悲しさを胸に抱いて
〜かなしさをむねにいだいて・3〜
(聖祐巳)





一体、何を云っているの?

志摩子は何故、姉である聖さまにそんな事を云っているの?
聖さまは何故、志摩子に何も言い返さないの?


祐巳は何故、泣いているの?


私だけが、蚊帳の外。
いいえ、私も渦中の人間。
なのに解らないのは何故?

私は一体何を見逃しているというの?

それとも、何を見ようとしていないの?






「…ごめんなさい…」

ポツリ、と祐巳ちゃんが呟いた。

それを合図に止まっていた時間が動きかけた。

「もういいよ、志摩子さん…有難う。聖さまも、ご迷惑をお掛けしてしまって申し訳ありませんでした…聖さまが私を運んでくれたんですよね?」

有難う御座いました、と涙に濡れた顔で微笑む祐巳ちゃんの笑顔が痛かった。

祐巳ちゃんに、こんな顔をさせているのは……誰、だ?

「お姉さまにも、ご迷惑をお掛けしました。家に電話を入れて、迎えに来て貰いますから、だから…皆さん…もう……お願いですから…っ」

私をひとりにして下さい…っ

笑顔が見る見る歪んで、声も泣き声になって、祐巳ちゃんはうつむいてそう云った。

「祐巳さん…」

志摩子が、愕然とした様に呟いた。
何かを間違えたのかと、きっと自問している。

祥子も、声を掛ける事も出来ず、ベッドの脇に立ったまま動けずにいる。
祥子は内心、祐巳ちゃんの変化にオロオロしてしまっているだろう。

動き出した時間を、祐巳ちゃん自身が再び止めてしまった。


その中で…唯一、動けたのは私だけだった。

ドアに掛けていた手を下ろし、祐巳ちゃんの方へ向かって歩き出す。

動き出した私の一挙手一投足を見つめる志摩子の横を通り、祥子がいるのとは反対側のベッドの脇に腰を下ろした。

そして、祐巳ちゃんの肩を抱いて、グッと引き寄せた。
祐巳ちゃんを自分の胸に抱き締めて、やっと、その一言を告げた。

「…ごめん」
「せ、い…さま……?」
「遅くなって、ごめん」

もう、祥子や志摩子を気にしてなんていられなかった。

祐巳ちゃんを、泣かせているのは、私。
祐巳ちゃんが欲しているのは、私。

祐巳ちゃんに気付かせてしまったのは、私。


祐巳ちゃんを欲していた、私。



なのに、志摩子の云う通り、私は逃げようとした。


…恐かった、から。




なんとなく、祐巳ちゃんが私に心を向けているかもしれない事を、知っていた。

そう、あの日…卒業式の前日が決定打。
でも実際薄々ながら感じていたのは、もう少し前かもしれない。

初めは…ただの興味だったのかもしれない。
自分に構う先輩への、興味。

信じられなかった。
私に持っていた興味が、いつの間にか変化していただなんて。

だって祐巳ちゃんは祥子が大好きだったから。

今も、それは変わっていないと思う。
祥子に憧れていて、本当に大好きなんだと思う。

…けれど。

それならコレは何?

何故私を思って泣いているの。
食事も喉を通らなくなるくらい。
私を想うの。

あの一瞬触れた唇。
あれがきっかけという訳ではない。

だってあの時、祐巳ちゃんは目を閉じたんだから。



「聖…さま…っ」

服の裾を握る、私より少し小さな手。

ああもう、どうでもいい。

この手は私を掴もうとしている。
その事実の他に私はまだ何が欲しい?

…臆病な私は、ただ、不安なんだと想う。
栞の様に、消えてしまわないか。
そう考えてしまう。

なんて私は祐巳ちゃんに失礼なんだろう。

この手を、信じられなかったなんて。
なんて、愚か。




「…祥子」

名を呼ぶと、息を飲む気配を感じた。

「明日…山百合の仕事が終わった後、薔薇の館で待っていて」







何処をどうやって帰ったのか、解らない。

気付けば私はいつも通り迎えに来ていた車に乗り込み、自宅へと戻っていた。

志摩子と、途中までは一緒だった事は覚えているけれど、志摩子と別れてからの事は記憶には無かった。



「志摩子…」
「…はい」
「貴方は、聖さまから何か聞いていたの?」
「…いいえ」
「…じゃあ何故…」
「……見ていて、気付いたんです…お姉さまの気持ちも、祐巳さんの気持ちも…」
「………そう」


祐巳が、聖さまを好きなのだという。
聖さまも、祐巳が好きだという。



「志摩子は…平気なの…?」

グラグラと体の中で音を立てている何か。
その正体が解らない。

「…私は……祐巳さんが元気になってくれさえすれば…それで」
「志摩子…?」



私には、志摩子が云っている言葉の半分も、理解出来なかった。



自室に篭って、考えるのは、祐巳と聖さまの事。
そして志摩子の言葉の意味。

祐巳と聖さまの事を考えると、どうにもならない感情が頭をもたげる。
志摩子の言葉の意味を考えると、急速にそれが静まり、理解出来ない自分がもどかしく。


私は乱れに乱れた感情をどうする事も出来ないのだ。

その術が、私には無いのだ。

「…っ!」

ガシャンッ!

部屋に運ばれたばかりだった紅茶を飲みもせずに壁へと投げつけた。

こんな事をすれば、ただ自己嫌悪に襲われるだけと知りながら。






翌日。

祐巳は学校を休んでいた。

本調子に戻らない体。
母親に連れられて病院に行くと、由乃ちゃんに電話があったらしい。

あの後、祐巳は聖さまに送られて帰ったのだろう。

私と志摩子が医務室を出てから、どんな会話がなされたのだろう。
想いあった者同士、睦んでいたのだろうか。

…厭な想像に自分に自分で吐き気を覚えた。


放課後、薔薇の館へ行くと、令も由乃ちゃんも私を窺う様な態度を取る。

腫れ物に触るような態度とは、こんな感じかもしれない。

…莫迦にして。
妹を他の…しかも元薔薇さま奪われた私を哀れに思っているのかしら。

ただ、変わらない態度の志摩子にも、苛立ちを覚えてしまう。

どうしてそんなに平然としているのかしら。

卒業したとはいえ、姉が他の子に心を砕いたというのに。

『…私は……祐巳さんが元気になってくれさえすれば…それで』

…志摩子の言葉を思い出して、ささくれ立った気持ちが急に凪いだ。


祐巳さえ元気に…?





「…今日はこのくらいにしましょう」

4時半を過ぎた頃、そう切り出した。
仕事自体、混んでいる訳でもなし。

…それに、聖さまが何を云うのかが気になっていたから。



帰り際の志摩子を呼び止めると、多分この周辺にいるだろう聖さまを呼んで来る様に頼んだ。

「…お姉さまと、話すのですね」

静かな目でそういうと、ビスケットの扉を静かに出て行く。

どうして、あんな静かでいられるのだろう。
同じ境遇の筈の志摩子の考えが全く見えなかった。



それから程無く。

「祥子さま」

声に振り返ると、今でもこの薔薇の館の住人と云ってもいいほど、しっくりと場にはまる聖さまと、その後ろに志摩子が立っていた。

まるで、去年の今頃に戻ったかのような錯覚を覚えた。



「では、私はこれで」

そのまま去ろうとする志摩子に聖さまが声を掛ける。

「志摩子」
「はい」
「有難う」
「いいえ」

にっこりと微笑む志摩子を、私は不思議な思いで見ていた。

何故、何も無かったかの様に笑えるのか、と。

「ごきげんよう、祥子さま、お姉さま」


そう云って、ビスケットの扉を閉めると、ギシギシという音を立てて志摩子が階段を下りていった。

完全に二人きりになってしまって、祥子は妙な居心地の悪さを感じていた。

「さて…祥子。聞きたい事、山ほどあるでしょ。云いたい事も。遠慮なく、云っていいよ」

静かにそう告げた聖さまに、言い知れぬ怒りがムクムクと頭をもたげた。

なのに。

私の唇は言葉を発せずに閉じたまま。

「いいんだよ、祥子」

諭すように云う聖さま。

けれど…



…キシ、キシ


階段が軋む音が微かに聞こえてきた。

誰だろう、と聖さまが扉を見る。

コンコン……カチャリ

ノックの音がして、ゆっくりと扉が開いた。


「…!」

そこに現れたのは。

「ごきげんよう。私たちも参加させて戴いて、構わないかしら」
「祐巳ちゃん…それに、蓉子…」

聖さまが驚いた声を上げた。


まだまだ顔色が悪い祐巳と、その祐巳を支える様にして立っているお姉さまがそこにいた。



…to be continued



第三部後書き

執筆日:20040715

全てを受け入れられる者は、強さを持っているのかもしれない。
全てを受け入れたくても出来ない者は、その葛藤を乗り越える為の強さを持っているのかもしれない。

自分の弱さを認める事が出来る者は、大事なものを失くす事を避けられるかもしれない。

人の弱さを認めて包み込める者は、あらゆるものの祝福をうけられるかもしれない。



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