amnesia
-19-
掴まれた手は、暖かかった。
でも、祐巳の心には冷たい風が吹いていた。
「や…!」
祐巳は、聖さまに掴まれ、引かれた手を振り払っていた。
否。
振り払おうとしたけれど、振り払えず…祐巳はそのまま聖さまに手を掴まれたままでしゃがみ込んだ。
「祐巳さんの手を、離して下さい。お姉さま」
「…嫌だって、云ったら?」
「そのままでいたら、祐巳さんの腕が痛みます」
「…っ」
志摩子さんがそう云うと、聖さまはするりと祐巳の手を離した。
肩が、ちょっと痛い。
祐巳が痛む肩に手をやると、志摩子さんが背に手を掛けて祐巳を覗き込んだ。
「…痛む?祐巳さん」
祐巳は横に首を振る。
痛いけど、このくらいは平気。
肩なんかより、もっと痛い処があるから。
「…聖さま…私に逢いたくなかったですか…?」
「祐巳さん…」
「私を恐い…って…私はそんなに聖さまを追い詰めてしまいましたか…?」
顔を上げられない。
祐巳は地面を、石ころを見ながら云った。
聖さまを見ていないから、云えるんだろうな…と、自分をずるいな…と思った。
「祐巳ちゃん…そうじゃないわ…聖は…」
蓉子さまの声。
祐巳は顔を上げられない。
今、蓉子さまの顔は見たくなかった。
ううん、蓉子さまの顔だけじゃない。
誰の顔も見たくなかった。
それを察してくれたのか、志摩子さんが祐巳の肩に手を置いて「帰りましょう」と云ってくれた。
「帰りましょう…祐巳さん…」
「志摩子」
「蓉子さま…そうじゃないかもしれませんが…でも、祐巳さんは傷付いたんです…貴方がたは、祐巳さんを傷付けたんです…そうとは知らずにでも」
祐巳の肩に手を置いたまま、志摩子さんがしっかりとした口調で云った。
その志摩子さんに、蓉子さまがちょっと批難の混じった声で「志摩子」と云った。
「誤解かもしれません。くい違い行き違いがあったのかもしれません…でも、祐巳さんが傷付いた事には変わりないんです。いつも笑っている祐巳さんが、こんな風に泣いている…それだけが事実です」
「志摩子」
「私は…祐巳さんが笑っていてくれたら、それでいい…でも、こんな風に祐巳さんが傷付けられて、悲しんでいるのは…嫌なんです」
「し…まこ…さん?」
祐巳は、顔を上げた。
なんだか、今の志摩子さんの言葉が、妙に気持に引っ掛かった。
「…志摩子は、私を許せない?」
「私、では無いのではないですか。私ではなく、祐巳さんでしょう?」
なんだか、このままにしておいてはいけない、急にそう思い始めた。
志摩子さんは祐巳の事で聖さまや蓉子さまに対して怒ってる。
祐巳のせいで、志摩子さんと聖さまが仲違いするのは嫌だ。
「待っ…て、志摩子さん…もうやめて…私が悪いんだから…」
「祐巳さん…」
立ち上がって、志摩子さんの目をしっかり見るようにしながらそう云った。
そう…祐巳が聖さまを追い掛けようとしたから…いけなかったんだから。
「ごめんね。有難う、志摩子さん…でも、私が悪かった事で志摩子さんと聖さまが仲違いするの、嫌だから」
「祐巳ちゃんが悪いって…」
蓉子さまが、聞き捨てなら無い、というように一歩踏み出した。
その蓉子さまから逃れるように、祐巳は銀杏並木の方向に足を向けた。
「私…帰ります」
「祐巳ちゃ…」
「ごきげんよう」
引き止めようとする蓉子さまに背を向けると、祐巳は走り出した。
一刻も早く、離れたかった。
志摩子さんや、蓉子さま…そして聖さまから。
だって、祐巳のせいで誰かと誰かが仲違いするのなんて、嫌。
志摩子さんと聖さまは、どこか深い処で繋がっている姉妹だから、心配なんか、いらないと思うけど…
ああ、そうか。
それが解っているから…傍にいたくないんだ。
志摩子さんと聖さまの絆や、蓉子さまと聖さまのつながりは、とても深いけど…でも、祐巳と聖さまの関係は、そういうのとは違うから。
姉妹や、友情はずっとずっと続いていける関係かもしれないけど…
もし、聖さまに嫌われたら…邪魔だって、思われたら…一瞬にして、祐巳と聖さまを繋ぐものは消え失せてしまうかもしれない。
それをまざまざと見せ付けられた気がして。
それでなくても、聖さまは祐巳に逢いたくなかったのかもしれない、なんて思っている時に…悲し過ぎる。
こんなのは、祐巳の勝手な感情で。
ただの嫉妬だって、解ってる。
卑屈だなって、自分でも思う。
こんな事を考えるような祐巳だから…聖さまに嫌われたり疎まれたりしたって…仕方が無いって思えた。
でも。
祐巳はそんな事を考えてしまうくらいに、聖さまが好きなんだ…どうしようもないくらい、聖さまが。
好きだからって、何をしてもいい訳ない。
好きだから、して良い事悪い事があるから。
好きだから…我慢しなきゃいけない事があるんだから。
祐巳はバス停で、誰もいないベンチにひとり座ってバスを待つ。
もうすぐ、時間なのだけれど…誰も来ない。
今の祐巳には好都合だけど。
こんな泣き顔、誰にも見せたくなんかない。
これでも一応、紅薔薇のつぼみなんだし。
祥子さまに見合うように。
祥子さまの迷惑にならないように。
少しでも、祥子さまみたいになれるように。
祐巳は、ずっとそう思ってきた。
その気持は、今も寸分の違いもない。
でも…心のどこかは、確実に変化してしまっている。
祐巳の心は、聖さまで一杯になってしまう事の方が、多くなってしまったから。
その聖さまに、拒絶されてしまったら…悲しいなんて言葉ではすまないだろう…。
でも、実際、今日聖さまは祐巳を拒絶していたんじゃないかって思う。
さっきも、マリア様の前で、聖さまは祐巳を見なかった。
…違う。
祐巳が聖さまを見られなかったんだ。
拒絶された、と知るのが恐くて。
目を逸らされたりするかもしれない…それが恐くて。
聖さまが、祐巳を恐かったと云ったけれど…
祐巳の方が、聖さまの事が恐かったのかもしれなかった。
…to be continued
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『amnesia -20-』
20050322
マリア様を見上げる。
マリア様は、平等に皆に微笑み掛けてる。
平等?
今の私には、少なくても憤怒の閻魔のように見えた。
祐巳ちゃんを傷付けた…私を怒っているに違いない。