amnesia
-13-
こんなコトを考えてしまうなんて、思いもしなかった。
「…本当は、私が先に聖さまを見つけたかったんです…でも…直ぐにあの場を離れられなくて…瞳子ちゃんにお願いしてしまったんです」
祐巳さんの声が、控えめに聞こえてくる。
私は、まだその背に回した腕を解けなくて。
「…小笠原祥子に、引き止められた?」
「……」
祐巳さんは何も云わない。
でも、なんとなく解った。
彼女は…小笠原祥子は、私を許さないだろう。
そんな私の元に、祐巳さんを向かわせる訳が無い。
「聖さまは温かいですね」
祐巳さんが、話を変えるかのように、云った。
見れば祐巳さんは制服で、上着も何も来ていない。
二月の冷えた空気。
春は近いとはいえ、まだ制服では寒いのは当然だ。
私は、バッグに返そうと入れていた祐巳さんのピンクのマフラーを思い出した。
名残惜しく思いながらも体を離し、それをするりとバッグから引き出して祐巳さんに差し出した。
「あ…!」
「昨日、忘れて帰ったから…」
嬉しそうにマフラーを受け取り頬を寄せると、祐巳さんは「有難う御座います!」と笑った。
その笑顔を見ながら、何故この笑顔にあれ程嫌悪していたのだろうかと、不思議に思った。
あれ程までに、何故、私は…
「このマフラー、聖さまから戴いたものなんです…ヴァレンタインのお返しにと」
聖さまは覚えていらっしゃらないですけど…
そう付け加えた祐巳さんの表情が、微妙に寂しげで何故だか解らないものが、心を過ぎった。
『私』が、祐巳さんに贈ったのだという。
本当に、『私』は変わったのだ、と信じられない気持と、もうひとつ…解らないもの。
彼女が、『私』を語ったのは、初めてかもしれない。
それまでは、『私』の事は口にしなかったように思えた。
まるで緊張の糸を緩んだかのように『聖さま』と、私ではない『私』の名を呼んだ。
私と『私』の、違い。
それを提示されたかのような気がした。
私が知らない、『私』の時間。
それを、知りたいと思うようになってきている。
『私』は一体、どんな人間なのか。
医務室に行くと、保険医は居なくて…あのバネのような縦ロールの子が待っていた。
「祐巳さま、栄子先生は先ほど呼び出しが来て、行ってしまわれました。でもここを借りる事は了承を得ています」
「有難う、助かったよ」
「いいえ」と云いつつ、ちらり、と瞳子さんとやらが私を見る。
でも、顔色があまり良くないからなのか、何も云わずに薔薇の館に戻ると医務室を出て行こうとした。
「あ…瞳子ちゃん…」
祐巳さんが咄嗟に引き止めるように名を呼んだ。
それに『解ってます』と頷く。
「蓉子さまには祐巳さまと聖さまがこちらに居る事、お伝えしておきます。それで宜しいですね?」
「…うん。有難うね、瞳子ちゃん」
そう云うと、今度こそ瞳子さんは医務室を出て行った。
少し、名残惜しそうに。
ああ、あの子は祐巳さんを慕っているのかもしれない。
いや、慕っているんだろう。
だから、さっきもあんな風に云ったのだろうから。
『大切なものは他の事』と云ったのは…多分。
「…痛くないですか?」
「ええ…大丈夫」
私の手の傷を消毒し、包帯を巻く手が少し震えている。
止まらない血に、怯えている。
止まらないといっても、先ほどよりはマシなんだけど。
それにしても…私は、この子をどんな風に思っていたんだろう。
不意に、思った。
勿論、好意的なのは解る。
親愛の情を感じていた事も。
…間違いなく、好いていた…という事も解っている。
いつ、そう思ったのだろう。
どうして、そう思ったのだろう。
何がきっかけだったんだろう。
どんな処が?
それが、無性に知りたいと思った。
私の知らない『私』。
その感情。
体に記憶される程の、思い。
それは一体、どういうものなんだろう。
「祐巳ちゃん、聖」
「蓉子さま…来て下さったんですね…良かった」
蓉子がほんの少し慌てたような顔で現れた。
その蓉子が、私を見て眉を寄せた。
…何故だろう。
「瞳子ちゃんに聞いて、驚いたわ…で、傷の方は?」
「そんなに深くは無いんですが…」
少し心配そうに云う祐巳さんに「ちょっときつめに包帯巻いてね」というと、私に向き直った。
「…少しは、落ち着いたかしら?」
「蓉子…」
「貴方の不用意な言葉に、祐巳ちゃんが一番影響を受けるって事を、考えなさい。今だって…」
「蓉子さま」
「云わせて、祐巳ちゃん。云わなきゃいけない事なんだから」
止めようとした祐巳さんに蓉子はやんわりと云う。
「貴方の言葉は諸刃の剣なのよ、聖」
真っ直ぐに私を見て、そう告げる。
諸刃…って…?
「貴方の言葉に、傷付くのは貴方だけじゃない。祐巳ちゃんも傷付ける事があるって事を覚えておいた方がいいわ」
訳が解らない。
蓉子は何を云っているんだろう…
「自暴自棄になる気持ちも解らないでもないけれど…でも、『自分』を認めなきゃ、先には進まないわよ」
そう云うと、祐巳さんの肩に手を置いた。
「祐巳ちゃんは一旦薔薇の館にお戻りなさい。祥子が心配しているから」
「…はい」
蓉子の言葉に頷き、祐巳さんは「それじゃあ」と私と蓉子に頭を下げた。
思わず、「あ…」と引き止めるような声が出た。
それに祐巳さんが少し驚いた様に目を向けてきた。
「はい…?」
「…っ」
一瞬、何を云って良いのか解らなくなる。
左手の白い包帯が目に入った。
「…これ、有難う」
「いいえ」
左手を上げて云う私の言葉にホッと微笑みを見せると、祐巳さんは医務室を出ていった。
そんな私を蓉子は黙って見詰めている。
その視線が妙に刺さってきて、思わず「何?」と少し険を孕んだように云ってしまった。
「貴方、どう思っているの?」
「どう…って」
「解らないなんて云わせないわよ。さっき薔薇の館で自分がした事、解っているなら」
自分のした事。
祐巳さんを、追い詰めて、そして…無意識にだけど…接吻した。
甘やかな唇の感触が…実はまだ私の唇には残っている。
「まさか、親友と孫のキスシーンを見るハメになるなんて、思いもしなかったわよ」
「…え?」
そういえば。
あの時、蓉子は私の頬を打った後、「何をしているの」と云った。
それは私がしていた事を責める言葉だ。
あの時は、気付かなかったけれど。
「…わからない…」
「聖…?」
「解らない…さっきのアレは、無意識だった…気がついたら、私は…」
自分のした事の意味を考えると、困惑してきた。
そして、さっき古温室での事も。
何故、私は泣いたのだろう。
何故、涙が溢れてきたのだろう。
祐巳さんの肩に額を乗せ、そしてその背に腕を回して。
離れる時は、離れがたく思った。
祐巳さんがこの医務室を出て行く時、無意識に引き止めた。
「何故…?蓉子…私は一体どうなった…?『私』は…」
「聖?ちょっとどうしたの?」
私は自分の体を抱きしめた。
ただならぬ私の様子に蓉子は私の顔を覗き込む。
「蓉子…教えて…私は…」
私は、どうなってしまった?
…to be continued
next
『amnesia -14-』
20050313
postscript
知らない感情が私を支配し始めている。
こんな自分、私は知らない。
これは、私じゃない『私』の記憶。
『私』の想い。
でも、私の記憶…そして…私の想いになり始めている……?