amnesia
-8-







消えない温もりと感触が、私を悩ませた。







気がつくと、既に窓の外は暗くなっていた。
いや、私を闇が包んでいた。
でもいくらか外の明かりというのだろうか…それが室内を完全な闇にはしていない。

ジッとソファに座ったまま、数時間を過ごしていたようだ。
私はのろのろと立ち上がり、カーテンを引いた。
完全な、闇になる。
…途端、立ちくらみを感じる。

テーブルの上のリモコンを手探りで探り、電源らしき部分を押す。
うまくヒットしたようで、TVが室内に明かりと音を作り出した。
バラエティ番組を室内の照明に使う人間なんて多分自分くらいのものだろうな、と思いながら照明のリモコンをテーブルの上に見つけ、ON。
たった一人きりの室内を隅々まで照らした。

ふと、思い出しキッチンへ行く。
コンロの上には鍋。
祐巳さんが、用意して行ったものだ。

…捨ててしまおうか。

そう思う。
でも……

「でも?」

私は逡巡する自分を鼻で笑って鍋の取っ手を握った。
鍋の中身を捨ててしまおうと手に持った途端、何故かその気が一瞬で消え去った。
作った人間はいない。
無下に捨てる事もないか、と鍋はコンロの上に戻された。

折角用意して行ってくれたんだから…。
私はコンロのスイッチを押し、すっかり冷えてしまった鍋の中身を温める事にした。

折角?
そんな事を考えた自分を溜息をつく。

洗脳されてきてるな。
何が『折角』だ。
ただのお節介じゃないか。

「馬鹿馬鹿しい」

あの子の自己満足に付き合う自分を小さく笑った。

その時。
浮かべた笑みが、凍りつくのを感じた。

私の目に、ピンクが飛び込んできた。

「…あ」

ピンクのマフラー。
祐巳さんの…あの子の忘れ物。

途端に、数時間前の温もりと感触が、腕に甦った。

…忘れていた訳じゃない。
一生懸命、目を逸らしていただけだった。

さっき、私は何をした?
あの子に、何をした?

目の前に立っていたあの子を、引き寄せた。
この腕に、抱きしめた。

すっぽりと、腕に納まった。
小さくて、暖かくて。
そして甘い香り。
私は、それを『知っている』。

…どうして?

『私』と、あの子の関係…って?

普通、いくら同性同士だからって余程仲が良くなければ抱き合うなんてしない。
抱きしめる、なんて…しない。

それ以前に…私が、誰かにそんな事をするなんて、考えられない。

触れるのも、触れられるのも、厭。
誰かに不意に触られようものなら、鳥肌が立つ。
髪の先を触れられるのでさえ、我慢出来ない。

そんな私の体が、覚えている感触。

私は…いえ『私』は、どこまで変わってしまったのか。
いつまでも消えない感触に、私は手のひらをギュッと握り締めた。













何故だか、蓉子が持ち去った写真が、気になった。

あの写真には、一体どんな『私』が写っているんだろう。
いや、『私』が写っているとは限らない。

でも。

私はもう遅い時間だというのに、携帯電話を手に取った。
『水野蓉子』を液晶に映し出し、ボタンを押そうとし…そこで指が止まった。

薔薇の館で、私は蓉子にここまで連れてきてもらおうと考えた。
あの状況で、そう云わなきゃあの子に送られそうだったから。
何故か、それを阻止したくて。
なのに、蓉子は私を見ず、妹の小笠原祥子を伴って部屋を出て行ってしまった。

…確かに、あの時の小笠原祥子の様子はおかしかった。
今、思えば。
あの時は『自分』を知っているたった一人の人間から拒絶されたような気になった。

今、電話してもあの時みたいに…
そんな気持が、私を襲っていた。

急に携帯電話が音楽を奏で出した。

「え?ちょっ…!」

思わず驚いて携帯電話を取り落としそうになりながらも液晶画面を見た。
さっきまで、自分が掛けようとしていた相手。
私は慌てて通話ボタンを押した。

「はい」
『聖。どう?気分は』

かき回し忘れて少し底が焦げ付いていたけれど、まぁまぁの味のお粥を食べてからは胃の痛みは消えていた。

「別に。で、何?」
『何って…あんな風に立ちくらみ起こしたんだもの、心配していたのよ』
「…へぇ」

心配?
あの時は、私の事見もしなかったくせに?

『…祥子も、今不安定なのよ』

私が考えていた事を悟っているかのように云う。
こういう処、相変わらずなんだな、と苦く笑う。

私は、蓉子のこういう見透かしたような処が嫌いだ。

『あの後、みんなが云っていたわ…あまりに考えなしだったんじゃないかって』
「今更同情?非難したり同情したり、忙しい人たちです事。別に、どうでもいいわよ。」
『心配しているのよ…貴方は、仲間だから』
「仲間?」
『ええそうよ。貴方は山百合会の仲間ですもの』

仲間。
何だか、自分にはそぐわない言葉に思えた。
今の自分には、全く当てはまらないような言葉だから。

人と一緒に何かをするなんて、億劫だ。
煩わしい。
そう思っている自分に、仲間?

物凄い違和感を感じてしまう。

『私』には、仲間と呼べる人間がいる。
何処で、私は変わった?

二年。
たった二年、だ。
その二年の間に、私に何が起きた?
何が起こった?
そして、人に触れるのも触れられるのも厭だったはずの自分の、今も残るあの子の感触。

あの子は、『私』の何?

『聖?どうしたの?気分が悪いの?』

思わず下ろしてしまっていた携帯電話から小さく蓉子の声が聞こえ、それを耳に当て直した。

「…蓉子」
『ちょっと…驚かせないで。気分が悪くなった訳じゃないのね?』
「ねぇ…蓉子…聞いても、いいかしら」
『…え?』

急に私の声が変わったからか、蓉子が訝しむような、探るような声で聞き返してきた。

私が携帯電話を手に取ったのは、コレを聞くためだった。
急に音楽が鳴り出し、着信の主が今まさに掛けようとしていた人間だったから、柄にもなく驚いてしまってうっかりと忘れてしまう処だった。

『聖…?』
「蓉子…昨日のあの写真には、どんな『私』が写っているの?」

…蓉子が、息を飲んだのが解った。
あの時、蓉子は写真の入った封筒を手にしながら云ったのだ。

『今はまだ、貴方にはこの写真の価値が解らない』と。
でも『本当に気になったら云って』と云った。

私は私だ…ずっとそう思っていた。
いや、今もそう思っている。
でも私は今、初めて『私』を知りたいと思った。
蓉子の元にある写真を見れば、ほんの少しは何かが見えるはずだ。

そして蓉子なら、きっと知っているはず。
根拠なんか、無いけれど。
でもきっと、蓉子は知っているに違いない。
私が…『私』になった過程を。

タカを括っていないとは限らない。
蓉子に聞くのは…人にこんな事を聞くのは、おかしいかもしれない。
でも、こんな事は蓉子にしか、聞けない。

「私は、どうして山百合の人間が云う『私』に変わったの?何が私に起きたの?」

私が、『私』に変わるほどの何が。

そして…
今、一番、知りたい事。

「…あの子は、私の…何?」







それから、しばらくの無言の後。
蓉子は『解ったわ』と呟いた。

『明日、そっちに行くから。そうね…まず一緒にお昼を食べに行きましょう。それから、ゆっくりと話すから』

そう云って、ここに来る大体の時間を告げ、蓉子は通話を切った。

私は、通話の切れた携帯電話を見ながら溜息をついた。

…人に聞かなければ解らない『自分』…か。

一体、何がどうなって、今の自分になっているんだろう。
『私』は、どうしたのだろう。
それが不思議でならない。

「…ん?」

こんなに繁々と見詰めるのは初めてで、携帯電話にカメラが付いている事に気付いた。

私が知っている携帯電話は通話とメール…インターネットが出来るくらいだったはず。
今はカメラも内蔵と知って、まるで生き急いでいるかのような文明社会に苦く笑う。
行き着く先は、何処なのか。
立ち止まった時、どうなるのか。

カメラのマークが付いたボタンを押すと、画面が変わり足元が映し出された。

へぇ。綺麗に映し出されるものだ。
まるで携帯電話は子供の玩具みたいだ、なんて思う。

サブメニューを押すと、『撮影画像一覧』なんて項目を見つけた。

いつもなら、『人のものを見るなんて』と思う自分なのに、何故かそういう気持が浮かばなかった。
自分はカメラなんて、使っていないだろう。
そんな風に思っていたのも手伝っていたのかもしれない。

そして、なんのためらいもなく、それを押した。


「……え?」

現れた、9つに分割された画像群。
私はそこに写っているものを見て…声を洩らした。

「…福沢…祐巳…?」

そこには、あの子の笑顔があった。



…to be continued

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amnesia -9-
20050303
postscript

そこには、『祐巳さん』がいた。

満面の笑顔。
ちょっと怒ったような顔。
吃驚したような顔。
照れ臭そうな顔。

正面。
俯き加減。
横顔。

そしてその中の数枚に…一緒に写っている『私』を見た。


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