amnesia
-5-
朝、あの子が来た。
紅薔薇の子。
蓉子も、その妹の小笠原祥子も大切に愛しんでいる子。
いや、他の山百合会メンバーからも大事にされているような気がした。
私は、その子を傷付けた。
我慢出来なかった。
あまりにも、その善人的態度に。
だから、容赦なく傷を付けた。
走り去ったツインテールの後姿が消えた後も、何故か私はしばらくその場を動けなかった。
…本当に、私はあの子と仲が良かったんだろうか?
あまりにも、合わない。
何もかもが。
そう思ったのに…何故か、泣きそうになりながらもゆっくりと微笑んだ、その顔が…頭から離れない。
朝にあった事も手伝って、薔薇の館に行くのが憂鬱でならない。
行けば、あの子がいる。
知らないフリをして笑い掛けて来るか、それとも不自然な程自分を見ないか、それとも蓉子や他の山百合会のメンバーに告げ口でもしているか。
でも、何故か最後の選択肢は有り得ないかもしれない、なんて思えた。
「…はっ、何考えているのよ」
あの子の毒気に当てられたのか、甘い事を考えている自分を自嘲気味に笑う。
自分をいい子に見せる子なんて沢山いる。
自分の行動を正当化し、さも、傷付いたというような顔をしながら涙ながらに訴える、なんていう人間は。
ああ…そうだ。
ふたつめの選択肢。
不自然な程に目を逸らし、それを周りに気付かせて問い詰めさせ、仕方なく理由を口にしました…なんて方法を取る輩もいるんだっけ。
もしかすると、あの子はそういう人種かもしれない。
自分の手を汚さずに、他人に相手を制裁させる人種。
まぁ、薔薇の館に行ってみれば解る。
どちらに転ぼうと、私は別に誰かの中傷なんて痛くも痒くもない。
私がどうでもいいと思っている人間に何を云われたからって、一筋の傷も付かない。
ただ、「そんなつまらない人間か」と軽蔑し、そういう目で見るだけだ。
…でも、そんな人間と『私』が仲良くなんて、するだろうか…
もし、そんな人間を気付かずに懇意にしていたなら、『私』も落ちたものだ。
そんな自分には、なりたくない。
「ああ、来たわね聖」
少し早めに薔薇の館に着いたと思っていたけれど、そこには既に蓉子の姿があった。
「…必ず来いって云ったのは、誰よ」
私はまだ蓉子しかいない薔薇の館に、詰めていた息を吐き出す。
「私だけど。貴方、自分がその気にならなきゃ絶対来なかったじゃない」
「……」
何故か、蓉子の目が優しい。
まるで懐かしいものでも見るような、目。
それは二年前を見る目だった。
…蓉子にとっての今の私は過去の人間なのだと思うと、どうにも苛立ってくる。
今、現実の私自身を、過去にされる…その気持は誰にも理解出来ないだろう。
そう見られる事がどれだけ苦痛かなんて、誰にも。
今から此処に集まってくる人間は皆、私の事など見ていない。
『私』に戻る事だけを望む集団。
私が過去に戻る事を…消える事を望む集団。
その中に身を置く、私の感情など、そっちのけ。
まるで、敵国にでも囚われている気分だ。
『皆さんは私が何とか説得しますから…だから、今日はゆっくりと体をお休めになって戴けませんか?昨日の今日では、聖さまが…』
…あれ?
何故か、朝のあの子に言葉が脳裏を過ぎった。
どうして…あの子の言葉なんかが…?
そうこうしていると、ぎしぎしという階段を登る音が聞こえ、ビスケットの扉が開くと共に「ごきげんよう」という数人の声が聞こえてきた。
テーブルから少し離れた壁際に椅子を置き、座っている私と蓉子に「どうぞ」という声と共にお茶を差し出された。
蓉子が「有難う」とそれを受け取る。
お茶を運んで来たのは、黄薔薇か紅薔薇のつぼみの妹だという髪がバネのような女の子。
どちらの妹だったかは、失念している。
改めてそれを聞こうとも思わないけれど。
別に私は誰が誰の妹だろうと、どうでもいい。
けれど、その子の強い視線が私を射抜く感じがして、改めて目を向ける。
その視線から読み取れる感情は、いいものじゃないのは確かだ。
「…瞳子、何やってんの」
市松人形のように切り揃えられた髪の子がそう云うと、プイッと私から目を逸らして流し台に行った。
「…瞳子ちゃん、怒ってるみたいね…」
蓉子が苦く笑う。
何故、私が怒られなければならないのか。
その怒りは『私』に向けられるべきのもの。
なんとも理不尽な話だ。
そして…もうひとつの視線も、実は先程から気になっていた。
祐巳さんではない。
あの子はちょうど私に背を向ける位置に座っている。
視線は控えめだけど、しっかりとした意志を感じた。
会議が始まったのを蓉子と眺めていながら、私はその視線を感じていた。
誰のものか解らない視線に、正直辟易し始めた時。
椅子から立ち上がる、ひとりの少女。
「ちょっと…よろしいでしょうか」
その視線の主は…『私』の妹だという子だった。
「どうしたの?志摩子」
蓉子も眉を顰めている。
そんな蓉子を見て、「すみません」と何故か謝って…志摩子という子は私を真っ直ぐに見た。
「お姉さま…いえ、『聖さま』」
「…何?」
「貴方は、本当に私たちの事を忘れられていらっしゃる…それは解りました。けれど…全てを忘れてしまったとはいえ…貴方が、何故…何故祐巳さんを傷付けなくてはいけないのです?」
「し、志摩子さん…!?」
祐巳さんが驚いた様に立ち上がった。
突然自分の名を引き合いに出され、本当に困惑している様に見える。
小笠原祥子もこちらに目を向けた。
「志摩子?どういう事?何がどうしたと云うの」
蓉子が問う。
その蓉子の問いに志摩子という子は応えず、ただ静かに私を見詰めていた。
「昨日、M駅のバスの停留所で、祐巳さんを見ました…懸命に、何かに耐えている、祐巳さんを…そして今朝…目を赤くしていた祐巳さんがいました。いつもより、ずっと早い時間です」
「…聖?」
蓉子が私に目を向ける。
視線を感じていながら、私は蓉子には目を向けず、志摩子という子を見ていた。
「私は、佐藤聖さまの妹になりました…人も心の動きに敏感で、傍にいるだけで安心出来た…貴方の妹に。貴方だから、私は貴方の手を取った。たとえ過去に戻ってしまった貴方でも、貴方は貴方だから…そう思いました」
皆が、志摩子という子の話を聞いている。
何故か、何かを思い知らされた、という様な顔で。
祐巳さんは心配そうな表情で私たちを伺っていた。
「…でも。今の貴方は、私が妹になった『聖さま』じゃないのですね」
「志摩子…」
蓉子の表情が曇り出す。
そして、祐巳さんに目を向けた。
「私が知っている聖さまは、絶対に自ら進んで人を傷付ける事だけは望まない。でも、貴方は祐巳さんを傷付けた」
その言葉に、小笠原祥子が椅子を鳴らして立ち上がった。
それを横目に見ながら私は志摩子とやらに微笑んだ。
「…祐巳さんを、傷付けた?その根拠は?祐巳さんが『私に傷付けられた』とでも、貴方に泣きついた?」
私がそう云うと、志摩子とやらは「祐巳さんはそんな事する人じゃありません」と微笑んだ。
その笑顔は何処か痛々しい感じがした。
何故そんな風に思ったのか、自分でも解らない。
「祐巳さんを見ていたら、解ります…それに、祐巳さんを傷付ける事が出来るのは、貴方だけです。祐巳さんをずっと守り愛しんできた、貴方だけ」
…は?
なんだ?それは。
私が…守る?
「志摩子さん…っ!」
祐巳さんが、志摩子とやらの腕にしがみ付くようにして止めようとする。
「なんで…っ!志摩子さん…!」
困惑しきった表情で祐巳さんが問い掛けている。
蓉子も、どうしていいのか解らず動けないでいる。
「祐巳さん…ごめんなさい。でも、貴方が傷付くの、見ていられなかったの…それもお姉さま…聖さまに傷付けられるのは…見たくなかったの」
「志摩子さん…っ」
「私、祐巳さんにはいつでも笑っていて欲しいの。祐巳さんが、笑っていてくれたら、嬉しいの」
そう告げて、志摩子とやらが祐巳さんに目を向ける。
優しい、慈愛に満ちた眼差しを。
「…祐巳さんが傷付くの、見たくないの…だから」
ゆっくりと、私に目を向けた。
そして。
「今の貴方は、お姉さまなんかじゃありません」
しっかりとした口調で、そう云った。
「…もう…いい加減にして!」
私は、どうにもならずに、叫んだ。
…to be continued
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『amnesia -6-』
20050225
postscript
もう、我慢の限界だ。
そう思った。
私は『私』を憎く感じ始めた。