amnesia
-22-
こんな事、祐巳からする事は、殆どない。
でも…祐巳は、聖さまの胸に、凭れるように体を預けた。
嬉しさと。
そして、ほんの少しの…寂しさから。
さっきも、この部屋に戻ってから、聖さまに抱きしめられた。
強い力で。
謝罪なんか、いらない。
いらないのに…でも、聖さまは、祐巳を抱きしめながら、「ごめん」と切れ切れに呟いた。
そんな聖さまの腕に、声に、祐巳はどうしても切なくなってしまう。
別に、聖さまになら、傷付けられたって構わない。
それどころか、傷付けられたなんて、思わないのに。
でも、聖さまはご自分が祐巳を傷付けたと考えて、ご自分を傷付けてしまう。
それが…悲しい。
だから祐巳は精一杯、聖さまの傷を広げないように、増やさないようにと思う。
でもこの人は、祐巳の考えも及ばない処で、傷付いてしまうんだ。
だけど、まるで硝子細工のように綺麗で、脆いこの人の傍に居られるのは…傍に居る事を許されているのは、他でもない…祐巳自身だから。
「祐巳ちゃん…」
聖さまが、体を預けた祐巳の背に腕を回しながら髪にキスを落とす。
そのキスが、こめかみに、そして頬に下りた。
そして、最後に柔らかく唇に触れた。
聖さまの、キス。
優しくて、温かい。
なんだかとても幸せな気持になる。
「ごめんね…」
また、謝られて…祐巳は苦笑する。
しばらく祐巳は、事ある毎に聖さまから謝られてしまうのではないか…なんて思った。
「聖さま。もう謝らないで下さい。ほら、云うじゃないですか、『喧嘩両成敗』って…」
そう云いながら聖さまの顔を見ると…なんとも云えない表情をしている。
あれ?何かおかしな事、云っただろうか…今にも噴出しそうな表情。
そして、それを我慢している表情。
「…ゆ、祐巳ちゃん…それ、なんか違わない…?」
「そ、そうですか?」
うーん。
やっぱり何か違う事を云えば良かっただろうか……ええい!
「いいんです!とにかく、聖さまはもう謝っちゃダメです!今度謝ったら、ハリセンボン飲ませますから!」
そう祐巳が云ったら、とうとう聖さまが噴出した。
「ゆ、祐巳ちゃんサイコー!」
「あ、当たり前です!だから…!」
背中に回されていた腕に、力が篭った。
後頭部を、ぽんぽん、と撫でるように軽く叩かれる。
まるで、小さい子にするみたいに。
子供扱いに、思わずムッとしそうになる。
…でも。
「ありがとうね、祐巳ちゃん」
そう云う聖さまの声が、柔らかくて…祐巳は聖さまの胸に頬を預けた。
まぁいいや、って。
こんな風に穏やかにしてくれるなら、いいやって。
†
なんだか、久し振りの感触。
腕に、祐巳ちゃんの感触。
そっと、その身を預けてくれている…それが、嬉しい。
あんなに、傷付けたのに。
あんなに…酷い事を云って、酷い扱いをして、傷付けたのに。
でも、祐巳ちゃんは変わらない笑顔を私に向けてくれた。
なんて子なんだろう。
普通なら…きっと愛想をつかしてしまうに違いないのに。
どうしようもなくなって、逃げ出した私をも、こうして包み込んでくれる。
…そう。
私は、全てを思い出した。
そして、私は祐巳ちゃんに酷い扱いをして沢山の傷をつけた事に気付いて…どうにもならなくなってしまった。
申し訳なさに。
でも、そんな私の態度が更に祐巳ちゃんを傷付けるなんて、考えもしなくて。
温室の側で、私を見つけた祐巳ちゃんは悲しそうに顔を歪めた。
そこで、私はまた間違えたことに気付いた。
いや、正確には、私を見つけた蓉子に叱咤されたのも、その事に気付けたきっかけだった。
「何をしているのよ!」
蓉子は、影から伺っていた私を見つけると近付いてきて、切りつけるかのように云った。
「貴方、何逃げてるの!現実からまだ逃げるつもりなの!?」
「蓉子…」
「祐巳ちゃんから聞いたわよ。貴方、記憶を取り戻したわね?」
そういう蓉子に私はゆっくりと頷いた。
甦った。全て。思い出した。
その私に、蓉子は大きく溜息をつく。
「…そう。無事生還って事なのかしら。でも、自分から逃げてどうするのよ。祐巳ちゃんは、誰よりも貴方に向き合っていたのよ。そんな祐巳ちゃんの信頼裏切るような事してどうするのよ」
私は、ぐぅの音も出無かった。
そうなのだ。
祐巳ちゃんは、冷ややかに見詰めていただろう『私』に怯むことなく近付いてきた。
「ほんと、莫迦なんだから」
そう云って蓉子は苦笑した。
「だけど、逃げるなんて、もっての他よ?聖。そんな事したら、祐巳ちゃんの気持はどうなるの」
「…解ってる…解ってるけど…そうせずにいられなかったんだ」
そう云って唇を噛む私に、蓉子はまた「莫迦ね」と云った。
…そう、私も自分でそう思う。
どうしようもなくなって、口付けて…そして突き放すようにして、逃げ出した。
全てを、忘れてしまっていた。
なのに、私の側に居ようとしてくれていた…
そんな祐巳ちゃんを、私は傷付けた。
大切な、君を。
…私は恐い。
君は、私を赦すだろう…そう考えてしまう私が、厭だった。
そんな事を考えてしまう私自身が、恐い。
そして、今は赦してくれる君が…いつの日か、私から目を背け、呪詛を吐くようになってしまう時がきてしまったら…
なんて恐ろしい想像。
けれど私はそんな君を、想像出来ない。
そんな自分の浅ましさが、更に恐かった。
「…恐かった…今は赦されるだろうって…。そんな事を考える自分と、そしてきっと赦してくれる祐巳ちゃんが」
「……本当に、莫迦ね」
蓉子の声が、容赦なく響いた。
その後、姿を現せた祐巳ちゃんが、何を勘違いしたのか泣きながら走り去った。
「祐巳ちゃん!?」
私はその祐巳ちゃんの後を反射的に追い掛けた。
揺れるツインテールを追い掛けていくと…前方のマリア像のところに、志摩子が見えた。
驚いたような顔をしている志摩子に、祐巳ちゃんは抱きつくようにして止まる。
キン、と心臓に痛みが走った。
大切な、妹。
志摩子は今も、私にとっては『妹』だ。
けれど、今、祐巳ちゃんが泣きながらすがる相手がその大切な妹だというのに、私は嫉妬してしまうのだ。
だって、この私に良く似た妹も…祐巳ちゃんを好きだから。
こんな処まで似なくてもいいのに、と…気付いた時には苦笑した。
その志摩子に、祐巳ちゃんは躊躇無くすがった。
それを、見詰める自分は、どんな顔をしているんだろう…
きっと、厭な表情をしているに違いない。
「志摩子」と、その名を呼んだ私に、志摩子は息を飲んだ。
それは、私が『私』ではないと気付いたのとは、別の理由だと解ったから。
そんな私に挑むように、志摩子は、何故祐巳ちゃんを傷付けるのかと聞いてくる。
自分にすがってきた、祐巳ちゃんを守るように。
思わず、私は息を飲んだ。
志摩子は、元々芯が強い。
そこが私とは違う処だ。
似ていない処。
…私は、弱いから。
恐かった、と云った私をもバッサリと、いっそ小気味良いくらいに切り捨てる。
祐巳ちゃんを傷付ける私には、祐巳ちゃんを渡さない、そう云っているようだった。
でも、祐巳ちゃんは渡せなかった。
蓉子にも、云われた。
莫迦ね、と。
そう、莫迦だから、今頃気付いた。
全てから、目を逸らさずに…私自身からも、そして祐巳ちゃんからも、目を逸らさずに…私は、進まなくてはいけない。
祐巳ちゃんが、栞との過去に囚われるのは、それは私自身が囚われているからなのかもしれない。
囚われる…というのは、違うかもしれないけれど。
でも、私は知ってる。
もう道は分かたれている事。
栞と私の進む道は、とうの昔に分かれている。
いや、元々同じ道など歩いてなど、居なかった。
強引に二つの道を融合させようと、足掻いていただけ。
…だからと云って、祐巳ちゃんと私の進む道が一本だとは云わない。
私の道は、私だけ。
祐巳ちゃんの道は、祐巳ちゃんだけのもの。
でも、その道は限りなく、近く寄り添っているものだと、信じたい。
いや、信じている。
私は、祐巳ちゃんと歩んで行きたい。
歩んで、生きたい。
そう思っている。
やっと、目の前が開けた。
本当に、莫迦だと思う。
どうしてこんな事にすぐ気付けないのだろう。
「…ごめん、志摩子」
祐巳ちゃんが走り去った後を追おうとした志摩子の手を取って引き止めた。
志摩子に行かせるわけには、いかない。
「お姉さま」
「私が、追わなくて誰が追う?」
ああ、私は今、大切な妹に酷い事を云おうとしてる。
きっと…志摩子は傷付くだろう。
でも。
「祐巳ちゃんを追えるのは、私だけだよ」
「…お姉さま」
それは真実だ。
今、祐巳ちゃんを追うのは、追えるのは、私。
志摩子でも、蓉子でもなく、私だけだ。
祐巳ちゃんが誰よりも想うのは、私だから。
自惚れだと、解ってる。
でも、そうだから。
私は志摩子と蓉子に背を向けて駐車場へと走る。
そして、車に辿りつくと、助手席側のドアを開いて側面にあるロックを掛ける。
これで、内側からは開かない。
私は、バス停へ向かった祐巳ちゃんを奪取するべく、車に乗り込んだ。
もう、間違えるわけにいかない。
謝って、謝り倒す。
言い訳でも、なんでもしてやる。
泣いてすがっても、私は祐巳ちゃんを手放さない。
だって、私の体は『祐巳ちゃんの感触』を記憶して忘れないほど、私は祐巳ちゃんを好きだから。
そして、私は、この腕に祐巳ちゃんを取り戻した。
…to be continued
next
『amnesia -23-』
20050325〜20050326
私は、こうして取り戻した。
なのに…どうしてアレを…あの事だけは、思い出せていないのか。