amnesia
-20-
今の祐巳を見たら、きっと『捨てられた子犬』みたいだって、思われるかもしれない…
いや、子狸かな。
あの人に、そう云って笑って貰いたい。
バスが、来ない。
もうそろそろ来てもいい時間なのに。
祐巳は腕時計を見る。
もう頻繁に。
だって、早く来てくれないと、志摩子さんや蓉子さまが来てしまうかもしれない。
今、志摩子さんに気遣われるのは、嫌だ。
今、蓉子さまに弁解されるのは、嫌だ。
このままではいられない。
解っているけど。
でも…今だけはひとりでいたい。
そして…もし何か理由があるのなら、聖さまから聞きたい。
なんて…きっと無理だよね。
祐巳は何だか悲しくなりながらも、そっと微笑んだ。
追いかけようなんて、思わなければ良かった。
探そうなんて、思わなければ良かった。
今じゃもう、後の祭りだけど。
ただ、嫌われたくない。
忘れられたなら、新たに知ってもらえばいいと考えられるけど、嫌われたら…もうどうする事も出来ないもの。
付きまとって、更に嫌われるのは、嫌。
車の音が、して。
ああ、バスが来たと祐巳は立ち上がった。
でもその音はバスのそれとは違っていた。
一台の車が、祐巳の前で止まった。
「乗って」
目の前にいたのは、お母さまから譲り受けたという車から降りてきた聖さま。
「……ぁ」
完全に、動揺してしまった。
言葉を紡げずに呆然と立ち竦んでいる祐巳に、聖さまはつかつかと近寄ってきて、そしてさっきのように強い力で祐巳の腕を掴んで引いた。
「…っ」
そのまま、助手席のドアを開いて、有無も云わせずに祐巳を車に押し込んで、聖さまはドアを閉めた。
恐い。
祐巳は思わず車から降りようとドアノブを引いた。
ウソ、開かない!?
ガチャガチャとノブを引く祐巳に、聖さまが運転席に乗り込みながら静かな声で云った。
開かないよ…って。
「さっき、外からしか開けられないようにドアロックしたから。だから、開かない」
聖さまの静かな、それで居て反論も何も出来ないような声に、祐巳は信じられないものを見るように聖さまを見つめた。
「シートベルト、して」
「…何処へ行くんですか…」
動かない祐巳に、聖さまが身を乗り出してくる。
シートベルトに手を伸ばしながら、祐巳の目を覗き込むようにする。
「何処って…うちだよ」
息の掛かる距離。
祐巳は、目をそらす事も出来なかった。
綺麗な顔が、目の前にある。
もし誰かが今のこの状況を目にしたら、まるでキスを交わしているように見えるかもしれない…なんて思うほど、聖さまの顔が祐巳のすぐ目の前にあった。
そして、シートベルトの「カチリ」という音をぼんやりと祐巳は聞いた。
それきり、聖さまは何も話さず…無言のまま、マンションに着いてしまった。
聖さまが車から降り、助手席側に回り込んでドアを開いた。
そのまま鍵を差し出され、「先に行っていて」と云われて、祐巳はどうしていいか解らず鍵と聖さまを交互に見る。
すると祐巳の手を取り、鍵を握らせた。
「お願い。先に行っていて」
「…はい」
祐巳が頷くと、ようやく聖さまはホッとしたような表情になった。
あ。
思わず、そんな聖さまの表情に、祐巳からも力が抜ける気がした。
車に乗せられてから、妙に体が緊張していたから。
聖さまにもそれが解ったんだろうか…ほんの少し…ほんの少しだけ、微笑んだ気がした。
習慣って恐ろしい…そう思った。
まだこの部屋に来るようになって、そんなに経っていないのに、もう祐巳にはひとつの事が条件反射のように身についている。
聖さまと一緒にこの部屋に帰った時だけの、条件反射。
聖さまが車を駐車場に停めに行き、鍵を受け取った祐巳が先に部屋に入る。
そしてポットの中身を確認し、水を補給し、お茶の用意をする。
こんな時なのに祐巳の体は、自然に…何も考えずに動いていた。
キッチンに居た祐巳を見て、聖さまにもそれが解ったのか、なんとも云えない表情をした。
泣き出しそうな、微笑むような。
そして。
「…聖、さま…」
祐巳を、抱きしめてきた。
強い…とても強い、力。
どうしよう。
こんな風に抱きしめられて……どうしよう。
どうしたら…いいんだろう。
祐巳はただ、抱きしめられる。
腕は回せない。
だって、しっかりと…本当にしっかりと聖さまは祐巳を抱きしめていて、腕も動かせない。
「……っ」
あ。
祐巳は気付いてしまった。
聖さまの体が、小刻みに震えている。
祐巳の耳に、聞こえる微かな嗚咽。
聖さまが、泣いてる。
「……め…ん」
「え?」
「…みちゃん…ごめ…」
切れ切れな言葉。
謝罪。
祐巳は、目を閉じた。
途端に、頬に涙が伝った。
「恐かったんだ…」
聖さまが、静かに呟いた。
祐巳は、今も聖さまの腕に抱きしめられたまま。
そのままの体勢で、聖さまが呟いた。
「…恐い…って…何がですか?」
「祐巳ちゃんを…傷付けてしまった事…」
肩におでこを乗せるようにして、聖さまは云う。
「私は、祐巳ちゃんを忘れてしまった…そして酷い事、沢山沢山…絶対、祐巳ちゃんの事は忘れない、忘れても絶対すぐに思い出す…そう思っていたのに…」
「え?」
祐巳は聖さまの言葉に目を見張った。
それって…聖さまは『自分』の意志で忘れたって事…?
一体、何故聖さまは忘れようとしたのだろう。
どうしてそんな事が出来たんだろう。
「私ね…ずっと思っていたんだ…祐巳ちゃんは、私の『過去』に囚われてる…って」
「過去…」
「うん…」
そこでやっと聖さまは祐巳から体を離して、真っ直ぐに顔を見た。
聖さまの顔は、今も涙に濡れていて。
頬を流れる涙は、どうやっても止められそうになくて。
ただ、祐巳は聖さまを見つめている事しか出来ない。
「今の私がこうしているのは、過去があるから。でも…その過去は祐巳ちゃんを捕らえてしまってる……栞に出会って、そして栞を愛した、私に…祐巳ちゃんは捕らえられてしまってる」
「…聖さま」
「その過去を消したら、祐巳ちゃんはどう思うだろう。栞や、志摩子出会う前の私を見て、祐巳ちゃんはどう思うだろう…そう考えた」
そう云うと、聖さまは自嘲的に笑った。
痛々しい。
でも、そうさせているのは、祐巳自身だった。
「凄いもんだよね…私も。そんな風に考えた翌日…朝目が覚めたら、私は時間を戻してたんだから」
痛い。
心臓が、握られるみたいに、痛い。
そこまでさせたのは、祐巳なんだって思ったら…痛い。
祐巳は、どうしても栞さんを思わずにいられない。
だって、聖さまが好きになった人だから。
…そして、今。
時間を戻してしまった…栞さんを知らない聖さまを知って、尚更。
あんな風に、誰も信じてくれない聖さまを、今の聖さまに変えるきっかけを作った人だから。
祐巳は、栞さんが恐いと思った。
「絶対なんか、無かった。だって…私は祐巳ちゃんを傷付けた…何をどうしようと、祐巳ちゃんだけは、傷付けたくなかったのに」
聖さまの顔が、歪む。
唇を噛んで、懸命に何かに耐えている。
祐巳には、敵わない。
祐巳は、栞さんに敵わない。
そう、云われている気がした。
「でもね…私は祐巳ちゃんのこと、確かに忘れてしまったけど…でも」
「もう、いいです…」
聖さまが紡ぐ言葉を、祐巳は遮ってしまった。
辛くて。
とても、辛くて。
だって、祐巳は…栞さんには絶対、敵わない。
聖さまの心を柔らかく出来るのは、栞さんだけだから。
思い知らされて、しまったから。
聖さまがハッとした様に祐巳を見た。
「違うよ祐巳ちゃん!」
何が、違うんだろう。
もう、辛くて、悲しくて、この場から消えてしまいたい…祐巳はそう思っていた。
祐巳には、聖さまを心安らかにすることは、出来ない。
悲しませて、傷付ける事しか。
「違うよ…!祐巳ちゃん聞いて…!」
聖さまが、必死に祐巳の肩を揺する。
「私は、祐巳ちゃんを忘れてしまった。でも、体は、祐巳ちゃんの感触を覚えていたんだから!」
…to be continued
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『amnesia -21-』
20050323
私が覚えていたのは、君の感触。
君の柔らかさ。
君の温かさ。
…君だけが、『私』を見てくれた。