amnesia
-15-
私は、私。
お姉さまの言葉に、やっと…私はそれを受け入れる覚悟が出来た気がしていた。
曇り空の下を、歩く。
なんだか、雪でも降り出しそうだ。
雨ではなく、雪。
いっそ、私を隠してしまうくらい降ってみればいいのに…なんて考える。
どうしても、こういう思考は止められない。
そんな自分を苦く笑った。
M駅でバスを降りて、ようやく覚えたらしい自分の部屋への道を歩きながら。
昨日、医務室で蓉子からお姉さまの大学や、一人暮らししている部屋を教えてもらった。
そして今日、私は薔薇の館へは出向かずに早速お姉さまの部屋に向かった。
案の定、蓉子から連絡が行っていたようで、驚かれる事なく迎え入れられ…そして、想像していたのとはちょっと違って…優しく教えられた。
私は、何があろうと何処まで行こうと、私に変わりはない。
私という人間はひとりだけなのだと。
その言葉は、祐巳さんが云っていた事と言葉は違えど、同じ意味を持っていた。
そう…祐巳さんの事も、お姉さまは事も無げに云い切った。
私自身の体に刻まれた記憶がきっかけかもしれないけれど…今、あの子を気にしているのは私なのだと。
私があの子との係わり合いの中で、あの子の事が気になり、あの子の事を知りたいと思うようになっているのだと。
この腕に残る記憶は、確かに『私』のものだ。
だから、祐巳さんとの係わり合いの中で感じているあの子を知りたいと思う感情も、『私』のものだと思った。
でも、これは私の気持なのだ。
今やっと、そう思えるようになった。
…昨日、薔薇の館の資料室で、接吻してしまったのも…私なんだと思う。
いや、正確には『私』と私、両方の私だったりするのではないだろうか。
『私』の気持と、私自身の自分を見て欲しい気持…
そう考えが行き着いて、思わず笑ってしまう。
不毛すぎる。
「聖さま…」
声に、私は驚いて顔を上げた。
マンションの入口前に、祐巳さんが立っていた。
「…な…っ!ずっとここにいたの!?」
驚いて、駆け寄っていくと近くで見る祐巳さんは顔色が良くない。
いつからここにいたのか。
少なくても、十分や二十分じゃないだろう。
寒そうに、手に息を吹き掛けながら待っていたのだろうか。
「蓉子さまに、今日は聖さまが聖さまのお姉さまに逢いに行かれるとお電話を戴いて…」
そう云って、笑おうとするが、頬の筋肉は上手く動かないようだ。
私は祐巳さんの手を握り、エントランスに入る。
そしてエレベータに乗り込み、部屋に向った。
部屋に入るや否や、私は思わず声を上げた。
「何考えてるの!こんな寒い中、どれだけ待っていたの!」
「…え…あの…」
急に声を上げられて、祐巳さんはしどろもどろに言葉を紡ぐ。
「えっと…三時半くらいに此処に…」
「三時半から!?一時間以上もあそこに立ってたの!?」
私は思い切り「バカ!」と叫んだ。
こんなに、人を怒ったのは初めてかもしれない。
いや、いつも何かしらに怒っていた気もするけれど…こんな風に人に面と向かって怒鳴ったのは、多分初めてなんじゃないだろうか。
ああ…そうだ。
幼稚舎の頃、江利子に『アメリカ人』呼ばわりされた時以来かもしれない。
まぁある程度物が解る歳になってからは初めてみたいなものだ。
けれど、今私の中に渦巻く感情は、怒りだけじゃない。
「お願いよ…」
「え?…せ…」
「心配、させないで」
私は、ひんやりと冷たい祐巳さんの体を抱きしめていた。
すこしでも、温めてあげたくて。
これも、私の気持だ。
きっと『私』でも同じ事をするに違いない。
こんなに冷え切るまで、待っていてくれたのだ…心を動かされない訳が無い。
でも…こんな気持は、今までで初めてかもしれない。
ぶわ…っと、胸の奥からなんとも云えない気持が広がる。
この、腕に抱いている少女を、『愛しい』と思う気持。
…そして、次に私を襲ったのは…罪悪感だった。
私は、傷付けた。
私はこの子を傷付けた。
邪険に扱い、嫌悪を剥き出しにして。
この子だけが、最初から「聖さまは聖さまだ」と云ってくれていたのに。
この子だけが、私を受け入れてくれていたのに。
私が『私』だと、云ってくれたのに。
なのに私は気付けなかった。
この子の優しさに。
私を思う、気持ちに。
全身で、私を思ってくれていたのに。
全てを受け入れてくれていたのに。
その全てを拒絶し続けたのは、私。
どうにもならない。
私は、それをやってしまったんだから。
気付けなかった。
解らなかった。
いや、気付こうとしなかったんだ。
解ろうとしなかった。
多分、恐かったんだろう。
認める事が。
全てを否定していた私はそれを認めたくなかったんだろう。
…もしや、それを気付き解ろうとする事自体、忘れていた?
…何?
何を忘れていた?
『それ』とは…私の中にあったはずのもの。
そう、忘れていた。
こんなに愛しいと思う気持ちを。
あの日、薔薇の館で出会った。祥子に下敷きになった。
あの日、手を取ってダンスの真似事をした。
あの日、祥子を妬かせようと初めて抱きしめた。あの後ヒステリーを起こす寸前の祥子を咄嗟に止めたっけ。
あの日、頬に初めてキスをした。軽いキス。
あの日、古い温室で励ました。ロサ・キネンシスの前にしゃがんでいた君。
あの日、医務室でお弁当を食べながら泣いていた。頑張り過ぎたせいで倒れてしまって。
…あの日、餞別という名のキスを頬に受けた。完全に私は囚われた。
雨に濡れた…君が私の胸に、飛び込んできた…あの日。思わず、期待せずにいられなかった。
真っ直ぐに、私だけを見て走ってきた。誤解するな、って云われたって無理だ。
それからも…色々あった。
泣いたり、笑ったり、怒ったり。
あげようとすればキリがない。
君は事ある毎に、私に向かって百面相した。
私に、見せる拗ねたような顔。
私に、見せる涙。
私に、ぶつける怒り。
そして、私に見せた…笑顔。
そして…これだけは。
君が、私の気持を受け入れてくれた事、そして私を好きだと、云ってくれた事…それだけは。
それだけは、忘れてはならなかったのに。
それなのに、私はそれらを忘れていた。
「…聖さま…?」
そんなに優しい声で、私の名を呼ばないで。
君の事を拒絶していた。
何も解らず。
何も気付けず。
そんな私は、君に思ってもらえる資格が、ない。
†
「…聖さま…?」
抱きしめられていた腕が、緩んだ。
そして聖さまの膝が崩れていく。
祐巳は聖さまの体を支えながら聖さまを呼んだ。
「聖さま?どうしたんですか?気分が悪くなったんですか?」
支えきれずに、床にペタンと座り込んでしまった。
顔を覗き込むと、目から涙が零れていく。
頬を伝って、形のいい顎からポトポトと涙が落ちる。
「聖さま?」
とめどなく流れる涙。
祐巳は聖さまの頬を親指で拭うけれど…でも次から次へと涙が溢れ、零れていく。
「何が悲しいんですか?何処か苦しいんですか?」
聖さまが、ゆっくりと祐巳を見た。
涙で濡れた瞳が、綺麗で…思わず見惚れてしまいそうになる。
「聖さま…?」
「ごめん…ね」
「え?」
何故謝るんだろう。
聖さまは、ゆっくりと微笑んで、再度「ごめん」と呟いた。
そして、微笑みは消え…代わりに苦しそうな、痛そうな表情になった。
「ごめん…ごめんね…」
「聖さま、何故そんなに謝るんですか」
「…私が、あまりに大莫迦モノだから…どうしようもない、莫迦だから…本当に、ずっとずっと大切にしてきたのに、何物からも護りたいって思ってたのに…その私が、やっちゃいけない事をした」
「…え」
聖さまの言葉に、何かが引っ掛かった。
どういう事?
何か、変。
「…君を、好きなのに」
「せ…い、さま…?」
ゆっくりと、聖さまの顔が近付いてきた。
柔らかく、そっと、祐巳の唇に聖さまの唇が、触れた。
睫毛が、祐巳の頬に触れて、祐巳の頬に聖さまの涙が零れ落ちる。
触れてきたのと、同じように…聖さまの唇がゆっくりと離れていくと、聖さまは傍にあったテーブルの上からチャリ、という音を立てて鍵を握り取った。
もう一度、祐巳をギュッと抱きしめると、聖さまは突き放すように祐巳を放し、部屋を出て行った。
「ごめん、祐巳ちゃん」
…そう、云って。
…to be continued
next
『amnesia -16-』
20050316
(20050317 加筆修正)
postscript
もう、自分が許せなかった。
祐巳ちゃんを傷付けた、私自身が。