amnesia
-30-







嬉しくて。
本当に、嬉しくて。

でも…罪悪感に胸が痛む。

祐巳ちゃんが私を想ってくれている事に安堵して、そして、優越感に支配される…
そんな事を考えてしまう自分に…いつか…













「聖さま…この時計、聖さまの傍に置いて戴けませんか?」

祐巳ちゃんがは今まで、その手首に巻かれていた腕時計を私に差し出してきた。
思わず私は「え?」と驚いて祐巳ちゃんを見る。

「聖さまのひいお祖母さまと、ひいお祖父さまの妹さんのように…」
「ちょっと待って。でもそれは…」

困惑してしまう。
そんな私祐巳ちゃんは真っ直ぐに見て「お願いします」と云った。
何故そんな事を考えたのか…私には考えもつかない。

「だって…この腕時計は、祐巳ちゃんが高等部に進学した時に戴いたものなんでしょう?そんな大切な時計…」
「もちろん大切です。でも、大切だから…聖さまに持っていてほしいんです」

もう私には、聖さまから戴いた腕時計があるから。

祐巳ちゃんがそう云って微笑む。
そりゃ、確かに私があげた時計をこれからつけてくれるなら、今までの時計はつけられなくなるけれど…
だからって、この時計を私が手にしていいものじゃない。
祐巳ちゃんの今までの時間を共に過ごしてきた時計。
…もちろん、欲しくないのか、と聞かれれば…欲しいに決まっている。
私の知らない祐巳ちゃんを知っているものなんだから。

でも。
私が渡した時計は、私が祐巳ちゃんのこれからを縛る為のもの…
それなのに、祐巳ちゃんの大切な時計を私が持ってはいけない気がする。

「大切だから、聖さまの傍に置いてほしいんです…聖さまのひいお祖母さまたちのように…ずっと傍に。大切なものだからこそ…私の、今までと…そしてこれからの時間を…貰って下さい」

祐巳ちゃんの言葉に、思わず私は目を見開いてしまった。

「…祐巳、ちゃん?」

今、なんて云った?
さりげなく、凄い事を云われた気がする。

思わず、私は祐巳ちゃんが今云った言葉を反すうする。

『私の、今までと…そしてこれからの時間を…貰って下さい』

そう云った?

「ちょ…っと、待って…それって…」

前髪をかき上げる私に、祐巳ちゃんは「そんなに困らせる事を云ってしまいましたか?」と不安そうに云う。
私が前髪をかき上げるのは、照れているか困っている時のクセだと祐巳ちゃんはもう知っているから。

「今…祐巳ちゃんはとても凄い事を云ったんだけど…自覚、ある?」

前髪をかき上げるその手を止めて、私は俯き加減で問う。
顔が、上げられない。
きっと私は困惑やら何やらで解らない顔になっているに違いない。

自覚があって、そんな事を云っているのだろうか?

「この腕時計は高等部に入った頃からの私の記憶を持ってます。そして、これからは…聖さまのお傍に置いてほしい…これからの私は、聖さまが」

祐巳ちゃんがそこまで云った時、私の中で何かがプツリと音を立てて切れ、途端にその細い肩に手を回し、思い切り自分に引き寄せて、その体を抱きしめた。

急の事に、祐巳ちゃんの言葉はそこで止まってしまった。
しっかりと背中に腕が回して、祐巳ちゃんを胸に抱きしめてしまっている。
そして…祐巳ちゃんの手が、私の胸に置かれてしまっているのに気付いてちょっと困ってしまう。
ドキドキが、伝わってしまう。

「祐巳ちゃん…それ、凄い殺し文句だよ…」

声がかすれてしまう。
呼吸が苦しくて…でも手放せない。
そして、置かれてしまっている手から、心臓のドキドキが祐巳ちゃんに伝わっているのはもう間違いないだろう。
なんだか…祐巳ちゃんまでドキドキしているみたいだ。

「…だって…怖いんです…」

え?
怖い…?

私は抱いている腕を緩めて祐巳ちゃんの顔を見ようとした。
けれど、それは祐巳ちゃん自身によって阻止された。
祐巳ちゃんの手が…私の背中に回されている片手が、しっかりとシャツを握っていて。

「…ひいお祖母さまと、ひいお祖父さまの妹さんの話を聞いていたら、私は聖さまと栞さんを思い出してしまったから…」
「…!」

思わず、体がビクリと揺れてしまった自分に舌打ちしそうになった。

「…なんで?」

どうして、まだ君は囚われる?

「どうして、私を信じてくれない…?」

こんなに君を欲して、その時間すら縛ろうとしている私を。
未だに、私の中の『栞』に囚われる?

「そうじゃ…ないですっ」

ギュッとシャツの背中を握りしめている手に力がこめられていくのを感じた。
それはまるで、私から離される事を恐れているかのよう。

「そんなんじゃないんです…っ!聖さまはクリスマスイヴの時に云ってくれました…私の事、全部忘れても思い出してくれました…」
「それなら何で」
「過去は!消えないから!」

胸の置かれていた手が、背中に回ってくる。
両腕が、しっかりと私を抱きしめている。
私から離れるものかと。

「…消えない…から…だから…怖いんです…」
「じゃあどうしたらいいのよ…!」

私より一回り程、小さな体。
その体を、まるで小さな子供が大切なものを奪われたくないが為にしっかりと抱きしめて離さないかの様に抱く。

どうしろっていうのか。
どうしたら、君の不安は消せるのか。
いつになったら、『栞』を忘れてくれるのか。

……無理、って事か。

私は、これからもきっとずっと栞を忘れる事は無い。
忘れるつもりもない。
それなのに、祐巳ちゃんに栞を忘れろ、なんて無理な話だろう。

…私の側にいれば、いつまでも君は囚われ続けるって事になる?

「…離さないで、下さい」

ポツリ、と…祐巳ちゃんが呟いた。

「絶対、離さないで下さい…」
「祐巳ちゃん…?」

私は、私に力いっぱいしがみついている祐巳ちゃんを見下ろす。

『離さないで』

そう云われて、ゾクリとする快感みたいなものが、背筋を駆け抜けた。

「きっと、私はこの恐怖を抱えていくんです。だから、それに私が負けないように離さないで下さい…ううん、私は負けるつもりなんか無いです。でも不安になるのは…止められないから…」
「離さない」

祐巳ちゃんが云う。
『栞』の存在に負けないと。
負けないと。

不安になる。
怖い。

でも、負けないと。
だから、離すな、と。


「離せるはず、ないでしょう?」


そんな簡単に離せるような人間を、縛ろうなんて思わない。
この腕に感触を記憶しない。
忘れても、思い出さない。

誰にも心を許さない、心を求めたりしないという誓いを、翻さない。

君を、欲しない。


好きだなんて思わない。




祐巳ちゃんが、腕を緩めて私の顔を覗き込んできた。
私の瞳を、覗き込む。

「好きです」

ふんわりと、微笑みを浮かべると呟いた。

「聖さまが、好きです」

私は、私を『好き』というその唇に自分の唇をそっと触れさせる。

「好きだよ」

唇を触れ合わせたまま、囁く。
すると、まるで電気が走るような感覚を唇に感じた。

初めての感触に、私は驚いて祐巳ちゃんを見た。
祐巳ちゃんも、同じ事を感じたのか、困惑した表情で私を見た。

…思わず、あの薔薇の館で祐巳ちゃんにした接吻を思い出した。
深く重ねた唇。
それまで、祐巳ちゃんを何度か交わした接吻は唇が軽く触れるものだったり…ほんに少し、重ねる程度の軽いもの。

けれど…

私は、祐巳ちゃんを胸に抱きしめた。

今は、まだ気付いてはいけない事と、目を逸らす為に。
いや、私はもう気付いている。
そして、それは私の中で大きくなっていくだろう事にも。
もしかすると…祐巳ちゃんも…気付き始めている?
いや…まだ大丈夫だと思おう。
思いたい。





私は触れたい…もっと。

その、すべてに。

昨日感じた渇望。
それはきっと、抗えない程強い誘惑になる。

いつか、抗いきれなくなる。

ふと、私の目に祐巳ちゃんの腕時計が飛び込んできた。
祐巳ちゃんが、私に持っていてくれと云っていた腕時計。


…そうか。


「祐巳ちゃん…その腕時計、祐巳ちゃんが私の手に巻いてくれる?」

ハッとしたように祐巳ちゃんが私を見た。
そして、急速に笑顔になる。

「さっき、祐巳ちゃんは私に祐巳ちゃんの今までとこれからの時間をくれるって云った。なら、私のこれからの時間を、祐巳ちゃんに貰ってほしい」

その祐巳ちゃんの時計で、私を戒める。
性急に求めないように。
誘惑に負けないように。

祐巳ちゃんの時計を見るたびに、私は私を縛る。

これからの祐巳ちゃんの時間を縛るのなら、私の時間を祐巳ちゃんへ。

「…聖さま…」

私の手首に腕時計を巻いて、ベルトを止める。

「キス、していいですか?」

どうしたというのか、急に改まって。
コクリと頷くと、そっと唇を重ねてくる。


そして、「おかえりなさい」と、囁いた。






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20050604



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