amnesia
-11-
蓉子が残して帰ったものは、写真だけじゃない。
それは、知りたかった事と、そして知りたくなかった事。
白いマリア像が、私を見下ろしている。
マリア像はふたつに分かれた道の分岐点に立ち、そしてこのリリアンに通う子羊たちを見守っている。
いや、見守るのではなく、選別しているのかもしれない。
可とか、不可とか。
もしくは見張っている。
美しい、マリア様。
けれど、恐ろしいマリア様。
私は何故、この世に産み落とされたのですか?
「聖さま」
「ごきげんよう、聖さま」
薔薇の館に行くと、小笠原祥子と令という子と、そしてバネのような髪の子とあの子がいた。
祥子と、令が私に挨拶してきた。
あの子は驚いたような、どうしていいか解らないような目をして、小さく「ごきげんよう」と云った。
「ごきげんよう」
素っ気無く、そう返してから、私はあの子の方を見た。
そして、「祐巳ちゃん」と彼女を呼んだ。
皆が、ハッとした顔で私を見る。
そこに志摩子という子と市松人形のような髪の子がビスケットの扉を開いた。
「…え?」
祥子が、声を洩らした。
その表情は、困惑気でそれでいて何処か滑稽だった。
「祐巳ちゃん、昨日はお粥有難う。あと…驚かせちゃって、ごめんね」
「…聖、さま…?」
訝しげに私を見る。
私は微笑みながら手を差し出した。
「ちょっと…お詫びも兼ねて…話せない?」
そう云って、私はビスケットの扉に目を向けた。
目で、『外に出ろ』と告げる。
「祥子、祐巳ちゃん借りていい?」
「え?あの…聖さま…?」
祥子の答えを聞く前に、私は私より小さなその手を握った。
その感触に、眩暈がしそうになる。
私の体が、記憶する…この子の全てに。
「聖さま…?貴方は…」
志摩子という子が、ビスケットの扉の前に立ち塞がる。
私は志摩子という子の横をすり抜けようとしながら云った。
「ちょっと通してくれるかな?祐巳ちゃんに少し話しがあるの」
そう云って、私は志摩子という子の横をすり抜けた。
一瞬、毒気を抜かれたような顔をして通してしまったようだけど、直ぐにハッとした様に「聖さま!」と私を呼ぶ。
それを無視し、階段を下りると、直ぐそこにあった資料室の扉の中に入り、扉の鍵を閉めた。
階段をギシギシ云わせながら下りてきて、扉を開こうとする音に、祐巳さんが戸惑う目で私を見た。
その内、開けないと悟ったのか、扉の外は静かになった。
「聖さま…」
握っていた手を…祐巳さんの手を離すのを嫌がっている私の手を、無理矢理に離す。
「色々、解った事があるの」
「…え?」
戸惑うような目で私を見る。
その目が、私の苛立ちを増幅させてくれる。
私は、ゆっくりと、微笑んだ。
「祐巳ちゃん」
そう、名前を呼ぶと、目を見開く。
けれど、騙されてはくれないみたいで、その目は怯えた色に変わる。
「携帯電話の中の、画像とかね…見たのよ」
「画像…?」
「そう、画像。『私』が、貴方を撮っていたのを、ね。それを見て、解った事があるのよ」
祐巳さんの頬に、手を伸ばす。
触れた途端、指先に痺れるような感触。
この頬の柔らかさを、温かさを、私の体は知っている。
「『私』が貴方を好いている事を…そして貴方も『私』を好いてくれている…という事」
包むように頬に触れて行く。
祐巳さんの目が、私を探っている。
表情が、私が何をしようとしているのか、困惑しながらも何かに期待しているようなものになる。
「ねぇ…祐巳ちゃん…」
ゆっくりと、顔を近付ける。
「貴方も、結局は『私』しか見てなかったのよね」
祐巳さんの目が、ハッといたように見開いた。
逃げようとする体を、抱き寄せた。
途端になんとも云い難い気持ちになった。
体が、私の意志に反して強く抱きしめる。
「聖さま…っ」
「どうして逃げようとするの?」
耳元に囁く。
すると、逃げ出そうともがいていた体がほんの一瞬、止まる。
「昨日、云ったわよね…『聖さまは“聖さま”なのに』って。でも結局は貴方も私じゃない私を見ていたんでしょ?」
「ち、違…っ!」
私の胸に手を置いて引き離そうといながら、いやいやするように首を横に振る祐巳さんの頬に指を滑らせる。
「やめて下さい…っ」
ドン、と私の体を押し退ける。
けれど私は祐巳さんを逃げられないように壁際に追い詰めた。
「今まで甲斐甲斐しくしてきたのだって、私にじゃない」
「違います…!そんな事私考えてなんか…っ」
「一度も考えていないって、云い切れるの?どうして?そんな訳ないじゃない。誰だってそう思うはずじゃない」
そう。
誰も私を見てなんか、いない。
誰もが、あの写真の中で笑う私に返る事を待ち望んでいる。
私に早く、あの私に帰れと。
「そう、誰だって…」
「そんな……だって…聖さまは『聖さま』だから…私は、貴方だから…貴方が好…」
そこまで云って、祐巳さんの言葉が途切れた。
私が、その唇を塞いだから。
体が、勝手に動いてしまった。
どうしようもなく、なってしまった。
気がつくと、その唇を自らの唇で塞いでいて。
その唇の柔らかな事に、甘い事に私の背筋に云い様のない『何か』が走る。
女の子、なのに。
この子は私と同じ、女なのに。
初めての接吻、なのに。
ゆっくりと離れると、祐巳さんの体がずるずると崩れて、ペタンと床に座ってしまった。
私はそれを茫然と見詰めていて…
扉が開いたことに、気付きもせずに、茫然と祐巳さんを見下ろしていた。
小気味いい音と共に、頬に衝撃を感じた。
「何をしているの!」
腕を掴まれて、向き直されて、そこで初めて扉が開いている事に気付いた。
「聖!貴方何をしているの!」
「……蓉子?」
目の前に居る人間を、認識して間の抜けた声を出した。
「祐巳!」
「お…姉さま…」
足元から聞こえてくる声に目を向ける。
祥子が、祐巳さんの肩を掴んで自分に向かせていた。
顔を上げた祐巳さんの顔は、涙に濡れている。
「何をしているの…!祐巳ちゃんに何をしたの!」
蓉子が、怒りながらも困惑した顔で云う。
何…?
私は…
「聖さま…貴方は私から祐巳を奪って行ったのに、何故祐巳を傷付けるような事をするんですか…!」
「お姉さま…っ」
祥子の声に、祐巳さんがハッとした様に祥子の顔を見る。
「違います…そうじゃないんです…!」
「何が違うって云うの!現に貴方は聖さまに連れ出されて、ここに閉じ篭って…何を云われたの?何をされたの…こんな…涙に濡れた顔で…!」
「キス、したのよ」
「!」
皆が、私を見る。
いっそ小気味いいくらいに責めるような目で。
「嫌がる祐巳さんに、無理矢理ね…そんなに『私』が好きならキスしてあげるって」
「聖…!何故そんな事を…!」
蓉子が、絶望したような顔で云う。
「ちが…っ!そうじゃ…!」
祐巳さんが叫ぶ。
でもその時、私の頬を新たな衝撃が襲った。
「祥子!」
「お姉さま!やめて下さい!」
「放して!祐巳!」
「違うんです…!そうじゃないんです!」
「どうして貴方はそんなにされてまで聖さまを庇うの…!」
祥子の叫びに祐巳さんは祥子を見詰めて、はっきりと云った。
「庇ってません…それに聖さまがさっき云った事は嘘です…」
「祐巳…」
「ごめんなさい、お姉さま…有難う御座います」
祐巳さんはそう云うと、私の顔を見た。
「聖さま。聖さまは、『聖さま』です。たとえ何を忘れたって、変わってしまったって、貴方は『貴方』です。私は…貴方が好きです」
「聖!」
「聖さま…っ!」
背中に、私を呼ぶ声が当たる。
私は、どうしようもない気持になって、その場から逃げ出していた。
…to be continued
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『amnesia -12-』
20050307
postscript
恐かった。
なんのためらいもなく、私を『好き』と云うあの子が。
そして、その言葉に反応してしまいそうになった自分自身が。
あの子に近付きたい…そう思ってしまった、私自身が。
とても、恐い。