amnesia
-6-









私は、『此処』にいる。
『此処』から、見ている。

…『何』を?












「今の貴方は、お姉さまなんかじゃありません」


志摩子という名の、『私』の妹だという子がしっかりした口調で、云った。

「志摩子さん…!それは違…っ!」
「…もう…いい加減にして!」

祐巳さんが志摩子とやらの正面に回り込んで何かを云い掛けたのを遮るように、私はどうにもならなくなって叫んでいた。

「…いい加減にして……私が『私』じゃない…?私は私よ…これが、今の私よ…」
「聖さま…」

酷く寂しそうな表情で祐巳さんが私の名を呟く。
やめてよ。
そんな表情で、私を心配している演技をするのは。

「妹なんて、私は知らない。だって私は妹なんて持つ気も無かった。大学なんか、行く気も無かった。なのに、アンタたちの云う『私』には、妹なんてのがいて、大学なんか行っちゃってて…こんな『私』なんか、私は知らな…っ」

視界が、急に白くなる。
足元が、柔らかく沈む感覚に襲われる。
ガクン、と体が沈んでいく。

「聖さま!」

叫ぶような声と共に、柔らかくて温かい感触に支えられた。
膝は床についてしまっているが、体が倒れ込むのは阻止された。

「聖!」
「大丈夫ですか!聖さま!」

誰かが叫んでいる。
…温かな、腕。
柔らかな、感触。
……この感触を、私は知っている気がした。
ぞくり、と背筋に何かが走る。

…何?この感覚…

「…聖さま…っ」
「…っ」

顔を上げると、目の前に祐巳さんの今にも泣き出しそうな顔があった。
隣にいた蓉子より、先に私を支えたのか…?

「どうして…?聖さまは『聖さま』なのに…どうしてそんな事云うの…?今の聖さまも、同じ聖さまなのに…!」
「祐巳…!貴方は何故そんなに聖さまを庇おうと…っ」
「庇ってなんかいませんっ」
「…祐巳ちゃん」

そこにいた人間が皆、祐巳さんの言葉に閉口していた。
小笠原祥子と蓉子以外。
蓉子が何故か傷付いたような表情で私と祐巳さんを見下ろしている。

私は『私』…同じだと、祐巳さんは云っている。
それを聞いて、カッとなる。
この子に、何が解る?
ただ私の言葉を聞いて、それを反芻しているだけじゃないか?

私は祐巳さんの腕を振り払うように立ち上がる。
途端にまた世界は揺れ、祐巳さんの腕に支えられるように抱き留められた。

この腕の感触は、危険。
私の中で、何かがそう囁く。

私は抗い切れない誘惑に、なんとか打ち勝ち、祐巳さんから離れようとした。
けれど、力の入らない私の手は祐巳さんの腕から逃れられない。

「帰りましょう聖さま…やっぱり、体を休めなきゃダメです…っ」
「え…ええ…そうね…聖、今日はもう帰った方がいい」

そういう祐巳さんに、蓉子の戸惑うような声が聞こえてくる。
真っ直ぐな声に、反論も出来ないといった感じ。

私は…自分の体を支えている祐巳さんに奇妙な感覚を覚えていた。
さっき、咄嗟に思った事。

私は…この腕の温かさ、柔らかな体の感触を…知ってる?

「立てますか?聖さま」
「…ひとりで立てるから…手を放して」
「ダメです。私を支えにしていいですから…無理しないで下さい」

確かに、まだ足がふらつく。
食事をする気が全く無くて、丸一日食べ物を口にしていない。
それもこの眩暈の原因のひとつだと思う。

「…何も食べていないんですね?」

そっと、祐巳さんが私に囁いた。
思わず、ハッと祐巳さんを見た。

「聖さまは、考え込むとご飯の事忘れてしまいますから」

伏し目がちに云うと、「あ…っ」と声を上げる。

「すいません…またお節介でした」
「……」

私は、舌打ちしたい気分で祐巳さんを見ていた。
何故?どうして?
そう問い掛けたい気分で一杯になる。

「…蓉子、悪いけど送ってくれる?」
「聖さま?」
「貴方はまだ山百合会の仕事があるんでしょ?年度末は忙しいのは、私でも知ってるわ」

もっともらしい事を云っている自分に吐き気がする。
でも、そうしても構わないくらい、私は祐巳さんの腕から逃れたかった。

「蓉子、お願い」
「…悪いけど…祐巳ちゃん」

蓉子の声を聞きながら、やっと私はこの云い知れぬ奇妙な感覚から逃れられると安堵した。

でも、それは蓉子に因って崩された。

「聖を、送って行ってもらえるかしら」
「蓉子?」
「私は、やる事があるの…お願い出来る?」

信じられない気持で蓉子の方を見ると、蓉子は小笠原祥子を見ていた。
…真っ青な顔をして、俯いている、自分の妹を。









私は、祐巳さんに支えられるように階段を下りた。

蓉子は私を一度も見ず、自分の妹の肩に手を置いて、私より先に階段を下りて行った。
そして、階段下にある扉が閉まる音。

私は私を知っている最後の砦から背を向けられた気分になっていた。
階段を下り切ると、祐巳さんも何故か泣きそうな顔でその扉を見詰めていた。
扉の向こうで、一体どんな話がなされているのか。
小笠原祥子の声が切れ切れに聞こえてきていた。

きっと他の人間から見ると、私たちは似たような表情をしているかもしれない。

「大丈夫だから、もう離れて」

祐巳さんに支えられていた体をゆっくりと離れるようにしながら私は告げた。
しっかりと立っている私を見て、それ以上は祐巳さんも触れてこようとはしなかった。

「でも、途中で気分が悪くなっては困りますから、迷惑だって思うかもしれませんが、お送りします」

それに何も云わない私に無言の肯定ととったのか、私の横に並んだ。
…スクールコートとマフラー、鞄もしっかりその手に抱えられていた。
よく私を支えながら手に出来たと思う。

まだ二月だ。
コート無しでは歩けない。
送ってくれるつもりで持ったのだろう。

その時。
がさがさ…と音を立てながら、植え込みから猫が現れた。
ニャア、と一声鳴くと、私の足に擦り寄ってきた。
妙に人懐こい猫だと思いながらその様を見詰める。
こんな場所にいる猫だから、人慣れしているのかもしれない。

「ゴロンタ…」

なんだか随分なネーミングだなと思いつつ、しゃがんで猫の頭に手を置いた。
すると猫は嬉しそうに喉を鳴らしている。

「…ゴロンタは、カラスに突付かれていたのを聖さまに助けられて以来、聖さまを信頼しているんですって…そんな風に触る事が出来るのは、聖さまだけです」
「…ふぅん」

なんだ。
この猫も『私』に懐いているのか…
なんだか白けてしまった。

「…この子は、純粋に聖さまを信じているんです。この子にとって、聖さまはただ、『聖さま』ですから」
「……」

溜息が出そうになる。
まるで、慰められている感じがして、苛つく。

「あの…」
「何」
「…コートの左ポケットに手を入れてみてもらえませんか?」
「…はぁ?」

疑問に思いつつ、祐巳さんのいう通りにポケットに手を入れてみた。

「…え?」

ガサリという感触。
出してみると…それは猫のえさで。

「やっぱり入ってた…そのえさ、先日買ったんです、ゴロンタのおやつにって」





本当に、一体どういう事なんだろう。

かりかり、という猫がえさを食べる音を聞きながら思う。
蓉子の云う通り、私はこの子と仲が良かったのだろうか。
一緒に出歩くほど。

なんだか、信じられない。
私が誰かと連れ立っている姿が想像出来ない。

でも…
今、私の隣で猫に話し掛けている子は、私と仲が良くて連れ立って歩いていたり、店に立ち寄ったり、家に来たりしているらしい。
蓉子さえ覚えていない部屋までの道程を覚えるほど、この子は部屋に訪れているのか。

何処まで、この子に気を許していたんだろう…それを考えてしまう。

考えられない。
どうしてそこまで、私はこの子を傍に置いていたのか。
そこまで気を許したのか。
私は…本当に変わってしまったのか?
奇妙な感覚。
自分が、自分じゃない…そんな気になる。
薔薇の館の住人が云う様に、私と『私』は違うのではないだろうか…

段々、不安になってくる。

私は、何なんだ?


「そろそろ行きましょうか」

しゃがんでいた祐巳さんがゆっくりと立ち上がった。

私は…立ち上がらない。
否、立ち上がれない。

この子と一緒にいるのが、恐いと…そう思った。

私を『私』と同じだと、事も無げに云う。
どうしてそんな事が云えるのだろう。
何故だか、薔薇の館の住人の態度の方が、当然のような気すらしてきた。

どうして、そんなに真っ直ぐに私を見るのか。

そして、さっき感じたこの子の腕の感触。
何故、それを私は知っている?
この子の腕の温かさを、感触を。

「…聖さま?」

祐巳さんが、不思議そうに私を呼ぶ。

恐い。
この子の傍にいたら、私は私の知らない『私』になりそうな気すらしてきた。







…to be continued

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amnesia-7-


20050226
revision/20050227

postscript

傷付けた。
それでも、この子は私の前に立つ。
そんなに、『私』を信頼しているのか。

何を、この子は知っているのか。

私は『私』だと、躊躇いなく云えるのは、何故?



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