泣けない気持
(蓉子)



自分の気持に、気付いたのは、あの時。

誰とも交わろうとしなかった貴方が、今まで見せた事もない顔で、私の妹の同級生の名をその唇に乗せた。
あまり近寄ろうとしなかった、薔薇の館に来てまで、私にそれを聞いた貴方を見た、あの時。

そんな貴方を見て、それで私は気付いた。
私の想いに。


貴方は、誰にも興味を示さなかった。
だから。
だから、疎まれようと、貴方の側にさえいられたら、それでいい。
生憎、私も貴方も薔薇さまの妹だから。

そう思っていた。

でも。

貴方は彼女を見つけ、傾倒していった。


そして私は間違いに気付いた。

『誰もこの人の内には入る事は出来ない』と、ずっと、そうタカを括っていた事に。

それが間違いだったという事に。


そんな私の思いを知ってか知らずか、私に云ったのか独り言だったのか、今でも解らないけれど。

お姉さまが呟いた、その言葉が、今も忘れられない。

「…紅は、白に心惹かれるものなのかしらね」

…という呟きを…。





「あっれー、蓉子だー」

駅ビルのショッピングモールにいた私を見るなり、指を差して云う聖に私は思い切り顔をしかめた。

数か月振りに逢う友を指差すとは何事?

「人を指差すのはやめなさい。…顔を合わすのは久しぶりね、聖」
「ホントホント。蓉子、時間ある?お茶でも飲もうよ」

切り揃えられた髪を風になびかせて云う聖に、断る理由も無い私は「いいわね」と即答した。




喫茶店に入り、他愛無い近況交換を済ませると、丁度ウェイトレスがコーヒーと紅茶を運んできた。

相変わらず、ブラック派の聖は早速カップを手にする。
それを見ながら、何気なく「祥子や祐巳ちゃんたちはどう?元気?」と聞いた。

高等部と大学部とはいえ、同じリリアンの敷地内。
聖の事だからちょこちょことちょっかいを出しているに違いない。
そう思って軽い気持で聞いた事だった。

「ああ、うん、元気だよ。相変わらずだし」

聖も、コーヒーを飲みながら、軽い調子で答えた。

けれど。

その軽い調子と表情に、僅かな、本当に僅かな変化があったのを、私は見逃さなかった。

否、見逃せなかった。

いつもなら気にならない様な、カップをソーサに置くカチャリという音にまで敏感になった。

ほんの僅かな、動揺。

今、私は何と云った?
聖が変化を見せる様な『何』が、今の言葉にあったのだろう。

「最近祥子に電話とかしてないの?薄情なお姉さまだねぇ」
「…薄情とかって、貴方には云われたくない科白だわね…」

自分だって妹とはある一定の距離を保っていたくせに。
まぁ、その距離がお互いに一番良い距離だって事は私にも解っていたけれど。

でも、今の聖の言葉で引っ掛かりが限定出来た。

「だけど、聖。あの子たちと何かあった?」
「何も無いよ。なんで?」
「それじゃ何故『祐巳ちゃん』って言葉に反応したのかしら」

その言葉に、聖が止まる。

けれど直ぐに苦笑混じりの、けれど瞳にほんの少しの『色』を宿した表情で「祐巳ちゃん?何で?」と返してきた。

……その一言が決定打。

聖がコーヒーを飲みながら、まるでルイス・キャロルの書くチェシャ猫の様に笑う。

『今はまだ、何も云ってくれるな』

まるでそう云っているかの様に。


栞さんや志摩子とは違う。
あの時の様な焦燥みたいなものは感じない。

今の聖は、穏やかだ。
けれど、穏やかな中にひそむ熱を感じた。

静かな湖面に、小さな小鳥の羽を落としたかの様な波紋。
小さな波紋は徐々に大きく広がっていく。

穏やかで、それでいて深い。
けれど、その波紋はいつ風に煽られ、激しい波に変わるかもしれない危うさを持っている。

そんな印象を聖に感じた。

私は聖から目を逸らし、軽く息を吐き出した。
溜息ではない、吐息。

「…いいえ、いいわ。所で話は変わるけど、この間偶然江利子に逢ったんだけど…」

そんな聖から、今ここで何を聞き出せと云うのか。



話を変えると、聖は明らかに緊張していた体の力を抜いた様な顔をした。
それでいて『何故何も聞かないのか?』という様な表情も見せた。

…本当に、私にどうしろと云うのだろう…

江利子と山辺さんの事を話ながら、心の何処かが酷くきしむ様な感覚に捕らわれていた。





「今度は江利子を誘って3人で逢いましょうか」
「そうだね。そういえば、私の友達が私たちのスリーショットを見たいらしいよ。祐巳ちゃんに聞いて、興味持ってるみたい。…全く、何を吹き込んでいるのやら」

苦笑の中に、優しい想いが混じっている。

初めて出逢った中等部から今まで……こんな聖を見た事があっただろうか。

溜息をつきそうになる自分をなんとか抑え込んで、伝票を手に立ち上がる。

「…ここは、私が」
「へ?なんで」

聖が不思議そうな目で私を見る。
今までこういう場面では、きっちり割り勘という形を取ってきていたから、珍しいのだろう。

「その代わり…聖、貴方車でしょ?送ってよね、家まで」



車に乗り込んでから、私は車内を流れるラジオの明るい雰囲気の中、先程の聖を思い返していた。

穏やかさの中にある、熱。

私はさっきそう思った。

それは栞さんとの結末で、覚えた穏やかさなのか。
…いいえ、志摩子と出会った去年春からの、まだどうしようもない感情を持て余す聖を、私は知っている。

それが変わったのは、いつだろう。

目に見えて落ち着いてきたのは、あの子が薔薇の館に現れてから…かもしれない。

くるくると表情を変える、私の大切な妹の『妹』になった少女。
今思えば、他の人間にはしない様なスキンシップを図っていたのもあの子にだけだったかもしれない。

最初は、自分を持て余し気味だった私の妹の反応と、あの子自身の反応を面白がってのスキンシップだった事には私も気付いていた。

それが、いつから聖の中で変化したのだろう。


ただ、解っているのは、聖の心に変化をもたらし、聖を『今の聖』にしたのは少なからず、あの子の影響だという事。

…それは、聖の心に入り込めたのは、私では無い、という事。

心に冷たいものが走る。
涙は出ない。
泣けるのなら、苦労はしない。

気がつくと、あと二つ曲がり角を曲がれば自宅にたどり着く、という所まで来ていた。

「…聖」
「何?」

ふっと視線を前方から私に向ける。

…こんな風に、貴方の目を私に向けていられたら、どれだけ良かっただろう。

「…リリアンの頃の様に、頻繁に顔を合わすなんて事は無理だし、全然目も届かないから、私には貴方の中でどんな変化が起こったのか、解らないけど。でも、話を聞く位は出来るわよ」
「…蓉子?」

…なんて、優等生な科白。
なんて『親友』の科白。

どうしたって、私には聖を失う事は出来ない。
それが、たとえどんなカタチであっても。

もしかしたら、私の妹を悲しませる事態が待ち受けているかもしれないと云うのに。
それでも、私は『親友』として聖の想いの行く末を見つめていくつもりなのだ。


あと一つ、あの角を曲がれば自宅についてしまう。

「あ、ここでいいわ。有難う」

聖は思わずブレーキを踏んで、何故?という顔を私に向けた。
そして、ドアを開き降りようとした私の手を掴んで引き留めた。

「蓉子?」


暖かい、手。
栞さんにはその両手を捧げ、志摩子には片手を預けた。

今、その手で私の手を握る。

けれどその手はもう直ぐ離れていくもの。

残酷な、その手の暖かさを感じながら、私は聖を振り返った。

「…グルグル自分の中で考えていたって、駄目な時は駄目なのよ。そういう時、話だけでも聞くて云ってるのよ」

聖の瞳が、私の言葉に揺れる。

「固有名詞ナシでも構わないわよ?」

私の手を掴む手が、少し緩んだ。

タイムリミットが来たと…この手が離れる時間が来たのだと、聖の手が私に教える。

フッと微笑んで、聖の手から自分の手を滑らせ、車を降りた。

聖が何かを云おうと唇を動かす。
けれど、一度キュッと唇を結ぶと、ニッと笑った。

「話すなら、固有名詞くらいつけるわよ」

そうだろう。
もし、聖が私に話す時が来たら、包み隠さずに話す筈だ。

これだけは、自惚れてもいいと思う。
私たちは、『親友』だから。

「あら、そう?貴方は猫みたいに秘密主義なのに?」

けれど今はまだ、それをまるで宝物を抱える様に、胸の中に仕舞っている。
…明かされない、その想い。
いつか解放される時が来るのだろうか。

「なにそれ」

それこそ不思議そうな目をする聖に「言葉通りよ」と笑う。

「それに…本当に重大な事が起きたら、子狸さんの顔を見れば一目瞭然でしょ」

あの子は、言葉に出すより先に表情の出る子なんだから。

もし、聖に何かを云われ動揺していれば、私の顔を見た途端に困った様な顔を見せるだろう。

…でも、もし…あの子も聖を想っているかもしれない、としたら。
聖の想いを知った時、あの子はどんな顔をするのだろう…

唐突に浮かんだ考えに捕らわれながら車のドアを閉めた。

じゃあね、と聖に手を振りながら車に背を向ける。

角を曲がり、自宅のドアに手をかけた時、車の走り去る音が聴こえた。

胸に、微かな痛みが甦る。
それを目を閉じてやり過ごした。

それは、どうにもならない痛みだから。





部屋に入り、着替えもせずにベッドに身を投げ、窓から見える空を見上げた。

夕暮れの赤い空。

それを見ながら、ずっと抑えていた溜息を吐き出す。

どうなるのだろう。


また聖は、傷つくのだろうか。
気持を伝える事なく、ただ見守るのだろうか。

けれど。
もし、あの子が聖の気持に気付いたら、どうなるのだろう。

…何故だろう、あの子が聖の気持を拒絶する絵が浮かばなかった。



そう思った今、何故かお姉さまの言葉を思い出した。

「…紅は、白に心惹かれるものなのかしらね」という言葉。

そして、その続きの言葉。

「でもね…白は、白いものに心惹かれるの」



私は、聖に惹かれた。
祥子は、志摩子を妹にと望んだ。

あの子は、どうなのだろう。


あの、なにものにも染まらない、くるくると表情を変える、あの子。


そこまで考えて、私はハッとした。
思わず、ベッドから飛び起きてしまうほど。


聖は、白いものに心惹かれた。

栞さんの中の白いものに。
志摩子は、聖の妹になった。

そして今、あの子に心惹かれている。


…ああ、そうか。

あの子は、まっさらだった。

あの子はなにものにも染まっていない。
まっさらなあの子に聖は心惹かれたのだ。

あの子は、紅でありながらも、白い。




私は窓の外の赤い空を見上げる。

そこに、白く光る一番星を見つけた。

その光は、何故か目に眩しくて私は目を細めた。


その小さな光を、ただ見つめる。
泣けない、と思っていた私の目から、知らずに涙が一筋、こぼれ落ちていた。



fin??


後書き

最終執筆日:20040605
追加修正日:20040607

「泣きたくなるほど」蓉子さまver.です。
聖さまのとほぼ同時に考えていたのですが、今回書き出すにあたって新たに再構築したら、こちらの方が長くなりました(笑)
科白は殆ど同じです。
なんか、夢見てるわ…とか思いながら書きましたよ。
これからこの人たち、どうなるんだろう…なんて不安になってきました…



「泣きたくなるほど」



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