amnesia
-9-






私は、誰?
『私』…は、誰?







茫然と…呟く事しか出来なかった。

「…どうして…?」

もう、訳が解らない。
思わず先ほどの通話を再開したくなった。

でも、もう時計は0時を過ぎ、1時に近くなっている。
良識を持っているなら、遠慮しなくてはいけない時間だろう。
余程仲が良いというのなら別かもしれないが。

携帯電話内蔵のカメラで写された、画像達。
それは全てがあの子で。
その中に、自分も一緒に写っているものも数点。

どの画像の『私』は笑顔で。
信じられない、表情で……背筋に冷たいものが走る。

こんな自分は、信じられない。
私は、こんな風ではない。
そう、私は。

けれど、携帯電話の液晶画面に現れた『私』は、笑顔で。
楽しそうで。
信じられない。

「…誰よ、これは」

解っている。
これは、『私』。
でも、呟かずには、いられなかった。

「誰なの…?」


私の指が、知らずにサブメニューを開く。
更に項目がずらりと並んでいて、その中に『カメラモード切替』というのがあった。
決定を押してみると、『動画』という項目が現れた。
動画モードにし、サブメニュー、撮影映像一覧、と次々に開いていく。
もう、遠慮なんか何処かに行ってしまった。

「…あった」

そこにも、やはり画像があった。
決定を押すと、分割表示から一画像画面に切り替わり、画像が動き出した。

…そして、私は後悔した。
見なければ良かったと。
さっさと閉じてしまえばよかったと。
サブメニューに指が掛かった事を恨めしく思った。
偶然の自分の行動が、自分を突き落とす。

『ゆーみちゃん、こっち向いて』
『嫌ですってば!』

『私』の楽しそうな声。
映し出されている画像は、あの子。

『ほらほら、サービス精神が足りないよ?祐巳ちゃん』
『何をサービスするんですか!』
『私にサービス〜』

あはは、という『私』の笑い声。
そして十五秒で画像は動きを止めた。

私は、毀れてしまった可動式人形のように携帯電話を見詰めたままで動きを止めていた。

何もかも、解らなくなった。
そして、何かが漠然と見えた。

私はこれからどうやってこの『私』になるんだろう。
『私』は…何なんだろう。

本当に、私はこんな風に変わってしまうのか?

少なくとも、私はこんな風には笑わなかった。
否、笑えなかった。
笑う必要も無かった。

けれど、この携帯電話の中にいる『私』は、楽しげにあの子と一緒に写真に写り、楽しげにあの子を映す。

こんな小さな塊の中に、『私』が存在していた。
あの子に、心を許している、『私』が。
私を圧倒する程強烈に、『私』が自分を主張していた。















カーテンの隙間から、光が入り込んで私の目を射る。

とうとう眠る事が出来ず、私はソファに座ったままの状態で朝を迎えた。
カーテンを開くと、部屋の中に朝日が満ちていく。
清清しい程の、光が私を包む。

けれど、私の心の中にまでは、その光は届かない。
光はまるで私の肉に遮られるようだ。

考える事を放棄した脳は、ただぼんやりとその白い光の世界を見詰める。
付けっぱなしのTVもいつの間にか静止画像から動きのあるものへと変わっていた。
爽やかに「おはよう御座います!」という女性キャスターと男性キャスター。
その笑顔は、携帯の中のあの子や『私』の笑顔より、余程白々しく見えた。

どうしてかは解らない。
でも、何かをする気にはなれない。
だから、ただソファに座り垂れ流されていくだけのTV映像を見ていた。
そこには、何処か現実味のない世界が広がっている。
まるで虚構の世界だ。

…どちらが現実なんだろう。

私と、『私』は。

莫迦な事を考えていると思う。

私が現実じゃないなら、今こうしている私は何だというのか。
だからと云って、『私』が現実では無いとは云えない。

堂々巡りになってしまう設問だ。

今ここにいる私は何だ。
携帯の中に鮮やかに息付く『私』は何だ。

私は、この問い掛けを、一晩続けていたのかもしれない。
この、答えの出せない問い掛けを。








「…一体何事よ…」

開口一番、蓉子が私の顔を見て呟いた。

「何がよ」
「貴方、自分の顔、見た?酷い顔してるわよ」

酷い顔。
その言葉に私は苦笑を洩らした。
お姉さまは私の顔を見ていたいと云って、私を妹に望んで下さったというのに。

「鏡、見てらっしゃいよ…目の下、隈が出来てるわ」

そう云うと、「そんな顔じゃ外に食事になんていけないわね」と蓉子は溜息をつくと、コンビニに行ってくると踵を返し、出て行った。

私はそんなに酷い顔なのかと洗面所へ向かって鏡を覗き込んだ。

…確かに、酷い顔だ。
顔色も良くないし、目の下の隈もちょっと酷い。
ゆうべは眠らなかったし、前の日は眠りが浅かった。
当然といえば当然だろう。
そのまま冷たい水で顔を洗うと、ほんの少し、頭がクリアになった。

蓉子は、約束通り一昨日の写真を持ってきているだろう。
でも、私には何故かその写真がどんなものか、想像がついていた。

多分、携帯の中の画像と対して内容は変わらない気がした。



それから、しばらくして、蓉子がコンビニの袋を提げて戻ってきた。

「少しでもいいから、食べなさい。昨日祐巳ちゃんが云っていたけど、貴方は考え込むと寝食を忘れるみたいだし」

『祐巳ちゃん』

その言葉に、ドキリとする。
携帯の中の『私』が、あの子をそう呼んでいたからなんだろうか。
思わず手が止まってしまった私に、蓉子は気付いたのか気付いてないのか、何も云わずに「台所、借りるわよ」とキッチンへと向かう。

「鍋焼きうどんにしたわよ。胃に優しいから」

蓉子はそう云うと「前にもこんな風にした事あったわね」と苦笑混じりに呟いている。
その蓉子の云う『前にあった事』に、私も居合わせたんだろうか。

私は、携帯を玩びながらそんな事を考える。
ゆうべまでは、こんな風には一切考えたりしなかったのに。

「ねぇ…蓉子」
「何?」

キッチンから返事をする蓉子に、私は携帯を玩ぶ手を止めた。

「見て欲しいものが、あるんだけど」




私の声から何かを感じ取ったのだろう。
蓉子は「先ずは食事してからにしましょう」と云った。

出来上がった鍋焼きうどんを蓉子と向かい合わせにテーブルに座って食べ終え、後片付けをし、コーヒーを淹れてから、改まったように私と蓉子はテーブルについた。

気持があちらの方向に向いていたせいか、うどんの味は殆ど解らなかった。
そんな私に苦笑しつつも、蓉子は私に付き合ってくれているようだ。
何故か、いつも蓉子に感じていた押し付けがましさを、今日は感じない。
それが不思議といえば不思議で。
でも私の中で、それを気に掛ける余裕というものは無かった。

「…で?私に見せたいものって…?」
「その前に…ひとつ聞かせて」

私は携帯をテーブルに置き、蓉子を見た。
そんな私に蓉子は静かに「何かしら」と云った。

「ゆうべ、電話で私は聞いたわよね…写真には、どんな『私』が写っているのかと」
「ええ」
「…『私』ではなく、祐巳さんが写っているんじゃない?」

私は意を決して、そう云った。
物凄く、勇気が要った。
私にしては。

蓉子は読めない表情のまま、「どうして?」と云った。

「何故、そう思ったのかしら」

こう切り替えしてくる事を予測していなかった訳じゃない。
けれど、予測してはいても、そうならなければいいと思っていた。
そう云われれば、携帯の画像を『私』以外の他人に見せなくてはならないから。

けれど、迷っていても仕方が無かった。

携帯を手に取り、カメラマークのボタンを押し、画像一覧を呼び出した。
そして、蓉子の前に差し出した。

「…いいの?」

さすがは蓉子だ。
私が他人に自分のものを触れさせるのが嫌いだという事を熟知していた。

私がゆっくりと頷くと、蓉子はためらいがちに携帯を手に取る。
そして、液晶に表示されている画像を静かに見た。

「…よく、撮れているわね」

蓉子が微笑んだ。

「これを見て、聖は私が持ち帰った写真は祐巳ちゃんを写したものなんじゃないかと思ったのね」

そんな、確認しなくてもいいのに。
私は思わず苛々としてきてしまう。

「で?聖はこの画像を見て、どう思ったのかしら」
「…どうって?」
「率直に、よ。どう思ったのかしら。何かを思ったから、眠れなかったんでしょう?」

私は大袈裟に溜息をついた。
やっぱり、蓉子のこういう処は苦手だ。
いや、むしろ嫌いだ。

まるで、見透かされているようで、なんとも嫌だった。

「貴方と、祐巳ちゃんはいったい何なのか。それは貴方も聞いてきたわよね、電話で」
「…ええ」
「云ったでしょう?『貴方と祐巳ちゃんはとても仲良し』なんだって」
「ただの仲良しが、あの子を抱きしめたりする訳?」

私のその言葉に、蓉子が眉を寄せた。

「…なんですって?」
「いくら仲が良くったって、普通そこまで過剰なスキンシップする訳?腕に、感触を記憶するくらいに」
「ちょっと待って…聖?それはどうしてそんな事を思ったの」

しまった。
つい口から滑らせた。
そこまで云うつもりは全く無かったというのに。

「…確かに、貴方は高等部の三年生の後半。山百合会の仲間になった祐巳ちゃんを、貴方はよく背後から抱きしめたりしていたわ…そうあの子の姉の祥子を煽るように、ね」

蓉子の言葉に、ほんの少し私は安堵しながら、また新たに知った『私』に困惑し始める。
何故、小笠原祥子を煽るような事を?

「でも貴方、そのうちに祥子の事なんか関係なく祐巳ちゃんを抱きしめていたわ」
「…え?」

私は蓉子の顔を見た。
蓉子は、どこか寂しそうに笑っている。
何?その表情は。

「貴方、とても祐巳ちゃんを気に入っていたの…」

そう云いながら、蓉子は携帯を閉じた。
そして、それを私に差し出し、バッグからあの時蓉子が持ち帰った封筒を取り出す。

「そして、貴方はとても祐巳ちゃんを大切にしているの」
「……『私』が…あの子を…?」
「ええ」

蓉子は、そっと目を伏せると、呟いた。

「貴方の心の傷を…栞さんとの事もしっかりと受け止めて、あの子は貴方の傍にいる事を選んだのよ…祥子よりも、貴方を」






…to be continued

next
amnesia -10-


20050304
postscript

『栞』…その名を聞いた時、心の何処かで音がした。

あの子が『私』を選んだのだと云う蓉子の表情は、何処か寂しげだった。

選んだ…あの子が、『私』を?
『私』は、あの子の何?

自分の姉より、『私』を選んだという事は、一体何を指している?


novel top