね。…祐巳ちゃん?」

令に名を呼ばれても気付かない祐巳に志摩子が腕に手を置いて「祐巳さん」と揺すった。


「え?志摩子さん、何?」
「祐巳ちゃん、どうしたの?」
「え?令さま?」
「…ダメだコリャ…」

令が困った様に笑うのを見て、祐巳は首を傾げた。

いつもなら「何をボーッとしているの!」と叱る処だけれど…私は今の祐巳の状態に正直、歓喜していた。

私の言葉が、祐巳の心を捕らえている。
私の言葉に、祐巳の心が囚われている。

あの人に奪われた、祐巳の心が、今は確かに私の云った言葉に支配されている。

それが嬉しい…などという事を思っている。

…浅ましい。
反面で、そんな自分をそう思うのだけれど…どうしようもなかった。








「一体、何があったの?」

志摩子に連れられて帰っていく祐巳を窓から見詰めている私に、令が声を掛けてきた。
いつの間にか、由乃ちゃんや一年生達の姿はなく。
この部屋には私と令だけになっていた。

「何が…って、何かしら」
「とぼけないでよ…祐巳ちゃん見ていれば一目瞭然でしょう?それに祥子、貴方もね」

「私?」

令の言葉に眉をひそめる。
私の、何が?

椅子を引いてそこに腰を下ろすと、令は私に何処か気の毒そうな目を向けてきた。

…何故、そんな目で見られなければいけないのだろう。

「ここに来る前に祐巳ちゃんと何かあったんでしょう?祥子が、遅刻したりボーッとしていたりしてる祐巳ちゃんに雷のひとつも落とさないなんて不自然よ」
「そんないつでも祐巳を叱ってばかりいる様に云わないで頂戴」

思わずムッとして云う私に、令は溜息をつく。

「私が気付かないと思った?今日の祥子はいつもと違った。祐巳ちゃんを常に気にしながらも何も云わない。意見を求めない」

確かに、いつもなら祐巳に意見を一度は求める会議中でも、今日はそれをしなかった。

だからと云って、何故それだけで『いつもと違う』などと…

「…私ね、祥子…前からずっと考えていたのよ」

令の雰囲気が急に変わったのに私は気付いて首を傾げた。
何を考えていたというのだろう。

「…何?」
「祥子…貴方と祐巳ちゃんと、そして聖さまの事」
「…え?」

何故、令が知っているのだろう。
お姉さまや志摩子以外に知っている人間がいる筈は無いと思っていた。

祐巳の心を、聖さまに奪われてしまった…という事…
…その事実を。

「前に、祐巳ちゃんの様子がおかしく…食事が喉を通らなくなった事、あったでしょ?」
「…ええ」
「その後に、由乃が私に云ったの。『祐巳さんは誰かに恋をしているんじゃないか』…ってね」
「…」

由乃ちゃんは祐巳の親友だから。
だから、何かを察した…という事なのだろうか。

「私も、あの時思ったのよ。祐巳ちゃんがご飯を食べられなくなっていたあの時。恋煩いなんじゃないか…なんて」

頬杖をついてトントン、とテーブルを指で軽く叩きながら令が云う。

あの時の祐巳の様子から、そんな事を考えていたなんて。
…私には、全く解らなかったというのに。
…祐巳が私以外の人間に心を砕くなんて、そんな事思いもしなかっただけだけれど。

「由乃からその話を聞いた時、ちょうど銀杏並木を歩く祐巳ちゃんと聖さまを見た。…それで、想像や予測が確信に変わったの。祐巳ちゃんと聖さまの、お互いを見る表情や雰囲気で」
「…そう」
「そう、って、祥子…」
「どうしろって云うの」

思わず、口調がきつくなる。

だって、どうしろというのか。

祐巳の心は聖さまへと向いてしまった。

私が、気がつかない内に。
私が、知らない内に。

祐巳の心は、聖さまに奪われてしまったのだ。

去年の今頃…いえ、今より、少し後。
あの『いばらの森』という小説を聖さまが書いたのではないか…という噂が立った、あの頃。
購入した本を読むのを躊躇していた私に祐巳が云った。

白薔薇さまの事が好きだから、本を読むと。

勿論、あの『好き』は先輩に対する親愛の情だと思う。
その感情が、いつ、どこで祐巳の中で変化してしまったのだろう。

そして、祐巳の中で変化してしまったそれを、私にどうする事が出来るというのか。

志摩子は、気付いていたという。
静かな瞳で私を見ながら云った。

『……見ていて、気付いたんです…お姉さまの気持ちも、祐巳さんの気持ちも…』

そして、それでいいのかと、平気なのかと聞いた私に志摩子はこうも云った。

『…私は……祐巳さんが元気になってくれさえすれば…それで』



令や由乃ちゃんにも、解ったという祐巳の変化。

「…どうしろって…云うの」


未だに、あの時の志摩子の言葉の意味も、本当は解っていない…私に。



…to be continued


執筆日:20041013


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