amnesia
-4-
苛々する。
どうしろって云うのか。
私にだって、解らない。
なのに、知ってる人間も知らない人間も、『私』に帰れと云う。
私は、何も失っていないし、何も忘れてなどいないのに。
何を思い出せと云うのか。
何処に帰れと云うのか。
私は、『私』の事など…知らない。
蓉子が帰って、数時間。
私はどうにもならない感情を持て余していた。
今朝、目を覚ましたら、二年という時間が経過していた。
まるで浦島太郎の気分。
いや…浦島太郎よりはマシ。
三百年も経過していないだけ。
『私』は大学生になっていて、車の免許証や携帯電話、一人暮らしの部屋を持っていた。
なんだか、信じられない。
よくもあの親が私の自活を許したものだ。
…と云っても、ここに越してきたのはつい最近らしいけれど。
蓉子も江利子も、リリアンにはいなくて、『私』だけがリリアンに残っていた。
早く離れたいと思っていたリリアンに何故『私』だけが残っているのか。
今の山百合会は蓉子の妹になった小笠原祥子と江利子が気に入っていた背の高い少年のようだった令という子、そして……持つ事など全く想像も出来なかった、『私』の妹が三薔薇さまとして運営されていた。
もっと信じられない事がある。
『私』は、福沢祐巳という女の子と、仲良くしていたらしい。
彼女は小笠原祥子の妹で、紅薔薇のつぼみ。
蓉子もあの子を大層可愛がっているらしい。
よくあんな平凡そうな子を……と不思議に思う。
そして、『私』が何故その子と仲良くなったのか…考えも及ばない。
解らない事だらけ。
想像も出来ない事だらけ。
一体、二年の間に『私』に何が起きたのだろうか。
どんな心境の変化があったのだろうか。
『今』を知るために色々部屋の中を探りたい処だ。
でも…もし『私』と私の本質的な部分が変わっていないのなら、知らない人間に自分の物を見られるなんて事はどうにも我慢出来るものではないはず。
だから、必要以上の探索は止めておく。
蓉子辺りなら自分のものなのに、と思うかも知れないが、理屈じゃない。
私と『私』は、まるで違う人間だから。
正直、この場所にいる事自体がどうにも居心地が悪かった。
でも、あの家にいるよりはずっとマシ。
携帯電話のアドレスを開く事も良い気がしない…が、あえてそれに目を瞑る。
蓉子や江利子の名は勿論、小笠原祥子たちの名も見つける。
他にも、知らない人間の名を数人見つけたが、相変わらず人間関係は希薄なようで、なんだか少しだけホッとした。
そして、『ホッとした』自分に舌打ちをする。
知らない自分との共通点をまたひとつ見つけたからって、何故そんな事を思わなくてはいけないのか。
「…馬鹿馬鹿しい」
携帯電話をベッドサイドに置いて、ベッドに寝転ぶ。
食事もする気がしない。
このまま眠ってしまえば、目が覚めれば元の自分に戻っているかもしれない。
こんな馬鹿げた事、現実のはずがない。
そう思って、私は自分を抱きしめるようにして、目を閉じた。
こんなのは、悪い夢に違いない。
……淡い期待は、目が覚めて一瞬で砕かれた。
朝日に照らされた部屋が、私を絶望へと突き落としてくれた。
『じゃあ、薔薇の館でね』
私はぞんざいに返事をすると携帯の通話を切った。
もう、溜息しか出ない。
一体、どうしろって云うのよ。
一体、私が何をしたっていうのよ。
『私』は、どうして私に戻ったのよ。
これも自問って事になるんだろうか。
心の底にいるらしい『私』に語り掛ける事しか出来なくてもどかしい。
また、薔薇の館に行けば昨日の事を繰り返されるのだ。
もう、勘弁して欲しい。
何処に戻れと云うのか。
何を思い出せと云うのか。
私は、何も知らない。
知らないものを、思い出す事など出来ないのに。
その時、インターフォンが来客を告げた。
一瞬、どうしようか迷う。
面倒という気持と、『私』の知り合いだったら…という気持が混ざり合って、迷った。
もう一度、鳴った。
「ああもう…」
私はソファから立ち上がると、インターフォンのボタンを押した。
「はい」
『祐巳で…あっ…じゃなくて…福沢祐巳です』
思わず、眉間のシワが深くなる。
「…ちょっと待ってて」
玄関に向かい、扉を開く。
そこにはピンクのマフラーをした祐巳さんが立っていた。
心持ち、緊張したように。
「ごきげんよう…すいません、こんな時間に…」
全くだ。
「で?何の御用?」
「あの…もしかして、今日も薔薇の館にいらっしゃるんですか?」
「ええ…さっきも蓉子から脅しの電話が来たから。行かなきゃ迎えに来られて強制的に連れて行かれそうだし」
そう素っ気無く告げる。
そんな私を祐巳さんが真っ直ぐに見ていた。
「ああ…もしかして、早速迎えにでも来てくれた訳?生憎だけど、授業が終わる頃に向かう予定だから」
「いえ…そうではなくて……聖さま、皆さんには私が何とか説得しますから…だから、今日はゆっくりと体をお休めになって戴けませんか?昨日の今日では、聖さまが…」
私は、思わず鼻白む。
なんだ?この子。
一体、どういうつもりでこんな事、考えているんだ?
何故私がこの子に心配されなくてはならない?
お節介にも程がある。
「貴方が説得して、皆は貴方の云う事を聞いてくれるの?」
「…え?」
「貴方、そんなに偉い訳?」
「そ、そんな事…!」
祐巳さんは、慌てたように首を振り否定する。
成程ね……いるんだよね、こういう子。
善意を盾に自分を満足させようとする子。
その善意が偽善だって事に気付いていない子。
全てが自分の思い通りに動くと思っている子。
自分が頼めば、皆が聞いてくれると思っている子。
余程甘やかされて育ったんだろう。
ま、蓉子も小笠原祥子も、この子にはベタ甘い感じだったし。
そういえば、蓉子に至っては『私が守ってあげなきゃ』なんて云ってたっけ?
本当に『私』はこんな子と仲が良かったんだろうか。
この部屋に出入りさせ、傍に置いていたんだろうか。
…そこまで、『私』は腑抜けたんだろうか…?
もしかして、『私』が私になった原因はこの子にあるんじゃないだろうか。
この子に嫌気がさして。
この子から、逃げようとして。
「…悪いけど」
前髪をかき上げて、微笑んで見せる。
「お節介はいらないわ。貴方にそんな事してもらう理由も無いし、『私』と貴方がどれだけ仲良しだったかなんて知らないけど。でも私の事まで知ったかぶられるのは正直云って、迷惑」
そう、迷惑。
目障りだった。
何か云いた気にチラチラ見られて、周りをうろうろされるのは。
まるで自分だけは貴方を心配してますって顔をして。
でも腹の中では皆と同じ事を考えているはず。
目の前の子の表情が凍りつき、そして見る見る悲しそうな顔になる。
今にも、泣き出しそう。
罪悪感を感じない訳じゃないけど、いい加減にいて欲しかった。
こういう子の常套句、「そんなつもりじゃ…」とかって云って泣き出して走り去るんだろうな、と腕を組みながら早く行ってしまえば良いのに…とその子を見ていると、泣きそうになりながらもゆっくりと微笑んだ。
「…ごめんなさい聖さま…お節介が過ぎてしまって」
え?
私は思わず目を見開いて祐巳さんを見た。
何故、そこで微笑む事が出来る?
何故、謝る?
こういう子は自分がする事が絶対だから、否定される事を信じられないはずなのに。
「こんな時間に、申し訳ありませんでした。あ…私がお節介した事、内緒にして下さいね。叱られてしまいますから。それじゃ、そろそろバスの時間が近いので…」
ごきげんよう、とペコリと頭を下げると、ゆっくりと背中を向けた。
そしてゆっくりと歩いていき、我慢出来なくなったのかパタパタと走り出す。
「……あ」
思わず、手を伸ばし掛けた。
そんな自分に驚く。
何故?
私は、伸ばし掛けた手と、遠くなっていく背中を交互に見ていた。
祐巳さんが視界から完全に消えてからも、しばらくその場から動けなかった。
…to be continued
next
『amnesia -5-』
20050224
postscript
『私』と同じように私を慕ってくる少女。
傷付けてしまえば、もう近付いてなど来ないだろう、そう思った。
だから、ばっさりと切りつけた。
容赦なく、傷付けてやった。
きっともう近付いて来ない。
これで私はあの物云いた気な視線から解放されるに違いない。
私より『私』を知っている少女から。
なのに、傷付けた事を、私は後悔している。
微笑みながら頭を下げて、背を向けた少女は今きっと泣いているだろう。
その背中に私は腕を伸ばし掛けた。
…それは、何故?
私は、じっと手を見る。