amnesia
-3-



蓉子が『仲良し』だと云ったツインテールの少女が私を見つめる。
その何かを云いたげな視線に、心がざわつく。
苛つくのか、落ち着かないのか、よく解らない。

この心のざわつきの理由が理解出来たのは、もう少し先の話。







M駅までのバスの中、特に話をするでもなく。
三者三様に時間を過ごす。
祐巳とかいう子は、窓側に座り、流れる景色を見ている。
蓉子は、真ん中で腕を組んで、空中を凝視している。
私は…反対側の窓の外を見ていた。

しかし。
蓉子を追い越し、小さな背中を見る。
私がこの子と『仲良し』ねぇ…
考えられない。
私は髪をかき上げる。
もしかして、蓉子に騙されているんじゃないか?なんて考えてしまう。

でも…この子が蓉子の企みに乗るようには見えない。
しかし、この子もあの巧妙に人を操る紅薔薇の名を掲げる子だ。
表面だけでは、解らないかもしれない。

M駅前の停留所にバスは到着し、私の部屋への道程を歩き出して数分。
蓉子がふと、立ち止まった。

「…蓉子?どうしたのよ」
「…どうも私、貴方の部屋に行く時にこの辺で戸惑うのよ…帰る時は直ぐに解るんだけどね」

そう云いつつ、蓉子が首を捻る。
私は勿論さっぱり解らない。
この辺りは似たような建物も多いようだし。
何せ、しかも今日初めての場所なのだ。

「あ、あの…蓉子さま、聖さまのお部屋はこちらです」

祐巳とやらが、先だって歩き始めた。

「ああ、こっちなの。有難う、祐巳ちゃん」
「いいえ…ここら辺は解り難いので、覚えるまではあの看板を目印にするといいと、聖さまが云っていたんですよ」

そう云いながらビルの屋上にある大きな看板を指差した。

「成程…あれが目印になる訳ね」
「はい」

にっこり、と祐巳さんが笑う。
私は思わずムッとした。
勝手知ったる…といった感じで気に障る。

『私』が云った?
私はそんな事、知らない。

表情に出ていたのだろうか。
祐巳さんが、私を見てハッとした様に口籠もった。
その様子に気付いて、蓉子が私を渋い顔で見た。

「…聖。貴方、もう少し…」
「あ、あの、蓉子さま。私、これで失礼します。きっと此処で迷われるかもしれないと思って付いてきただけですので」
「え、祐巳ちゃん?」

蓉子が引き止めに掛かるのは目に見えている。
私は蓉子がこれ以上何か云う前に先手を打つように「そう」と云った。

「ここまで有難う。面倒を掛けてしまって、ごめんなさいね」
「聖!」
「…いいえ。構いません……あ、これ、蔦子さん…写真部の友人が聖さまから頼まれたものだと。薔薇の館に向かう前に預かったんです」
「そう、有難う」

私は差し出されたちょっと厚い封筒を祐巳さんから受け取った。

「では…聖さま、ゆっくりお休みになって下さいね…さっきより顔色、よろしくないですから…では…蓉子さま、聖さ、ま…ご、きげんよ…う」
「ちょ…っ、祐巳ちゃん!」

最後の言葉を云い終わるか、終わらないかの内に、ポロッ…と頬に涙が零れ、祐巳さんはそれを隠すかのように踵を返して駆け出した。

「祐巳ちゃん……」

少し、後味が悪く思ったけれど、でも、こればかりはどうしようもない。
私は、知らない人間に踏み込まれて黙っていられる程、人間が出来ていない。

「聖、貴方何故…」
「別に。ちょっと云い方がキツかったかしら?蓉子、貴方も帰っていいわよ?」
「……いいえ。ちょっと、寄らせてもらうわ」
「そ?」

好きにすればいい。
蓉子は自分の気の済むまで付きまとう。
それにいちいち目くじらを立てるのも、疲れるだけだ。

丁重に、おもてなししましょ?





私は『私』の名のついた部屋のドアに鍵を差し込む。
その瞬間、感じるのは、やっぱり違和感。
自分の部屋らしいけれど、知らない部屋。
知らない間取り。
全てが、知らないものばかり…という訳ではない。
使い慣れているものも、確かにある。
でも、総じて印象は『知らない場所』なのだ。
私は思わず溜息をついた。
蓉子も部屋に入って、フッと溜息をついている。
意味は全く違うものなんだろうけれど。

「祐巳ちゃんから貰ったものって、何?蔦子ちゃんからなら写真よね」

蓉子がさっきの封筒を気に掛けている。
私は感慨なくそれを渡した。

私には、どうせ解らないものだ。

蓉子はその封筒から中身を出す。
途端、蓉子の表情が和らいだ。

一体、何が写っているのだろう。
こんなにも、蓉子が和んだ表情を見せるもの、なんて。

「…何?一体」

思わず、口からそんな言葉が飛び出した。
すると一瞬、迷うような表情になり、そして何かを決めた顔になった。

「…貴方には、まだ見せられないものだと思うわ」
「え?それってどういう…」

蓉子は写真を封筒に仕舞い、そして自分のコートのポケットに仕舞った。

「ちょ…」
「今はまだ、貴方にはこの写真の価値が解らないと思うから。私が預かっておく。本当に気になったら云って。その時、返すから」
「……訳が解らない」
「でしょうね」

解る事は、蓉子が静かに怒っている事だけだ。

「あの子を邪険にしたから?」
「……それも、ひとつよ。あの子は、私の可愛い孫なの。今は私が守ってあげなきゃ」
「小笠原祥子があの子の姉なんでしょ?」
「ええ」

ならなんで…と云い掛けた時、蓉子の携帯が鳴った。

「ちょっと待って。…はい。ああ…どうしたの?…ええ…ええ、解ったわ。…大丈夫?…そう…強いのね…」

蓉子の話を聞くとはなしに聞く。
こんな近くにいるんだから、仕方が無い。
蓉子に表情と声は、優しい。
こんな蓉子は初めてかもしれない。
そう考えて、『いや違う』と心の中で否定する。
さっき、薔薇の館であの子を対する蓉子の目や声も、こんな感じに優しかった。

じゃあね、と携帯を折り畳んでバッグに仕舞いながら、蓉子は溜息をついた。

「さっきの続きだけど…あの子は祥子の妹だけど、それだけじゃないの。今は、代わりに私が気に掛けてあげないといけないのよ」

私の目を真っ直ぐに見ながら、蓉子が云った。
意味が、解らなかった。
ただ解るのは、蓉子は『私』に云っているんだって事だけ。
私ではなく、今私の奥底にいるであろう、大学1年生の、『私』に。

それに、眉をひそめた。

「…それじゃ、私も帰るわ」

そう云って、蓉子は私に背を向ける。

「ああ、明日も薔薇の館に行くのよ。待ってるから。…あと、コーヒーの新しい袋は右上の棚にあるから」
「え?」

私は訝しげに蓉子を見た。
ここまでの道順がまだ完全ではない蓉子が何故そんな事を知っている?
そんな私に気付いて蓉子が笑う。

「もう少しで無くなるんですって。今携帯で知らせてくれたわ」
「…誰が?」










私は、蓉子が部屋を出て行ってから、キッチンの右上にある棚の扉を開けた。
そこには、新しいブルーマウンテンの豆。

それを見つけて、私は内心舌打ちをした。

…聞かなきゃよかった。
誰が?なんて。


蓉子は、去り際に聞いた私にこう答えた。

「祐巳ちゃんよ」…と。



…to be continued

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amnesia -4-

20050222
postscript

私を、私より知る人間がいる。
私はその人間の事は何も知らないのに、私の事は知られている。
私の知らない、『私』の事を。
こんな恐ろしい事は、無い。

何故、私よりも私を知っている?
貴方は、いったい…?


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