哀しさを胸に抱いて
〜かなしさをむねにいだいて・2〜
(聖祐巳)




雨の中の帰り道。
傘を差しながら、二人並んで歩く。
雨は段々と強まってきていて、知らず早歩きになってしまう。
でも、私はそれをあえて速度を落とし、由乃に聞いてみたかった事を聞く事にした。

「ねぇ、由乃」
「何?」
「祐巳ちゃんの事、だけど」

云っていいものか、解らなかったけれど…でも由乃はどう思っているのか、ずっと気になっていた。
由乃は初めて仲良くなった祐巳ちゃんの事が大好きだから。

「祐巳ちゃん、もしかしてさ…?恋患いなんじゃないかな…なんて思って」

由乃が驚いた様な顔で私を見た。

「なんで?」
「なんでって…食欲が無いってのも、そうだけどさ。時折涙ぐんだり、物思いに耽ったり…」
「…それで?」
「それで…って…」

由乃の顔が傘で隠れて見えない。
私の考えをどう思っているんだろう。
勿論、私だって何となくそう思ったってだけだし…

「由乃は祐巳ちゃんと同じクラスでしょ?近くで見ていて、どう思っているの?」
「…」
「由乃?」

何も云わない由乃に答えを急かす。
すると、由乃は大きな溜息を落とした。

「…令ちゃんの考えと、同じだよ…祐巳さん、誰かに恋してる…祥子さまじゃない、誰かに」
「祥子じゃない、誰か…だよね、やっぱり」
「令ちゃんもやっぱりそう思ったんだ」

由乃はまたも大きな溜息。

「ううん、誰にだろうと関係ないわ。どうして私に相談してくれないのよ祐巳さんったら!」
「…私もそれを考えていたんだけど…もしかして、私たちに云えない人なんじゃ…」
「云えないって、どうして」

由乃の声が怒っている。
友達なのに、ご飯も食べられないくらい悩んでいるのに、相談してくれないなんて、といった所だろう。

「これは私の憶測だよ?事実じゃないし、真実でもない…それは誤解しないで」
「うん、解ってるってば」
「…もしかしたら、私たちが知らない人間じゃなくて、私たちに近しい人間なんじゃ…」





気を失った祐巳さんを、お姉さまは言葉なく見詰めている。
表情が丁度見えない位置で、お姉さまがどんな顔をしているのか、解らない。

でも、その体から発せられる雰囲気は…困惑、驚き、そして…

「聖さま、どうなさったんです!?」

祥子さまが、動かないお姉さまに声を掛けた。

「…いや、なんでもない。ねえ祥子、祐巳ちゃん、いつから調子良くないの?」
「確か、一週間前くらいから食欲が無いと云って、お弁当をあまり食べなく…」

それを聞いたお姉さまが眉をひそめた。

「…一週間、前…?」
「ええ」
「…そう」

お姉さまは何かを考えるような顔をして、ふるる、と頭を振った。
そして私に目を向ける。

「志摩子、駅員さん捕まえてきて。多分駅の中に医務室か何かあったはずだから、そこ使わせてもらおう…それと、スポーツドリンクかアミノ酸飲料買ってきて…そうね、なるべく甘そうなヤツ」
「はい、解りました」

私は丁度インフォメーションセンターから出てきた駅員さんの元へ駆けて行きながら思っていた。

もしかしたら…、と。





事情を聞いた駅員さんの好意で医務室に移動して、ベッドに祐巳ちゃんを横たえた。

私のシャツの裾を握って離さない手を、ポンポンと軽く撫でるように手のひらで叩くとするりと握っている力を緩めた。
そしてその手を軽く握る。
でも、その小さな手を直ぐに離した。
手離せなくなる前に。

「お姉さま、アミノ酸飲料を買ってきましたけど…」
「ああ、そこに置いておいて。祐巳ちゃんの目が覚めたら、飲ませてあげて」
「聖さま…祐巳は」

祥子が心配そうに祐巳ちゃんの頬を撫でている。
それを見るのが辛くて、思わず目を背けた。

「…バスの中が蒸し風呂状態だったからだろうね…あのバス内は拷問だよ、殆ど物を食べていなくて体力が落ちてたらしい祐巳ちゃんなら尚更、ね」

そこまで云うと、私は医務室のドアに手を掛ける。
役目は終わりとばかりに。
長居は無用だ。
祐巳ちゃんの側には祥子と志摩子がいれば、それでいい。
多分、意識が朦朧としていた祐巳ちゃんは私がいた事を覚えていないだろう。

それなら、私はここにいない方が、いい。


けれど、その手に志摩子が手を乗せた。

「何処へ行かれるんです?お姉さま」
「何処って…」

まっすぐに私を見る志摩子の目。
どうしてこんな目で私を見るのだろう。

「お姉さま、まだ祐巳さんは目覚めていません」
「…志摩子?」

祥子が祐巳ちゃんから視線をこちらに向けた。

「…祐巳ちゃんには祥子と志摩子が付いていたら大丈夫でしょ?だから私は帰るよ」
「聖さま…も、一体どうしたというの?」

祥子がいつもと違う志摩子の雰囲気に訝しげに声を掛けた。

「お姉さまには、祐巳さんの言葉が聞こえていなかったんですか?」

まるで、私を責めているかの様な、志摩子の声。
祥子もただ事ではないとベッドから体をこちらに向けた。

「いえ、聞こえていなかったのではなくて、聞こえていたから、お姉さまは祐巳さんが目覚める前に去ろうとしているんです。そうですね?お姉さま」

真っ直ぐな、目。

私はその志摩子の目を見ていられず、目を逸らした。

見るとはなしに、祐巳ちゃんの方を見てしまう。
顔色の良くない、寝顔。

一週間前くらいから、食欲がないと、云っていたという祐巳ちゃん。

一週間前…は、あの日。
加東景の家で勉強会をし、私が車で送り届けた、あの日。

…リリアンの裏門の前。
私の車の中という密室の中での、あの秘め事。

…祐巳ちゃんがこうなったのは私のせい。



『聖さま…っ…逢いた…かった…っ』

涙で濡れた顔で、私の服を掴んで。

『……好き』



目を閉じる。
きっとこの場に誰もいなければ、私は自分を抱きしめているに違いない。
そうしなければ、立っていられない程、動揺しているから。

そして、祐巳ちゃんの言葉を、志摩子も聞いていたという事を志摩子自身から明かされた。
でなきゃ、こんな事云わないだろう。


…ああ、そうか。
志摩子には気付かれない訳がない。

志摩子は、私の『妹』なんだから。
私たちは、似たもの姉妹なんだから。

気付かれていない訳がない。

私の、祐巳ちゃんへの想いを。
祐巳ちゃんを想っているかもしれない、志摩子に気付かれない訳がない。

…祥子が、何かを察したような顔をした。
私たちの雰囲気と志摩子の言葉に考えを巡らせたのだろう。

でも、祥子の耳には、さっきの祐巳ちゃんの言葉は届いていないはず。

「聖さま…志摩子…一体貴方がたは…」

祥子がそう呟いた時、「う…ん…?」という祐巳ちゃんの声がした。

助かった。
祥子と志摩子に意識が祐巳ちゃんへと向いた。
私は祐巳ちゃんが私に気付く前にここから出れば、それでいい。

けれど、私の期待は祐巳ちゃんに因って崩された。

「お姉さま…志摩子さん…私は一体…?…っ!…聖さま…っ!」

そっとドアを開いた私に気付いた祐巳ちゃんが私に向って声を上げた。



今日の雨は、嵐の前触れ。
きっとそうに違いない。

この嵐は多分悲しみを運んでしまう。
愛(かな)しさが、悲しみを運んでしまう。

世界は、自分のものじゃないから。
自分だけのものじゃないから。

だから、愛しみが、悲しみを呼び寄せる。
世界は、愛しさだけでは成り立たないから。

世界は二人の為にあるなんて、そんな事が云えるのは無邪気で傲慢な人間だけ。

でも、私もそのひとりだったのかもしれない。
それを望まずには、いられないから。



「祐巳…!急に起き上がっては…!」
「聖さまっ…どうして…っ」

私は祐巳ちゃんの声にも構わずドアから出ようとする。
早く、ここから離れなければ。
嵐が訪れる前に。

「逃げるんですか!」

志摩子の声が響いた。
その声には、そこにいたものの動きを止めるだけの十分な力があった。

「逃げるんですか、お姉さま…ご自分の気持ちからも、祐巳さんの気持ちからも…っ」

祥子が志摩子を見る。

「志摩子…っ」

何故、貴方がそれを云うの。



そこにいたものが全てが動きを止めてしまった。

ただ、祐巳ちゃんの嗚咽だけが、響いていた。


…to be contined



第二部後書き

人を想った時、どうするかは多分、二手に分かれるかもしれない。

一方は自分の気持ちを伝える。
一方は相手の気持ちを尊重して黙する。

どちらが正しいなんて事はない。

時にどちらの場合も、波乱を招いてしまうから。

人の想いは純粋故に、鋭い諸刃の剣の様なものでもあるから。

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