マリア像
(聖)




『聖』という名を、両親はどんな思いで私につけたのだろう。


12月25日生まれだから…イエズス様の生誕日だから、そう名付けたのだろうか。


聖。
聖人。
聖キリスト。
聖マリア様。

例えられるのは綺麗なもの。

こんなに黒いものを胸に抱えた人間に、そう例えられるのはとても重くて。

それはまるで、首に掛けられた見えないロザリオ。
いつでも私の首に掛かり続ける、その重み。

それはいつかきっと、私の中の何かを殺すに違いない。





「聖さま!」

銀杏並木を表門に向って歩いていると、駆けてくる足音と共に私を呼ぶ声が聞こえてきた。
振り返ると、弾むツインテールが直ぐ側に。

「祐巳ちゃん」

トン、と私の腕に手をついて止まる小柄な体。
自然と、笑みが浮かんでくる。

「見掛けたので、走って来ちゃいました。聖さま、歩くの速いんですもん」
「あはは、足が長いもんで〜」

そう云ってニッと笑うと祐巳ちゃんはムゥ、と言う様な顔をした。

「所で、みんなは?」
「あ」

遥か後方に志摩子たちが見える。

「…置いてきちゃった…」

呆然として言葉を落とす祐巳ちゃんに思わず破顔してしまう。

「ちょっと行ってきます!」と、戻ろうとする祐巳ちゃんの腕を捕まえて引き止め、そのまま校門へと歩き出す。

「え、え、あの、聖さま?」
「大丈夫、志摩子がきちんと言ってくれてるよ。だから心配いらない」
「志摩子さんが?」
「ん。多分祐巳ちゃんが走り出した理由に気付いて由乃ちゃんたちにフォローしてるよ」
「……」

そう、ですか…と小さく呟くと、するりと腕を離れる。

「祐巳ちゃん?」
「…志摩子さんは、聖さまの妹ですもんね…」

あ、しまった。
そう思いつつ、ちょっと嬉しい。

「そうだよ、志摩子は妹。あそこにいるあの子は、祐巳ちゃんの妹でしょ?」

山百合会のかたまりに親指を立てながら言う。

「それと、同じ」
「解ってます。でも、理屈じゃないんです」
「そうだね」

苦笑する私にちらり、と目を向けて、そして溜息をつく。

「…私、志摩子さんの事大好きなのに、なんでこんな風になっちゃうんだろ…」
「そりゃ、理屈じゃないから、だろうね」

まだ祐巳ちゃんが二年生で、祥子が卒業する前。
私は今の祐巳ちゃんが感じているだろう思いを存分に味わっている。
頭では解っていても、理屈じゃない。

心と頭は時に正反対の事を思うから。

「…聖さまは、いつも微笑んでますよね」
「ん?そう?」
「はい…あの日…初めて薔薇の館に行った時から、あまり怒った顔や、不快な顔って見た事無かったんです」

そうだっけ?

「私、百面相って聖さまに言われるくらい表情が顔に出ますから…ちょっと羨ましかったんです。いつも穏やかに…綺麗に微笑んでいる聖さまみたいになれたらって」
「…ただ、表情が出ないだけなんじゃないの?ポーカーフェイスってやつ?私から見れば、祐巳ちゃんみたいに素直に表情出せる方が好ましいけど」

なんだろう。
段々不機嫌になってくるのが解る。
私は、自分を『綺麗』と言われるのがあまり好きではない。

「…そうかもしれませんね」

祐巳ちゃんの声のトーンが下がった。

「あの頃の…出逢った頃の聖さまは、あまり表情を見せてくれませんでしたもんね…」
「祐巳ちゃん?」
「いつも優しくて、甘やかしてくれて、匿ってくれて、怒られる事もない…私の逃げ場みたいだった」

空を仰いで、そう言う祐巳ちゃんを私は呆然と見詰めた。

「まるで、万人に優しい、聖マリア様みたい」
「祐巳ちゃん…それは違うよ」

思わず不快を顕わに祐巳ちゃんを見てしまった。
そんな風に見られるのは、不快以外の何ものでもない。

そんなおキレイなものじゃない。

勿論、この道の向こう…分れ道の真ん中で子羊たちに目を光らせている白い番人を嫌ってはない。

けれど『ソンナモノ』に例えられる事は、不快。

「解ってますよ」

微笑んで、私の腕に腕を絡ませてくる。
…後方から叫び声が聞こえたのは、気のせいだろうか…

「聖さまは…『聖さま』です…なにものでもありません」

ドキン、と心臓が跳ねる。

「今の私は聖さまの色んな顔知ってますもん。笑顔だって色々知ってます。怒った顔も、困った顔も、悲しい顔も知ってます」

どうしよう。
今、とても祐巳ちゃんに触れたい。

「これからも、沢山の色々な聖さまが見たいです」

無意識に私を高める事を言ってる事に、祐巳ちゃんは気づいていないんだろうな。

「私も、見たいな。色々な祐巳ちゃん。百面相所じゃない数の、沢山の…私しか知らない祐巳ちゃん」
「…聖さまも、私しか知らない聖さまを見せて下さい」

ホント、参った。
いつの間にこの子はこんな表情が出来るようになったんだろう。

「…ねえ祐巳ちゃん」

耳元に唇を寄せると、祐巳ちゃんはくすぐったそうに身を捩った。
耳が弱いのは、知ってる。

「…ここじゃ出来ない事、今すぐしたいんだけど」
「…聖さま?」

不思議そうな表情の中に、ほんの少し、艶が見える。

「それって…ぎゃっ!?」

グイッと腕を引いて、道から逸れて木々の中に入っていく。

…またも後方から、叫び声が聞こえた…多分、気のせいではないはず。

「せ、聖さま!」
「祐巳ちゃんしか知らない私を、ひとつ増やしてあげる」
「え?聖さ…んん…っ」

私より小柄な体を木に押し当てて、唇を重ねた。

愛しくて、たまらない。

祐巳ちゃんの何気無い言葉に心乱される。
そんな自分を嫌いじゃない。

この愛しい人は、どんな私も、受け止めてくれるんだろうか。
…受け止めて、欲しい。

角度を変えて、深く口付けると荒い息が洩れる。
こんな風に濃厚に口付けるのは初めてだから、どうしていいか戸惑っているだろう祐巳ちゃんの背中に腕を回して体を支えた。

「せ、いさま…も、だめ…」

唇が少し離れた隙に祐巳ちゃんが息も絶え絶えに囁く。

「まだ、もう少し足りない」
「だっ…て…志摩、子さんたちが…」
「丁度死角になってて見えないよ」
「でも…っん…」

深く重ねられる唇にそれ以上は言わせない。

見られるなら、それでもいい。
そんな乱暴な考えが私を支配している。

もし見えたとしても、まさかこんなコトしてる所には割って入って来られるような神経を、リリアンの生徒は持ち合わせていないだろう。

祐巳ちゃんの体から、力が抜けていく。

しまった、限界かな。
これ以上はちょっとマズイ。
私だって、こんなキスをするのは初めてだから止まらなくなるといけない。

「…祐巳ちゃん…?」

唇を離して、そっと囁く。

「…聖、さまの…莫迦…」
「うん…ごめん」
「でも…」
「ん?」
「こんな聖さま…私しか、知らないんですよ…ね」

上目遣いに云う祐巳ちゃんに、私は破顔する。

「もちろん。こんな私、自分でも知らなかった」

そして、こんな自分は嫌いじゃない。

祐巳ちゃんの前でだけ見せる私。

包み隠さない、私。

「私に、だけですよ…こんなの」

胸にもたれてくる祐巳ちゃんの背中に腕を回して「もちろん」と囁いた。


木々の合間にマリア像が見えた。

「祐巳ちゃん」
「…なんですか?」
「マリア様に見られた」

祐巳ちゃんは私に体を預けたまま、首だけで振り返る。

「ホントですね」
「…嫌じゃない?」

何故こんな事を聞くのか解らない。
多分、今だにあの時、栞に拒まれた事が心に刺さっているのかもしれない。

「…今更ですよ…もう…。だって…初めて聖さまにキスされたの、裏門の前ですし…その時に、もうばっちり見られてますもん」

はぁ、とゆっくりと息を吐く。
溜息とは違う、柔らかな吐息。

「そっか…そうだった」
「忘れないで下さい。私、初めてだったんですから」
「え?初めて?私の卒業の時にチューしてくれたじゃない」
「あ、あれは頬でしたっ」



何故だろう。
マリア像を見るといつも感じていた重みが無い。

代わりに心に暖かいもの。
そして腕の中に暖かい、いとおしい人。


「祐巳ちゃん、明日はパジャマ忘れない様にね」
「いいんです。忘れても聖さまが貸してくれるんですから」

バス停まで、手を繋いで歩きながら、マリア様の心の様に晴れ渡った空と、自分の心を見上げた。



後書き

執筆日:20040710

どうなんでしょう。
甘いですか?
私的には結構辛口なんですけど。
しかし聖さまと祐巳ちゃんの動向を後方から見ていて何かあるたびに叫び声をあげていたのは誰でしょうかね。


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