amnesia
-25-
「祐巳さん、香水か何か、つけてるの?」
クラスメイトの、何気無い一言。
祐巳は「ううん?」と答える。
香水なんてつけて来るはず無い。
「そう?なんだか、控えめだけど、上品な香りがしたんだけど」
ほんとにつけてない?と聞かれる。
何度聞かれても、つけてないものはつけていない。
「どれどれ?」
そう云いながら、由乃さんが祐巳に近付いてきた。
「よ、由乃さん?」
「…あ、ホントだ。祐巳さん、いい香りがする…」
「へ?」
由乃さんにまで云われてしまった。
うーん。
一体どんな香りなんだろう…っていうか、何の香りなんだろう…
そこまで考えて、祐巳はひとつ、思い当たる事がある事に気付いた。
…聖さまの、香りかも…?
昨日。
聖さまは、ずっと祐巳を抱きしめていて。
きっと時間が急に戻られたから…そう思っていた。
でも、それだけとは…思えなくて。
だけど、聖さまの表情が、泣きそうで。
無理矢理に笑っているのが解った。
その笑顔がまるで『今は何も聞かないで』と云っているようで…祐巳はただ聖さまの腕に体を預けた。
それだけしか、祐巳には出来なくて。
でも、今はそうする事が少しでも聖さまを癒せるなら…そう思った。
暖かく、優しい力で祐巳を抱きしめる聖さまの腕が、時折強く祐巳を抱きしめようとした。
その意味が、まだ祐巳には解れない。
『危機感なんかないでしょ?私が何考えてるか、知らないでしょう?』
そう云った、聖さま。
危機感。
どうして祐巳が聖さまに危機感を持たなきゃいけないのだろう…
「ちょっと、祐巳さん?何私たちを置いてけぼりにして考え込んでるのよ」
「ご、ごめん」
「で?何の香りか見当はついた?」
いつの間にか蔦子さんや真実さんまでいる。
まさかこの状態で『聖さまの移り香』だなんて、云える訳がない。
「…それが、さっぱり」
祐巳は、自分が百面相のだって事、忘れてた。
上手く誤魔化せるはずがなかった。
案の定、薔薇の館に行こうとした時、蔦子さんに呼び止められた。
蔦子さんはクラブハウスまで一緒しよう、と云い、祐巳はふたつ返事で了承する。
「祐巳さん、さ」
「何?」
祐巳の隣に並んで、カメラを向けながら蔦子さんが笑う。
「ダメだよ、もっと自分ってものを知らなきゃ」
「は?」
「表情に出易いって事、忘れちゃダメって事よ」
クラスメイトの子には解らなかったかもしれないけれど、由乃さんや真実さん、そして勿論蔦子さんは誤魔化せなかったようだ。
…そうなんだ。
聖さまがよく云う『百面相』。
顔に全部出ちゃって隠し事が出来ないんだよね…
でもまぁ、いくら親しくても、聖さまみたいに完全に祐巳の表情の意味を読み取れるって事は無いみたいだけど…でもこの蔦子さんも、聖さまばりに祐巳の表情を読んでくれる数少ないひとりだった。
「でも、まぁ…久々にちょっと明るい表情だからいいんだけどね」
「え?」
「ここ2・3日、ちょっと張り詰めた感じがあったから」
ぱしゃり、と祐巳を写しながら蔦子さんが笑う。
きっと、心配してくれていたんだろう。
祐巳の変化に気付いてくれるって事は、心配もしてくれていたって事だから。
「突っ込んで聞いたりはしないけど…そんな風に笑えるなら、もう大丈夫かしらね」
そう云うと、クラブハウスへと足を向けてしまう。
優しい忠告と、気遣いと、その他色々。
蔦子さんは、祐巳ですら見えていない祐巳の事も見えているのかもしれない。
「有難う」
聞こえるか、解らないけど、祐巳は蔦子さんの背中にそう声を掛けた。
すると、蔦子さんが手をあげて軽く振るった。
薔薇の館にたどり着くと、蓉子さまがいらしていた。
祥子さまもいらっしゃる。
「ご、ごきげんよう」
云っても、蓉子さまは目顔で頷いて下さったけれど、祥子さまは祐巳に背を向けたまま。
…なんだろう。
空気が、重い。
それは一足先に来ていた由乃さんも感じていてようで、祐巳が流しに行くと、目配せしてきた。
「由乃さん…令さまは?」
「今日は剣道部に顔出すって…少し遅れるらしい」
「…そう」
なんだか、落ち着かない。
それから程なくやってきた志摩子さんと乃梨子ちゃんも、その空気に戸惑っているようで。
まるで、蓉子さまと祥子さまは両者一歩も譲らず…といった感じだった。
何を、というのは、解らないけれど。
「…ではお姉さまは、私にどうしろとおっしゃるのですか」
「少しは聖の身にもなって考えてみなさい、と云ってるの」
え?聖さま?
由乃さんが「どういう事?」と祐巳を見る。
…そうか。
なんとなく…祐巳は解ってしまった。
志摩子さんも解ったんだろう…昨日あの場にいたんだから。
祐巳を見て、少し頷いてみせた。
ああ…そうだ。
祐巳は志摩子さんに謝らなくちゃいけない。
咄嗟にとはいえ、志摩子さんに抱きついて、巻き込んでしまった。
蓉子さまにも、謝らなくちゃ。
勝手に誤解して、駆け出してしまったんだから。
「聖さまの身?だからって、あんな風に振舞われて納得など出来ません!」
「祥子…でも、今の聖はもう『いつもの聖』だわ。しかも、全て覚えている…祐巳ちゃんを傷付けた事も、全部ね」
…そう、聖さまは、全てを覚えている。
思い出した時の聖さまは物凄い自責の念に駆られていて…気の毒になってしまう程。
そして、祐巳の前から一旦姿を消した。
それを蓉子さまに知らせ…
…あれ?
あの時…リリアンに聖さまを探してきた時…マリア様の前で由乃さんと令さまに逢った。
令さまは薔薇の館に志摩子さんと祥子さまがいる、と云わなかったっけ…?
そして、その後に逢ったのは…志摩子さん。
祥子さまは、どうしていたんだろう…?
「…だからと云って、赦せる赦せないは、別問題ではありませんか?」
「別問題?」
「ええ」
祥子さまが、背筋を伸ばして蓉子さまを見る。
そんな祥子さまを、何処か冷たく蓉子さまが見つめた。
「…赦す、赦さない…?それは貴方が云う事?それを云えるのは貴方ではないわ」
「…え?」
「それを口に出来るのは、祐巳ちゃんだけよ。貴方にはそんな権利も無い。」
「お姉さま…!」
…痛い。
蓉子さまの言葉が、祐巳に刺さる。
聖さまに傷付いたのは、祐巳じゃない。
だって、祐巳は傷付いてなんかいない。
聖さまも祐巳を傷付けたと云うけれど…でも、祐巳は聖さまに傷付けられてなんかいない。
…傷付いたのは、祐巳以外の人。
何故か解らないけれど…祐巳はそう思った。
でも。
今、この状態に、祐巳はどう云っていいのか解らない。
緊迫した雰囲気に祐巳は口出しが出来ない。
もし、この状況で怯む事無く自分の意見を云う事が出来るとしたら…
祐巳は聞こえてくる音に、耳を澄ませながら思った。
「祥子の気が済むようにしてくれて、構わないよ」
ビスケットの扉を開いて其処に立つ、聖さまだけだと。
「…聖、どうしてここに来たの」
蓉子さまが信じられないものを見るように聖さまを見た。
「そりゃ、私も当事者だから。しかも、中心人物だからね。蓉子の気持は有難いけど…」
「なんで…来たのよ…」
「蓉子…」
聖さまが、優しい瞳で蓉子さまを見ている。
ああ、そうか。
蓉子さまは、自分が矢面に立とうとしたんだ。
聖さまの為に。
祥子さまの為に。
ご自分の、大切な人を守る為に。
祥子さまの性格も、聖さまの性格も、知り尽くしている蓉子さまが。
…敵わない、そう思った。
祐巳には、何も出来ない。
口出しする事を、赦されていない。
それを出来るのは…蓉子さまだけなんだ。
立っている位置は、もしかしたら同じかもしれないのに。
でも蓉子さまに、祐巳は敵わない。
いや、同じ訳ないんだ。
だって、蓉子さまは祥子さまのお姉さまで、聖さまの親友なんだから。
お二人の信頼の度合いは、祐巳なんかとは比べ物にならない。
祐巳は、唇を噛んでただ見ている事しか出来ないのだろうか…?
…蓉子さまに聖さまは苦く笑いながら云う。
「あのね、蓉子。駄目なんだよ。私と祥子は、話し合わなきゃいけない。誰かに守られたままで丸く収まろうなんて、私には思えないしね」
そして、ぐるりと周りを見回すと「ごめんなさい」と云った。
「私は、皆の事を傷付けた…自分を守る事で、一生懸命で周りが見えなくなって。謝って済む問題じゃないけれど」
「お姉さま…」
志摩子さんが、聖さまに一歩、近付く。
「志摩子にも、謝らなきゃね…」
「謝らないで下さい、私には。…私こそ、お姉さまに謝らなくてはいけないんですから」
「志摩子」
「お姉さまは、お姉さまなのに…それを失念し、責めてしまいました…」
肩を落とす志摩子さんに、聖さまが『お姉さま』の顔で「莫迦だね」と笑う。
「志摩子は、私の『妹』だからこそ、ああ云ってくれたってのもあるでしょ。それに…祐巳ちゃんを傷付けていたのは、本当の事だし…志摩子の云った事はもっともだったんだよ」
「お姉さま…」
乃梨子ちゃんという妹が出来てから、ずっと『姉』の表情だった志摩子さんが、久し振りに『妹』の顔になっていた。
聖さまの前でだけ、許されている表情だった。
…聖さまと、志摩子さんの、絆。
祐巳には太刀打ち出来ない、見えない絆が。
それにほんの少し、寂しいと思う自分に莫迦だなって思う。
「…私は…赦せません…!」
「祥子…貴方まだ…」
祥子さまの言葉に、蓉子さまが眉を顰めた。
「だって、私の妹が…祐巳が傷付けられたんですから…!」
祥子さまの言葉に胸が軋むように痛んだ。
ああ…そうか。
こんな風に、祥子さまに云わせているのは、聖さまじゃない。
祐巳だ。
祐巳が、祥子さまにここまで云わせているんだって…やっと気付いた。
なんだか悲しくなってきた。
そして、自分の理解力の無さに情けなくなって涙が出そうだ。
妹は支え…いつだったか、祐巳はそう蓉子さまや祥子さまに云われた。
でも…今の祐巳は祥子さまを悲しませたりする事しか出来てない。
フッ…と、聖さまの祥子さまを見る目が、急に冷たくなった。
さっきまでの何処か優しい目で祥子さまを見ていた聖さまじゃない。
「いい加減にしなさい」
蓉子さまが、祥子さまの肩に触れて云った。
祐巳が、祥子さまに謝ろうと動く前に。
「貴方は、聖が祐巳ちゃんを傷付けたと、それが赦せないと、そう云っているけれど…今貴方がそうやって聖を責めている言葉が、祐巳ちゃんを傷付けているって気付かないのかしら」
「よ、蓉子さま…っ!」
急に話を振られて祐巳は驚いてしまった。
零れ落ちそうだった涙も引っ込んだ。
「…え」
祥子さまが驚いた様に祐巳を見た。
「私が…祐巳を…?」
「ええ。貴方がそう云う度に、祐巳ちゃんは自分を責めるわ。祐巳ちゃんじゃなく、貴方自身が聖を赦せないなら、祐巳ちゃんの名をそこで出すのは、反則ね」
「…祐巳…」
祥子さまの目が、探るように祐巳を見る。
その目が、祐巳には痛々しく思えて…辛い。
思わず、この部屋から逃げ出したくなる。
でもそれをすれば、祥子さまが更に傷付く。
そう思っていた時、聖さまの手が、祐巳の肩を抱いた。
はっとした様に、祐巳は聖さまを見た。
そこには真っ直ぐな聖さまの瞳があった。
「…聖さま…」
「祐巳ちゃん。私は、本当に祐巳ちゃんを傷付けた。だから、どんな罰でも受ける覚悟は出来てるんだ。でもそれと同時に、祐巳ちゃんを傷付ける人間も同じ様に赦さない」
「そ、そんな…覚悟…って…だって、私は聖さまに傷なんてつけられてません。それに今だって…」
祐巳は頭を振って聖さまに云う。
「私は…傷付いてなんか、いません…」
むしろ、祐巳が傷付けてる。
そう思うと、泣けてきた。
どうして、祐巳はこうなんだろう。
ぽろぽろ…と涙が堰を切ったように流れてしまう。
「祐巳……」
祥子さまが、祐巳の名を呼ぶ。
「お姉さま…お願いですから、もうご自分を傷付けるのはお止め下さい…聖さまも、ご自分を責めるのはやめて…!」
ようやく、祐巳はずっと云いたかった事を云った。
祐巳じゃない。
祐巳は、傷付いてなんか、いないから。
…to be continued
next
『amnesia -26-』
20050405
(修正版:20050425)
一番傷つけたくなかった人を、私たちは傷つけてしまった。
『傷付いてなんかいない』
そう云って、君は自分を抱きしめている。
傷付いた心を抱きしめるかのように…