amnesia
-16-






『祐巳ちゃん』

聖さまは、祐巳の事をそう呼ぶ。
もうずっと、祐巳をそう呼んでいた。

でも…聖さまが祐巳を知らない時間まで戻ってしまってから…祐巳の事を『祐巳さん』と呼んでいた。

まるで、同級生を呼ぶように。
知らない人間のように、よそよそしく。

…実際、今の聖さまにとって祐巳は知らない人間だったんだけど。

それが。
昨日の薔薇の館で急に『祐巳ちゃん』と呼ばれた。
でも、違う。
全然違う。
だって聖さまの目は、笑ってなかった。
いつも祐巳を呼ぶ時の聖さまの目は、優しい光を湛えているから。
祐巳に笑い掛けてくれてるから。
だから、直ぐに解った。
装ってるだけだって。
でも…それでも聖さまは『聖さま』だから。
目は笑ってなかったけど、でも時間が戻ってしまってから、真っ直ぐに祐巳を見てくれていなかったけど…やっと、祐巳を見てくれたから。

少しずつ、祐巳を見始めてくれたから。


聖さまは、聖さまだって…祐巳は思う。
でも、今の聖さまは笑ってくれない。
ううん、笑ってる事もある。
でも…その笑顔はとても冷ややかで、悲しくなった。

聖さまは、聖さまだ。
祐巳は、聖さまが好きだから…祐巳を見てくれるのを、待とうって思ってた。
きっと、今の聖さまは祐巳を疎ましく思うんじゃないかな…って思った。
それでも、祐巳は聖さまの傍に居たくて。
冷ややかな目で見られるのは…悲しかったけど。
…祐巳を見てくれなくても、近くに居たかった。
少しでも、聖さまが「何か」を知るための役に立ちたかった。

そしてただ、聖さまの笑顔が見たかった。
柔らかくて温かな…そんな聖さまの笑顔が見たかった。










「ごめん…ね」

聖さまが涙を流しながら、云った。
涙に濡れた瞳は綺麗で…そしてその瞳がゆっくりと微笑んだ。
その笑顔が、祐巳のよく知ってる笑顔で…思わず「え?」と呟いてしまった。

そして。

「私が、あまりに大莫迦モノだから…どうしようもない、莫迦だから…本当に、ずっとずっと大切にしてきたのに、何物からも護りたいって思ってたのに…その私が、やっちゃいけない事をした」

そう云った。
まさか。
祐巳の中で、『まさか』という思いが湧きあがった。
そして聖さまは、そっと祐巳の唇に唇で触れて…ギュッと抱きしめられた。

聖さまの、優しい唇。
優しい腕。

暖かくて、泣きたくなった。
もしかしてって、気持でいっぱいになる。
もしかして、聖さま…?


けれど…祐巳が聖さまに腕を回そうとした時、突き放されるように祐巳は聖さまの腕から放された。

「ごめん、祐巳ちゃん」

そう云って、聖さまは車のキーを持って、部屋を出て行った。




祐巳は、茫然とそのまま床の座っていた。

「ごめん」と呟いた声が…「祐巳ちゃん」と呟いた声が、祐巳がよく知る聖さまのものだった。

「…聖さま…!」

祐巳を見る瞳の光が、優しかった。


祐巳は確信した。
聖さまだって。
絶対、聖さまだって。
今までも聖さまだけど、時間が戻ってしまった聖さまじゃない、『今』の時間の聖さまだって。


慌てて立ち上がって祐巳は玄関を飛び出した。
当然、聖さまの姿は無くて。
車のキーを持っていった。
車で、何処かに行ってしまった…?

どうしよう。
どうしたらいいんだろう。
聖さまを追い掛けたい。
でも、ここから祐巳が離れてもいいのだろうか。
祐巳がいなくなれば、ここには誰も居なくなる。
鍵は、聖さまが持っている。


「…蓉子さま!」

そうだ、蓉子さまに知らせなくては!

祐巳は部屋の中に戻って、ここには居ない聖さまに「お電話、お借りします」と呟いて受話器を持った。
アドレス帳に書いてある蓉子さまの携帯の番号をゆっくり間違えないように押して、呼び出し音が聞こえるのを待つ。

呼び出し音が聞こえてきて…1つ…2つ…3つめのコールで蓉子さまの声が聞こえた。

『はい?聖なの?』
「蓉子さま!」
『祐巳ちゃんなの?…どうかしたの?』

祐巳の声に蓉子さまは何かが起きた事を悟ってくれたようだ。

「聖さまが…部屋を飛び出して…いえ、そうじゃなくて…っ」

ああもう、何を云っていいのか解らない。

『落ち着いて、祐巳ちゃん。聖が部屋を飛び出したって…』
「聖さま、戻られたみたいなんです!」
『…え?』
「聖さま…私を『祐巳ちゃん』…って…」

あ。
急に涙が溢れてきて、声が詰まり出す。
泣いてる場合じゃないのに。
蓉子さまに、伝えなくちゃいけないのに。

『待ってて、祐巳ちゃん。今直ぐそっちに行くから』
「は、はい…」

直ぐ行くから、ともう一度云うと、蓉子さまは通話を切った。
零れ落ちる涙を拭いながら、祐巳は受話器を置く。
祐巳は、ソファに腰を下ろしてキュッと両手を握り締めた。
マリアさまに、祈るように。


だけど…聖さまは今、何処にいるんだろう。
祐巳を抱きしめて、『ごめん』と呟いて出て行った。
今思うと、聖さまは何かを激しく後悔してるような…そんな感じだった。
多分、聖さまが全部覚えているのかもしれない。
この数日の事を。
時間が戻っている間の事。
よくある漫画の中なら、まるで入れ替わるようにその間の記憶は消えてしまったりするけれど。


聖さまは、聖さまだ。
でも、あんな聖さまは…少し悲しい。
あんなに冷たい笑顔しか見せてくれない聖さまは…寂しい。


「聖さま…何処に行ってしまったんですか…」

あんなに涙を流していた聖さまを、祐巳は初めてみた。
そして胸が苦しくなるような、あんな笑顔を見たのも初めてだ。

本当に、何処に行ってしまったんだろう。
どうしようもなくて、祐巳はこうしている事しか出来ない。
それが酷くもどかしくて、腹立たしい。
何も出来ない自分に苛立ってしまう。

「…聖さま…」

今、何処にいるんだろう。
何処に向かっているんだろう。

…帰って、来てほしい。

『君を好きなのに』
そう云って聖さまは祐巳にキスをした。

祐巳だって、聖さまを好きなんです。






それから、二十分くらい経ってから、インターフォンが鳴った。

「はい」
『私よ、祐巳ちゃん。待たせたわね』
「い、今行きます!」

蓉子さまの声に、祐巳はほんの少しホッとする。
祥子さまのお姉さま。
心強い、おばあちゃん。
祐巳は何度と無く、蓉子さまに励まされたんだから。



「…じゃあ、聖はこの部屋に入って、そんなに経たないうちに?」
「はい」
「白薔薇さま…聖のお姉さまの所に行ってから…って事よね…何か、聖の記憶に引っ掛かるような事を云われたのかしらね…」

相変わらず流石ね、と蓉子さまが苦く笑う。

「でも、間違いなく、『今』を思い出したって事ね…車が運転出来るって事もその証明ね…ねぇ祐巳ちゃん」
「はい」
「どこか…聖が行きそうな処、思い当たる?このままだと、きっと携帯にも出ないでしょうし」

実は、祐巳もさっきからそれを考えていた。
携帯に電話してみてはどうだろうか、とか。
でも出てくれなきゃなんにも役に立たない。

「私も考えてはいるんですけど…なかなか」
「そうよね…」

蓉子さまも祐巳も、どうしていいか解らずに腕を組んでしまった。
『今』の聖さまが何処をどう走っているのが謎だった。

あの、古温室に居るなら…車は何処にって感じがする。
…でも…

「…蓉子さま…私、聖さまはあの古い温室に居るような気がするんです…」







…to be continued

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amnesia -17-

20050319


闇雲に走るのではなく…
私はあそこに向かうべきと考えて車を走らせていた。


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