amnesia
-27-





聖さまの手が、祐巳の目を塞いだ。
目を開いていても、辺りは闇。

「思い出して…私が忘れてしまった時の事を」

そして、祐巳の耳に聞こえてくるのは…聖さまの声だけ。






「…祐巳ちゃん」

諭されるような、声。
でも、祐巳には未だによく解っていない。
だから、何も云えない。

思い出す…?
聖さまが時間を戻してしまった時の事を?
聖さまが、祐巳を忘れてしまった時の事を?


……祐巳は、あの時…どう思った?


急に心臓がドキドキし出す。
目隠しされて、周りが見えないからなのか、祐巳は自分の中しか見えないような気持になっている。
他には何も見えないような気持になってる。

祐巳は、祐巳の中の聖さまを追い掛ける。






…あの日。
蓉子さまが薔薇の館にいらした。
そして、祐巳の顔を見て、こうおっしゃった。

『祐巳ちゃん…聖がね、大変なことになってるの』

そう、祐巳は蓉子さまから聖さまの時間が戻ってしまった事を聞いた。

『聖は栞さんに出会う前までに戻ってしまっているの。かろうじて、祥子や令のことは知っている…でも、祐巳ちゃんのことも、志摩子や由乃ちゃんのことも知らない…16歳の春まで戻ってしまっているの』

爆弾発言とはまさにこういうものなんだろう。

祐巳は蓉子さまの言葉が信じられなくて。
何が何だか、解らなくて。
でも、蓉子さまがこんな冗談を云うはずもない。
冗談を云いにわざわざ薔薇の館まで出向く訳が無い。
それでも、やっぱり祐巳は信じたくなかった。

でも…蓉子さまの云う通り、聖さまは昔に戻ってしまって…祐巳を忘れてしまっているのかもしれない…そう思うと、居ても経っても居られなくて、祐巳は薔薇の館から飛び出していた。


その祐巳を、志摩子さんが追い掛けてきて……?
その時…聖さまが歩いてきて………?



祐巳は……その時……?






  †





「し…」
「祐巳ちゃん?」

呟かれた祐巳ちゃんの声に私はその口元に耳を寄せた。
微かに、からだが震えているのが、目隠しした手のひらから伝わってくる。
睫毛が、震えている。

「志摩子…さん…っ」
「…え?」

志摩子?
その名が祐巳ちゃんの口から飛び出した事に意外に思いながら私は志摩子を振り返る。
志摩子も、驚いた様に目を見開いている。

すると、私の手から逃れるように祐巳ちゃんが動いた。

「志摩子さん…!」

私は、信じられない気持で祐巳ちゃんの動きを目で追った。

「…え…祐巳さん?」

真っ直ぐに、祐巳ちゃんが志摩子の方へ小走りで近付いて、それからまるですがる様に抱きついた。

「祐巳さん?どうしたの?」
「志摩子さん…あの時、私、聖さまに逢ったよね…?」
「あの時…?」

志摩子が祐巳ちゃんを抱きとめながら柔らかな口調で聞く。

その光景に、胸に嫌なものが溢れる。
相手は、自分の妹だというのに。

自分によく似た、まるで鏡に映した自分自身のような妹…
…これは、だからこその感情なのかもしれない。

「蓉子さまに、話を聞いて…私、薔薇の館を飛び出した…その時、志摩子さんが追ってきてくれて…」
「…ええ…その時、お姉さまが歩いてきたわ…それが?」

志摩子が、祐巳ちゃんの言葉を受け継ぐ様にそう云った。
その時、祐巳ちゃんの体が急に志摩子から離れた。

…なんだ?

志摩子から後退りするように離れると、まるで怯えているかのように、祐巳ちゃんは自分で自分を抱きしめた。

祥子が目の端で動き出そうとしているのが見えた。
その途端、血液が逆流するかのような感情が私の何処かから噴出した。

ダメだ。
触れては、ダメだ。
もう、ダメだ。
誰も、触れるな。

触れさせない…っ


咄嗟に腕を伸ばして、その小さな体を自分に引き寄せた。
私の動きに敵わず、動けなかった祥子が唇を噛むのが見えた。
その表情に、何だというのだろうか…奇妙な安堵感を感じた。

咄嗟に動いて、引き寄せた。
その一連の行動、そして奇妙な安堵感…それが自分の剥き出しの闘争心みたいなものだという事を理解して、心に広がる苦い気持に目を伏せた。

まるで、小さな子供みたいだ。
いや、小さな子供じゃないから始末が悪い。

さっき、私の傍から離れ志摩子に抱きついた祐巳ちゃんに、胸が痛んだ。
そして志摩子に軽い嫉妬を覚えた。
今、祥子が祐巳ちゃんへと駆け寄ろうとしたのに気付いて私は先手を打つように動いていた。

…独占欲。

私は、今私の胸に抱いているこの子を、誰にも触れさせたくないと思っている。
そう…この子の姉の祥子にさえ。

こんな気持は、ダメなのに。
こんな気持を持っては、ダメなのに。
また、あの時の二の舞を踏んでしまう。

「ごめん、祐巳ちゃん…」

無理に祐巳ちゃんを『祐巳ちゃん自身』に向き合わせようとした事と、自分の独占欲の醜さに、謝罪を口にした。
祐巳ちゃんは、私の胸に頬を預けて微かに体を震わせている。

「…聖さま…私、恐かったんです…だって…」
「祐巳ちゃん」

顔を上げずに云う祐巳ちゃんに、「いいから」と囁く。

「今は、いいから…無理させてごめんね…」
「聖」

呼ばれて、蓉子に顔を向けると、目顔で部屋を出る事を伝えてくる。
それに頷いて、声に出さずに「ごめん」と呟いた。
蓉子は「いいのよ」と云う様に首を横に振ると微笑んだ。

「…今日は、これで終わりにして帰りましょう」

私と蓉子のやり取りを見ていたのか、祥子がそう切り出した。

でも……実際はまだ祥子と私の話は終わっていない。

…話さなければならない。
そう思いながら祥子を見ていた。
すると、祥子が私に向かって、さっきの蓉子のように首を横に振った。

それは、どういう意味なのか。

『もういい』という意味なのか、『話し合いは後程』という意味なのか…私には読めなかった。

「お姉さま…っ」

祐巳ちゃんが、私の胸から顔を上げて祥子を呼んだ。
一瞬、さっき志摩子に感じた胸の痛みが甦る。
けれど服の裾を握っている手は、離れて行かない。

祥子は祐巳ちゃんに微笑むと、頷いて、「解っているわ」と云った。

「話はいつでも出来るから。だから大丈夫よ、祐巳」


そう云うと、祥子はみんなにこの部屋を出る様に促した。
ビスケットの扉が開かれて、みんなが部屋の外へと向かって流れていく。
最後に蓉子が部屋を出ようとして、ふと、何かを思い立ったように立ち止まって祐巳ちゃんを見た。

「祐巳ちゃん…あのね、祐巳ちゃんはね、遠慮しすぎな処があるのよ。聖は…きちんと祐巳ちゃんを受け止めてくれるから、だから…安心なさい」

そう祐巳ちゃんに向かって云うと、蓉子は「ごきげんよう」と云って静かに扉を閉めた。

私は閉まった扉を見詰めている祐巳ちゃんを抱きしめ直して、その小さな背中を軽く叩いた。
まるで、泣いている子供をあやすかのように。
ポンポン、と。

すると、私の服の裾を握っている祐巳ちゃんの手に、キュッと力が込められていく。
私はその手をゆっくりと開かせる。
その私に不安そうな顔をする祐巳ちゃんに、片目を閉じて笑う。

「服なんか握らないで、私に抱きついてよ。生身に人間の私の方が、ずっといいでしょ?」

祐巳ちゃんはきょとんとした顔をする。
そして、ゆっくりと笑顔になって…それから、くしゃりと顔を歪ませた。

「……っ」
「おいで、祐巳ちゃん」
「…聖さま…っ…」

しがみ付いてくる祐巳ちゃんを、しっかりと抱きとめる。
小さな体で、しがみついてくる祐巳ちゃんが、愛しい…そして、悲しい。

「もう…やだ…っ」
「うん…」
「私を、忘れないで…下さい…っ」
「…うん…ごめんね…」

ずっと、祐巳ちゃんは『傷付いていない』と云っていた。
でも、本当は違う。

とても…とても、傷付いていたから。

「どうしようかと思った…このまま思い出してくれなかったら…このまま私を知らないままだったらって…」

本当に、深く傷付いていたから。

でも、祐巳ちゃんはそこから目を逸らしていた。

私の事を考えて。
私の気持を最優先して。

そして、祐巳ちゃんを忘れた私から、容赦なく付けられた傷からは、目を逸らし続けた。

「聖さまは、『聖さま』だけど…でも、私を知らないっていう聖さまが…悲しくて…私を見て欲しくて…それで…」

一生懸命に言葉を紡ごうとする祐巳ちゃんに、私はただ頷く。
ずっと、ずっと心の中に溜めていたものを、受け止めたかった。


「もう…私を忘れないで下さいね…絶対…絶対…忘れないで…っ」


私は、祐巳ちゃんを抱きしめる腕に力を込めた。


二度と、忘れたりするもんか。

出逢ってから今までの『時間』を共有して行くんだ。
そして、これからの『時間』を共有して行くんだ。

ふたりで、これから先の『時間』を、一緒に。






そう、思った瞬間。
私の中にたった一つ、隠されていた…思い出されていなかった小さな記憶が、まるで何かが開いたかのように思い出された。








…to be continued

next
amnesia -28-
20050519



私は、祐巳ちゃんを傷付けた。
その事実は消えない。

その事実を私は受け止めなければならない。

これからを共に歩む為に。
同じ時間を生きる為に。

それはとても必要な事。



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