amnesia
-12-







こんなに、恐いと思った事は、一度だって無かった…そう云い切れる程、恐かった。









私はまるで吸い込まれるように、導かれるように此処にたどり着いた。

所々割れてしまっている窓硝子。
少しの鉢植えと、土に直植えされた薔薇たち。

恐怖に駈られ、走ってきた私の冷えた頬に、中の空気は2月にしては暖かかった。
古くなって毀れかけているとはいえ、温室には変わりないのだろう。

鉢植えが置かれている棚の上の空間に私は腰を下ろした。

まるで、小さな箱庭。
そんな風に思えた。
小さな鉢には今は葉も落ちてしまっている薔薇らしい苗木。
鉢植えも直植えのものも、春が来るのを心待ちにしているように見えた。

気持が、ゆっくりと凪いできた。
ようやく、私は息が出来るような気がしてきた。



その時、カタン、という音がして、私はハッと身構えた。
入口に、あのバネのような髪をした子が立っていた。

「入って、宜しいですか?佐藤聖さま?」

フルネームで呼ばれて、私は「ええ」と頷く。
直感的に、この子は危険だ、と脳が云う。
何故かは、解らないけれど。

「やはり、ここにいらしていたんですね。以前、私は貴方に此処に連れてきて戴いた事があったので、もしやと思って来てみたのです」
「…そう。で?私に何の御用?」

そう、私が聞くと、「さぁ?」と笑う。
思わず、ムッとする。

「じゃあ何故来たのかしら」
「貴方の情けないお姿を見に…ですわ」
「…どういう事よ」
「今の貴方は知らないのでしょうけれど、以前此処に私を連れていらした貴方は、それはそれはこの私に『優しく』ご指導下さったので。その貴方が私におっしゃった事を、そっくりそのままお返し致したく思いましたの」

上から見下ろすような、その態度に段々イラついてくる。
一体、この子はなんなんだろう。
私に何を云いたいのだろう。

確かに、この子は私より年下のはずなのに、その態度はあまりに横柄だ。
まるで何処かのお姫様か?と聞きたくなるくらい。

「何を…云いたいのかしら?」
「そうですね…遠慮なく云わせて戴きますけれど、よろしくて?」
「ご自由に」
「では。聖さまは、そんなにご自分が『御可哀想』ですか?」

ザァ…っと血が逆流するかと思った。

「…失礼ね、貴方」
「遠慮なく云わせて戴く、と初めに申しました」
「私が、可哀想?」
「そう思っていらっしゃるでしょう?『記憶が過去に戻ってしまった私に、何故みんな優しくしてくれないのか、何故早く記憶が戻れと云うのか。私は訳も解らず可哀想なのに』と」

思わず、私はそこにあった鉢植えを毀してしまう処だった。
辛うじて、それは押し留めた。
まるで芝居の科白でも云うかのように、一言一句はっきりと、しかも私が云っているかのように彼女は云った。

「…怒りました?人は図星を指されると怒ると云いますものね」

フフッと笑うと更に続けた。

「さっきのアレだって、わざわざ蓉子さまや祥子さまを煽るようにおっしゃいましたよね。今のご自分は祐巳さまを傷付ける事だって容易いと主張するかのように。唯一人、皆と違う祐巳さまに恐怖し、ご自分を護る為に自虐的になって」

カシャン!

思わず、私はそこに置いてあった窓枠から落ちた硝子を殴り割っていた。
指を伝い落ちる血に、一瞬怯んだ表情をしたけれど、直ぐに体勢を戻した。

「…図星を指されたから、今度は自傷行為ですか?ご自分を痛めつけて、何になるんです?今回の事は、ご自分ばかりが戸惑っていると思っているのなら、傲慢です」
「…何が貴方に解るって云うのよ」
「私は何も解りません。解りたいとも思いませんし。祐巳さまや蓉子さまじゃないですから、貴方の事などはどうでもいい事ですもの。私にとって、大切なのは他の事ですし」
「…出て行きなさい。私が自分を抑えていられるうちに」
「本当に、滑稽ですね…そして醜悪です。貴方という人を丸ごと受け入れてくれる人の腕を信じられないなんて」
「出て行きなさいと、云っている」

握りしめる手から、血が次々溢れて流れていくのが解る。
そろそろ限界が近い。
このまま何かまだ云われれば、殴りかかってしまいそうだ。

「ごきげんよう、聖さま。…早く、その『いばらの森』から抜け出せると良いですね」

私は、背を向けて去っていく少女に向けて、「ふざけるな」と呟いた。







どうにもならない怒りが、涙になって零れ落ちた。
何故、ここまで云われなくてはならない?
あんな、畳み掛けられるように。
けれど、言葉にされて…あの子の云う通りにそう思っていた自分がいたのも確かだった。
あの子の云う様に、私は図星を指されたのだ。
いや、全てではないと思う。
私は私を『可哀想』だなんて、思ってはいないから。
断じて。

けれど…祐巳さんにキスをしたと告げた時の私は、確かに自虐的だったんだと思う。
それを指摘されて、私は云い知れぬ怒りを感じた。

云い当てられて、そんなに動揺したのか、私は。
自嘲的に笑って顔を外に向けた時、遠くから祐巳さんの姿が見えた。
走ってくる。
真っ青な、顔で。
この古温室に向かって。


「…せ、いさま…っ!」

息を切らして、飛び込んできて、祐巳さんは私の手を見るなり声にならない叫び声を上げた。

「は、早く手当てしなきゃ…!」

祐巳さんは私の腕を引き、水道の傍まで連れていくと、勢いよく蛇口を捻った。
暫く水を流し出した後、「冷たいですけど、我慢して下さいね」と云いながら傷口の血を洗い流し始めた。

結構すっぱりと切れていたらしく、手の甲から中指にかけて切れていて、水で洗い流す片っ端から血が滲んだ。

その傷をハンカチで覆い、少しきつめに縛った。

「使っていない、綺麗なハンカチですから…医務室までの間に合わせです」

そう云いながら、私の顔を見て少し驚いた顔をする。
もう一枚、ポケットからハンカチを取り出すと、そっと頬に当ててきた。
そのハンカチから顔を背けつつ、私は祐巳さんに尋ねた。

「…どうして、ここが?」
「瞳子ちゃん…あ、縦ロールの子です。その子が教えてくれたんです…丁度、この温室に向かっていた処、逢いまして…怪我をされていると聞いて、走ってきました。瞳子ちゃんが今、医務室で待機してるので、行きましょう」

そう云い私の腕を引く祐巳さんに、私は何故だか解らない…不思議な気持になっていた。
あの子は一体、何をしに来たんだろう。

「…聖さま…?」

腕を引かれ、その勢いで私は祐巳さんの肩に額を乗せた。
さっきまで、走ってきたせいで荒かった呼吸は落ち着いている。
耳元に、その穏やかな呼吸を受けながら、自分でも何をしているんだろうと思う。
でも、離れられなくて。

温かな肩。
柔らかな呼吸。

「…聖さま、大丈夫です…」

優しい手が、私の髪を梳き上げた。

「…大丈夫ですから…」

何が、とは云わない。
ただ祐巳さんは私に「大丈夫」とだけ云った。
優しい手が、髪を梳きながら、大丈夫…と。

あれほどに恐かった温もりが、声が、言葉が、その存在が…今は何故か恐くなくて。
むしろ…優しく。

私は、どうしていいのか解らぬまま、祐巳さんの背中に腕を回した。


「大丈夫ですから…聖さま…だから、泣かないで下さい…」



…to be continued

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amnesia -13-

20050308
postscript

どうして、こんなに優しい温もりを恐いと思ったのだろう。
こんなに優しい手を、恐いと思ったのだろう。

いや…今も恐い。

この優しさは、本当に私に向けられたものなのか?


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