愛しさを胸に抱いて
〜かなしさをむねにいだいて〜
(聖祐巳)






…嵐が来る予感がした。
何故だか解らないけれど。

深夜に着信が携帯に入った。
ちょっと非常識な時間帯だと思いながらも、相手が親友となれば話は別。

「…どうしたの、貴方から電話なんて、珍しいわね」
『……』

黙り込んでいる、親友に思わず眉を寄せる。

「ちょっと…どうしたの?」
『…あの、さ…頼みがあるんだ』

珍しいその言葉に、私は再度「どうしたの?」と云った。
なんだかそればかり云っているなと思いながら。

『多分、一荒れすると思うんだ。そうなったら、きっと私の言葉は聞き入れてくれなくなると思う。その時の、フォローを頼みたい』
「一体何が起こるって云うのよ」
『…』
「云いなさい。云わなきゃ解らないでしょう?」

何も云わなくなった彼女に次を諭す。

『私の事は、いいんだ。でも…あの子の事だけは…これは、蓉子にしか頼めない』
「あの子…?」
『…うん…頼んだよ?おばあちゃん』

自嘲混じりのような苦笑が耳をくすぐった。

「ちょっと、聖!」

プツッという音と共に、通話が打ち切られた。

私は、意味の良く解らない親友からに着信に、フル回転で考えをめぐらせる。
これから起こるだろう事態に。









ただ、逢いたい。

そう思って辺りに気を配っている。
直ぐに、見つけられる様に。

でも、いつもなら、ふいに声を掛けられたりするのに、帰り道で逢ったりするのに…
まるで避けられているかの様に、逢えなくて。

逢いたいのに、逢えなくて。

逢えなくて…

もう、あの日から、一週間が過ぎようとしている。





「祐巳さん…今日ももう食べないの?」

由乃さんが驚いた様に声をあげた。

お昼。
薔薇の館でお弁当を食べる、いつもの日常。
でも、祐巳の日常は、同じ様で全然違っていた。

いつもの半分も食べられない。
味もあまりしないし、第一、食欲が殆ど湧かなくて…この所ずっとこんな調子。
お母さんもそんな祐巳を心配して、成るべく祐巳の好きなものを食卓に乗せたり、お弁当に入れてくれたり…
でも、食べられない。

「…うん…食欲、無いんだ」
「顔色悪いわ…大丈夫?」

志摩子さんが顔を覗き込んで云う。
それに何とか笑顔を返す。

「うん、大丈夫…有難うね」
「祐巳さま、ミルクティーです。胃に優しいですから…」

乃梨子ちゃんがそう云いながら祐巳の前に温かいミルクティーを置いた。

「有難う、乃梨子ちゃん」

お弁当を片付けて、乃梨子ちゃんが煎れてくれたミルクティーにゆっくりと口をつけた。
殆ど何も入っていない胃に、温かいミルクティーが染み入るように。

「祐巳」
「あ、はい、なんですか?お姉さま」
「貴方、何か心配事でもあるんじゃないの?」
「心配事…ですか?」

心配事…?
本当に思い当たらない。

思わず首を捻ってしまう。

そんな祐巳を見て祥子さまは「…心配事がある訳では無さそうね」と薄く微笑まれた。

…祐巳は思った事が直ぐ顔に出てしまうから、隠し事というものが出来ない。
だから、祐巳が祥子さまに遠慮して言わないでいる訳ではないんだという事が解ったんだろう。

「貴方は、表情が正直だから安心出来るわ…。そう、聖さまが良く貴方の事を『百面相』と云っていたわね」

…ドキン…

何気無い会話の中、突然の言葉。

『聖さま』

それを耳にした途端、心臓の鼓動が速くなってきてしまった。
視界が、ぼやけてくる。

いけない。
ほんの少し、俯いて、瞬きを繰り返す。
今ならまだ、それで何とか突然の目の潤みを凌げそう。

これはここ数日で祐巳が会得した泣かないでいる為の方法。
最初のうちは、収まりきらない涙がこぼれてしまう事があったのだけど…

「…祐巳さん…大丈夫?」

思わず、肩が揺れた。
志摩子さんが祐巳の肩に手を置いたから。

「し、志摩子さん…う、うん、平気」

でも吃驚したお陰か、涙が引っ込んでくれた。
志摩子さんに目を向けて、微笑む事も出来た。

「…そう」

何か言いた気な目をしながらも、それ以上は云わないで頷いてくれた志摩子さんに感謝する。


…実は今、志摩子さんにこんな風にされるのが、ちょっと辛い。

いつもなら本当に全くと云っていい程、考えた事も意識した事も無かった。
以前あの人が「私たちは似たもの姉妹だから」と言っていた時は何処が似ているのか実の処、良く解っていなかった。

でも、今の祐巳だから、解る。
志摩子さんは、あの人に似ていた。

外見、とかそういうんじゃなく、もっと、根っこの部分…


だから、今は志摩子さんの近くにいるのが、辛かった。

逢いたいのに逢えない、あの人を思い出すから。





「なんだか、降り出しそうな雲行きになってきた…」

令さまが窓の外を見ながら呟いた。

「みんな、傘持って来てる?」

祐巳の髪は今日はいつも通りにまとまったから、雨の心配は無いと思って傘を持って来ていない。

「はい、天気予報で夕方くらいから雨になりそうだって云ってましたから」
「あ、私も。折りたたみをかばんに入れてきたわ」

え、嘘。

みんなは傘を持ってきている。

「そ、そうなんですか?私持って来るのを忘れてしまいました」
「うわ、珍しい…祐巳さんの髪予報が雨を察知出来なかったなんて…それとも降らないのかしら」

由乃さんがそう云いながら窓の所に立つ令さまの隣へ行き、窓の外を見る。

「…祐巳さん、髪予報、不調のようよ…」


…外では、大粒の雨が降り出していた。

「なんか、嵐にでもなりそうな感じの雲行きになってきた…」

令さまが、段々と強くなっていく雨足に傘がない祐巳に縁起でもない事を云って下さった。









「本当に大丈夫?なんだったら、駅に着いたら車を呼んで送ってあげるわよ?」

銀杏並木を祥子さまと相合傘をしながら歩く。

ほんの少し小降りになったのを見計らって帰宅する事にした。
今を逃すと、帰れなくなりそうだからって令さまが云ったから。

「はい。大丈夫です。殆どバスに乗って家まで行けちゃうんで」
「そう?なら良いけれど…」
「ご心配して下さって有難う御座います、お姉さま」

そう云うと、祥子さまは「莫迦ね」と微笑まれた。

「私は貴方の姉だもの、心配するのは当然の事よ」

…ズキン

何故だろう。
いつもは嬉しい祥子様の言葉が、胸に痛かった。

「どうかした?」

胸に手を当てた祐巳に祥子さまが首を傾げる。

「…いいえ…何でも…」



バス停には既にバスが来ていて、志摩子さんが乗車口で「早く」手を振っている。

それに慌てて早足でバスに乗り込む。
走ると泥はねしてしまうから、早足。

雨のせいか程よく混み合っている車内。
ちょっと湿気も多い。

まとまった席は空いていなかったので、つり革に手を掛けて落ち着く。

「祐巳…貴方、体調があまり良くないのだから、本当は座れたら良かったのだけど…」
「平気です、この位なら」
「…気分が悪くなったら、云って頂戴ね?駅から車を呼ぶから」

心配する事は当然の事、と云った祥子さまの言葉を胸に、祐巳は「はい…有難う御座います」と素直に頷いた。



駅に着く頃。
祐巳は祥子さまが案じていた通りに少し気分が悪くなってしまっていた。

ここ数日、物が食べられないのと、車内が湿度で蒸し風呂状態だったのが災いしたんだろうと思う。

「顔色悪いわよ、祐巳…」
「大丈夫?祐巳さん」

人の流れに流される様にバスから降りて駅の方へ歩いていく。

「…うん、大丈夫。今バスから降りたら少しスッキリしてきた」
「やっぱり、車を呼びましょう」

そう云うと祥子さまが電話を探し始めて、壁際にあるソレを見つけて祐巳から離れて行こうとした。

「あ、本当に平気です、お姉さ…」

引き止めようとした時、グラリ、と視界が揺れた。

「祐巳さん!」

志摩子さんが悲鳴に近い声を上げたのを聞きながら、志摩子さんでもこんな声上げるんだなぁ…だけど人ごみの中で倒れたら、ちょっと酷い事になりそう、なんて他人事の様な事が頭に巡った。

「祐巳!」

祥子さまが志摩子さんの声に振り返って駆け寄ってこようとした時、崩れ落ちる寸前の祐巳の体を抱き留める腕。

「祐巳ちゃん!」

あ。

祐巳の体を倒れる寸前で抱き留めた腕の主が、必死の形相で祐巳の名を呼ぶ。

「祐巳ちゃん!大丈夫!?」

今ここにいるって事は、同じバスに乗っていたっていう事なんだと思う。
それなのに、どうして声を掛けてくれなかったんだろう。

祐巳は、逢いたかったのに。
ずっと、ずっと逢いたかったのに。

あの日から、ずっと…


「祐巳!」
「祐巳さん…!」

遠くで、祐巳を呼ぶ声がする。

「祐巳ちゃん!…祥子、志摩子、取り敢えず椅子のある所に移動させるから、私の鞄と祐巳ちゃんの鞄を持ってついてきて」


祐巳を支えているのは、ずっと逢いたかった人の腕。

少し慌てながら、心配しながら、祐巳を支えてる。

うっすらと、閉じていた目を開くと、彫刻のように綺麗な顔が祐巳を見下ろしていた。

「祐巳ちゃん、ここから少し移動するから」

そういうと、ゆっくりと祐巳の体を抱き上げた。

「聖、さま…」

ダメだ。
視界が歪んでいく。

逢いたかった。
本当に、逢いたかった。

逢いたかった人の顔が、今すぐ側にある。
逢いたかった人に腕が、祐巳を抱き上げている。

「祐巳ちゃん、もう少しだから、泣かなくていい」

こぼれてしまった涙を見て、聖さまが祐巳に微笑む。

「聖さま…」

祐巳は聖さまの服を掴んだ。

「大丈夫、もう大丈夫だから」

涙が、止まらない。

心配そうな祥子さまや志摩子さんの声が遠くで聞こえる。

でも…でも、祐巳の耳にはっきりと聞こえるのは直ぐ側の聖さまの声だけで。

「…聖さま…っ…逢いた…かった…っ」
「……祐巳ちゃん?」

聖さまが、歩みを止めた。

「聖…さま……」
「祐巳ちゃん…」

聖さまが祐巳を見ている。

それが嬉しかった。
ずっと、逢いたかった人が、ここにいる。




「……好き」





遠退いていく意識の中で、聞こえるか聞こえないかの声が、こぼれ落ちた。



…next「哀しさを胸に抱いて〜かなしさをむねにいだいて・2〜




第一部後書き

執筆日:20040713

逢いたいけど逢えない、という事は結構なストレスかもしれません。
それこそ、食事も喉を通らなくなるかもしれません。
いつもなら出来る事も出来ないかもしれません。

いつもなら、解かる事も解らないかもしれません。

もし逢いたかったのに逢えなかった人にようやく逢えたなら…
その人の事しか、見えなくなるかもしれません。



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