amnesia
-28-








…何時間、経ったのだろう。
いや、『何時間』なんてのは大袈裟だろう。
多分、まだみんながいなくなって…十数分、祐巳ちゃんの『言葉』が聞けてからは更に十数分といった所か。

私は祐巳ちゃんを胸に抱いたまま、窓の外に目を向ける。

まだ4時前だというのに夕暮れは早く、少し薄暗くなり始めた。
今日は天気があまりよくないからだろう…もしかするとひと雨来るかもしれない。
雨が降り出す前に、ここから出なくては…と思う。
でも、今この胸に体を預けている子を離したくない自分がいて。
けれど私は、さっき思い出した事を伝えなくてはならない。

だから。


「祐巳ちゃん…」
「…はい?」

名を呼んだ私に答えるように、祐巳ちゃんが私の胸からほんの少し顔を上げて、顔を見上げてきた。
その表情が、何故か妙に艶っぽくて…心臓がドキリとする。
…ホントに…こんな表情いつから出来るようになった…?
何だか息苦しくなりながら、私は祐巳ちゃんに一言一句、区切るようにはっきりと告げた。

「帰り、送っていくから……お願いだから…うちに来て……お願い」

思わず、云い終えてから、耐えられなくて目を逸らしてしまう。
そんな私に首をかしげるのが目の端に見えた。

「お願い、だなんて…おかしな聖さまですね」

祐巳ちゃんは私の腕からゆっくりと離れて立ち上がると、手を差し出してきた。

「なんだか雨が降り出しそうです。早く聖さまのお部屋に行きましょう」

私、傘を持ってきていないんです、と祐巳ちゃんがぼんやりと見上げる私の手を取った。






  †







何が原因で思い出せなかったのか。

私はすべてを思い出していたにも関わらず、その事だけが何故か思い出せていなかった。

引き出しに仕舞っておいたもの。
祐巳ちゃんに手渡そうと思っていたもの。

でも、それは祐巳ちゃんが目を逸らしていた事に目を向け、私にそれをぶつける事が出来た時。
思い出せなかったその小さなもの…その中身を鮮明に思い出した。

思い出して、何故それを忘れていたのかが逆に不思議で。
不思議に思うくらい、忘れてはいけないものだった。
それなのに…私はそれを綺麗に忘れていた。
信じられないくらい、綺麗に隠されていた。



部屋にたどり着いて、湯を沸かして紅茶を淹れて。
カップに注いだそれを一口、口に含んで一息ついた時、窓に目を向けるとやっぱりというように雨が降り出していた。
気付くと祐巳ちゃんも窓の外に目を向けている。
雨の音は聞こえてはこない。
聞こえる程の酷い降りではないんだろう。
音楽も何もない部屋に、ただ時計のカチコチという音だけが響いている。
TVやステレオのスイッチを入れる気にはならなかった。

…さっきあんな事を云ったせいか、祐巳ちゃんが私を気にしているのは、この部屋に入ってからずっと感じている。

そりゃそうだろう。
『お願い』なんて云ってしまった。
でも、願うほど、離れたくなかったから。

そして…思い出したものを、祐巳ちゃんに手渡さなければならない。
まるで焦っているかのように、私はそう思っていたから。


座っていたソファからゆっくりを立ち上がると、私は寝室へ行き、引き出しからリボンをかけた小さな包みを取り出した。

正直、あまり器用な方ではない。
だからこの包みを開いて、再度包み直すのには細心の注意を払った。
可愛らしい、お店専用の包装紙。
しわにならないように、破かないように。
その時の緊張を思い出して、苦笑いする。

…その日から、何日経ったんだろう。
日にちにしたなら、そんなに長い時間ではない。
けれど、なんだかその数日はいつもの時間よりも長く、そしてとても濃い気がする。

いろいろ、あった。

ほんの数日。
だけど、そう云える時間。

本当…いろいろ。



私はその包みを手に、深呼吸をする。

何気に緊張している自分に苦く笑って、前髪をかき上げた。


そして、そんな自分を振り切るようにリビングに向かった。

ソファに腰を下ろすと、祐巳ちゃんが気遣わしげに私を見る。
なかなか戻って来ない私に、どうしたのだろうかと思っていたんだろう。

「聖さま?」
「ごめん、これを取りに行ってた」

これ、とその包みを見せて、そして祐巳ちゃんに差し出した。

「…え?」

包みと私の顔を見比べる。

「これ、貰ってくれるかな」
「え…聖さま…?」

なかなか手を出さない祐巳ちゃんに、私はその手を取って包みを手のひらに乗せた。
こんなに、小さなものなのにね。
私の中では、とても大きなものだ。
そして…重いもの。
私のずるさを、露呈するもの。
けれど、そのずるさを自覚しながらも、そうせずにいられないほどの…気持ち。

「あ、あの…っ」
「これは、祐巳ちゃんに貰ってほしいんだ。もし貰ってもらえなかったら、捨てるしかない」

祐巳ちゃんが私の顔を困惑気に見つめる。
そして、逡巡したあと、小さな声で、呟いた。

「……開いても、いいですか?」
「もちろん」

私は思わず苦笑してしまう。
まだ、受け取っては貰えてないって事か…と。

するりとリボンが解かれ、カサカサと微かな紙音を立てて開かれていく包みに、私は何故だか逃げ出したい気持ちになった。
徐々に開かれていく包み。
私の浅ましさが、ずるさが顔を出す…そんな瞬間に。


「…わぁ…!」

包み紙の中から顔を出したものに、祐巳ちゃんが目を丸くした。

「クマ…!小さいクマですね!」

直径にして十センチ強…といった感じのクマ。
私が見掛けて、けれど既に展示用しかなく諦めかけていたのを蓉子が見つけてきてくれたものだ。

「あれ…これ、耳ボタン…もしかしてこれって…シュタイフのクマじゃないですか?」

祐巳ちゃんが好きそうだと思っただけで、メーカーの名は気にしていなかった。
でもその名は知っている。
ドイツのぬいぐるみメーカーの名だ。

見掛けた店で、多分フェアみたいにしていたんだろうとしか思っていなかった。
蓉子は知っていて見つけたんだろうか?
まぁあの蓉子の事だ、その辺は抜かりないのだろう。

クマを見ていた祐巳ちゃんの表情は面白いくらいに目まぐるしく変わっていく。
驚愕は動揺に。
動揺は困惑にと変わっていく。

「あ、あの…こんなに高価なもの…私…戴けま…
「気に入らない?」
「そ、そんなんじゃないです!そうじゃないです…でも……あ、あれ…?」

クマを見ながら困惑した顔をした祐巳ちゃんの顔が、また驚いたように変わった。

もうひとつのものに、気付いたみたいだ。
…本気で私は逃げたくなってくる。

「……あ」

クマのオプションに見えるかな、なんて思いながら仕込んだ。
これを入れる為に包装を一度解いたんだから。

「腕、時計…?」
「…うん」

それを手に取って見つめる祐巳ちゃんに苦々しい気持ちが強くなってくる。

やっぱり、止せばよかったかな、なんて。
でももう、遅い。
私は祐巳ちゃんの手からそれを取って、そしてそのまま祐巳ちゃんの手首に巻かれている腕時計を取って、そちらを巻きつけた。

「この時計はね、ネジ式」
「ネジ…?」
「あれ?知らないかな。電池で動く時計じゃなくて、ネジ式」

そう云うと、祐巳ちゃんは自分に手首に巻かれたその時計をマジマジと見つめる。

「…あ、手巻きネジの腕時計なら、お父さんが持って…」

そこまで云って、祐巳ちゃんは本当に驚いたような、それでいて困惑したような…なんとも云えない表情になった。

「い、戴けません!」
「え?祐巳ちゃん…?」
「ダメです!聖さま!」

何故そこで涙目になる?

…そんなに迷惑なんだろうか…と、やるせなくなる。
やっぱり、止せばよかったんだろうか…

「知ってます、こういう手巻きネジ式の時計は高価なものだって。お父さん、本当に大切にしてるんです、お母さんからのプレゼントで、一番高価なものだって云って。だから…っ」

慌てて腕時計を外そうとする祐巳ちゃんに、私はその手をやんわりと止める。

「クマは確かに私が見掛けて祐巳ちゃんに似合うな、可愛いなと思って買ったけど」

迷惑とかではないんだな、と少しホッとしながら私は微笑んだ。

「この時計は亡くなった曾祖母から譲ってもらったもの」
「な…っ、それなら尚更戴ける訳がないじゃないですか…!とても大事な、大切なものじゃないですか!」
「…なーんちゃって?」

ペロ、と舌を出す私に、祐巳ちゃんは涙目で動きを止めた。




…to be continued

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