amnesia
-18-





ふわり、と鼻を掠めた、聖さまの存在。
けれど、香りだけ。
聖さま本人は、居なくて。







「祐巳ちゃん、立って」

蓉子さまの声で、祐巳は土の上に膝をついて居た事に気付いた。

「少し、探してみましょう。もしかすると、まだ近くにいるかもしれない」
「…蓉子さま…はい…!」

そうだ。
聖さまは、確かにここにいたんだから…まだ、間に合うかもしれない。
祐巳は蓉子さまと反対の方向に足を向けた。

こちらの方向には、桜の木がある。
もしかすると…そこにいるかもしれない。

聖さまは、あの一本だけの桜をとても大事になさっている。
もしかすると、桜の木に逢いに行っているかもしれない。

ちょっと小走りに、祐巳は桜の木へと続く道を急いだ。


…ちょっと待って。
祐巳は、急ぎ足だった足をゆっくりとスピードを落としていく。

ちょっと待って。
大事な事を、祐巳は忘れていた気がした。
聖さまは…祐巳に逢いたくなんか無いんじゃないだろうか。


強く抱きしめてくれた。
でも、その後突き放すように祐巳を放して背を向けた。
そして部屋を出ていってしまったんだ。

聖さまは、今は祐巳に逢いたくないんじゃないだろうか。
だから、祐巳が直ぐには追えないように部屋の鍵も持っていってしまったんじゃないだろうか。
もしそうなら…こんな風に聖さまを探しちゃいけないんじゃないだろうか…?

完全に、祐巳の足は止まってしまった。

…蓉子さまの所へ行こう。
そして、今祐巳が考えた事を、云ってみよう。
蓉子さまが祐巳の考えを、どう思うだろうかは全く解らないけど。

祐巳は今来た道を戻り始めた。
さっきよりはゆっくり、でもほんの少し早歩きで。


古い温室まで戻って、蓉子さまが行った道を追い掛ける。
でも、そこで祐巳の足は止まってしまった。

蓉子さまと…聖さまが。

「…聖、さま」


祐巳の声が聞こえたのか、お二人が祐巳を見た。
驚いたような蓉子さまと、苦いような表情の聖さま。
その聖さまの表情は、祐巳に逢いたくないと云っているような表情で。

「祐巳ちゃん、聖は直ぐそこにいたの。でね…」

何処か慌てるような蓉子さまに、祐巳は少し後ずさる。

やっぱり、聖さまは祐巳に逢いたくないんだ。
だから、祐巳が蓉子さまの反対の道に行ったのを確認して、蓉子さまの前に姿を見せたのかもしれない。

「…っ」

聖さまを、追いかけちゃいけなかったんだ。
祐巳と一緒にいるのが辛くて聖さまは部屋を出て行ったんだから。
それなのに、祐巳が聖さまを追い掛けるなんて…いけない事だったんだ。

「祐巳ちゃん…?」

蓉子さまが祐巳を呼ぶ。
どうしたの?と怪訝そうにいう蓉子さまに祐巳はもうどうしていいのか、解らなくなった。

解るのは、今、祐巳が聖さまの目の前に居ちゃいけないって事。

ぼろっ、と目に溜まっていた大きな涙がついに零れ落ちると同時に、祐巳はお二人に背を向けて走り出した。




後ろに、祐巳を呼ぶ声を聞いた。
でも、祐巳は振り返らなかった。





いつもなら、どうにも悲しい事が起こったら、古い温室に行ってロサ・キネンシスの前にしゃがんで、これでもかって位泣いてしまうところだけど。
でも、今日はそれすら出来ない。
だって…温室の前には、聖さまと蓉子さまがいる。

ただ、闇雲に走る事しか出来ない。
それでも、何処か冷静な頭の中で、『放課後で誰も居なくてよかった』なんて考える。
そうこうしているうちに、息が上がってきた。
当然だ、こんなに走る事なんか、まずない。
そんな時。

「…祐巳さん…?」

祐巳を呼ぶ、その人。
祐巳はゆっくりと速度を落としていく。
その姿を見たら…なんだか泣きそうになっていた。

何処か、あの人に似てる人。
姿かたちが…とかじゃなく、とても深い部分が。

「志摩子さん…!」

祐巳は、マリア様の前にいた志摩子さんに、抱きついた。

「ゆ、祐巳さん…」

どうしたの?と志摩子さんが聞いてくる。
祐巳はもうどうしようもなくなってしまって。
溢れてくる涙を止められなくて。

だって、聖さまに拒絶されてしまった。
祐巳を知らない時間まで戻ってしまった聖さまは、祐巳を知らないんだから当然の事だって思えた。
知らないなら、知って欲しい…そう思った。

でも。
祐巳を知っている、今の時間の聖さまに拒絶されてしまったら…祐巳はどうしたらいいんだろう。

「祐巳さん…」

志摩子さんの困ったような、それでいて優しい声が、祐巳の呼び、ぽんぽん、と背中を叩く。

その時。
ざり、という音が祐巳の背後で鳴った。

「……お姉さま」

志摩子さんの声で、聖さまが後ろに居る事を知った。

「……志摩子」

聖さまの、声。
志摩子さんが息を飲んだのが解った。
聖さまが今の時間の聖さまに戻った事に志摩子さんも気付いたんだろう。

「祐巳ちゃん」

聖さまの、祐巳を呼ぶ声。
振り返りたい衝動に駆られる。

「お姉さま…何故、祐巳さんを傷付けるんですか…?」
「志摩子」
「何故…祐巳さんを泣かせるんですか…?」

聖さまが、グッと声を詰まらせる。
志摩子さんが、何かに怒っている事に、祐巳はそこで初めて気付いた。
静かに、怒っている。

「…言い訳、させてくれる?」

聖さまの声に、志摩子さんが小さく頷いた。

「私は、恐かったんだ…祐巳ちゃんが」
「だから傷付けるんですか…それじゃ小学生や中学生と同じじゃないんですか?」

ぴしゃり、とした声。
思わず祐巳も志摩子さんから少し離れた。

「うん…そうかもしれない。私は、そこいらへんの子供と一緒なんだ」

そういうと、聖さまは祐巳の手を掴んだ。
そして、志摩子さんから引き離される。
聖様その手は、相変わらず、暖かくて…祐巳はまたも泣きそうになってしまった。





…to be contined

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amnesia -19-

20050321


蓉子に、叱られた。
思わず冷水を頭からかけられたんじゃないか…と思うくらい目が覚めた。

そうして祐巳ちゃんを追いかけた先には…志摩子がいた

…私は…


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