名前を呼んで・2
階段を登ってくる音が聞こえた。
ああ、祐麒が帰って来たんだな、と聖さまの膝に頭を乗せたままでぼんやりと思う。
部屋の前を、二人分の足音。
そしてトントン、というドアをノックする音に祐巳は慌てて起きようとしたけれど、聖さまが祐巳の肩に手を置いていて…そのままの体勢で祐麒がドアを開いてしまった。
「や。おかえり祐麒」
聖さまが何も無かった様にドアを開けた祐麒に云う。
「佐藤さんいらっしゃい。…と、アレ?祐巳は?」
「勉強疲れだね。眠ってる」
ちょ、ちょっと聖さま…起き上がらせてくれなかったのは聖さまじゃないですか。
「うわ…すいません佐藤さん」
「今晩和ーお邪魔してますー」
「ああコラ。ほら、行くぞ小林。じゃあ佐藤さん」
「うん、じゃあね」
小林君を押し退ける様に祐麒が云って、ドアがパタリと閉まった。
…聖さまの体が、一瞬強張ったのを、祐巳は感じた。
†
聖さまはきっと木彫りの熊を買いに行ったに違いない。
もちろん、ご自分の物ではなく、江利子さまへのおみやげにするおつもりなんだろう…
だけど…どうして『木彫りの熊』にこだわっているのか、祐巳には不明。
全く、謎な思考の持ち主なんだから。
ベンチに腰を下ろしてソフトクリームを舐めながら周囲を見回す。
やっぱり夏休み中の観光地。
人が多い。
カップルや、友人同士、ご夫婦やご家族。
色々な組み合わせの人たちが此処にいる。
…祐巳と聖さまは、どんな風に目に映っているのかな。
なんて、思わず考えてしまう。
…絶対、恋人同士には、見えないだろう。
そんな事を考えて、何故か、ほんのちょっぴり…寂しくなる。
早く戻ってきてくれないかな…
まだ5分も経っていないのに、そんな事を考えてしまう。
聖さまが向かったお店の方を見て溜息をついていると、目の前に誰かが立った。
「?」
一体誰?と見上げると…それはよく見知った顔で、祐巳は本当に驚いてしまった。
「あ、やっぱり祐巳ちゃん」
「こ、小林君!」
祐麒の友人の、小林君も驚いた様な顔で立っていた。
しかし、いつの間にか『祐巳ちゃん』が定着しちゃったなぁ…
確か去年の学園祭準備で頻繁に顔を合わすようになる前は『お姉さん』とか『祐巳さん』だったはずなのに。
「ど、どうしてここに?」
「それはこっちの科白なんだけど。家族旅行…じゃないだろうし…」
「そういう小林君は?祐麒も一緒?」
「気ままな一人旅…っていうか、親戚の家がこっちにあって。それにユキチは…」
何故か小林君はあさっての方を見ながら言葉を濁した。
祐麒はどうしたんだろう。
「小林君?祐麒は何処に?」
「あ、いえ、一緒に遊ぶ予定はあったんだけど、俺がこっち来ちゃったんで…」
おかしい。
何か引っ掛かる。
でもその引っ掛かりがなんなのかよく解らない。
「で、祐巳ちゃんは?いつからここに?」
「あ…えっと、昨日から、かな」
「お姉さまの祥子さまと?」
「え?ううん、違うけど」
祥子さまはきっと今年も別荘に行かれているだろうと思う。
だって、祥子さまの大切な場所だから。
去年の夏、祐巳も連れて行って戴いた。
結構波乱だった一週間の滞在の中で、そういえば小林君にも逢ったっけ…なんて考える。
まぁ祐麒に連れ出されて逢ったんだけど。
「じゃあ妹さんと?」
「ううん」
…そうだよね…
志摩子さんと乃梨子ちゃんみたいに、姉妹で出掛けるって事も大切かも。
だって、去年の夏休みには祥子さまとお出掛けしたい祐巳がいたんだから。
あの子は意地っ張りだから、『別に祐巳さまとお出掛けなんて』なんて云うかもしれないけど。
…って、実際そう云われちゃったんだけど。
でも、家族旅行から帰った時期を見計らって、おみやげを渡しに行った時に一緒にお出掛けを提案してみようかな…なんて考える。
「ふむ。一体誰と来たんだろうなぁ…」
どうしてそんなに祐巳が誰と来たのか気にしているんだろう、小林君は。
首を傾げている祐巳の目の端に、聖さまの姿が見えた。
聖さまの表情が、ちょっとおかしい。
もしかして、小林君がいるからかな?
ナンパされてる様にでも見えるのかも。
もしそうだったら、それは小林君に悪いなぁ…
そう思って、祐巳は「聖さま!」と手を振る。
へ?と小林君が聖さまを振り返る。
「祐巳ちゃん、お知り合い?」
祐巳に呼ばれて、小走りにやってきた聖さまはよそ行きの笑顔を見せる。
「ええ、祐麒の友達の小林正念君です。小林君、この方は…」
「えっと…確か…前々年の白薔薇さま…だった方ですね?という事は、志摩子さんのお姉さまですね」
へ?と祐巳は小林君を見た。
なんで知ってるの?
「花寺の学園祭でお見掛けしました」
小林君はにっこりと笑う。
ああ、成程…と祐巳は合点がいったという様に手を打った。
薔薇さまは花寺の学園祭にお手伝いに行くから。
「…しかし意外な組み合わせでちょっと驚いたな…紅薔薇さまと前の白薔薇さま」
「ああ…祐巳ちゃんとは仲良しだから」
聖さまが微笑む。
…でも、なんでだろう、いつもの聖さまとは、何かが違っている気がした。
温度差、というのか…なんて云ったらいいのか、祐巳にはうまく云えないけれど…
それから直ぐに「それじゃあ」と小林君は去って行った。
何となく、今度逢った時に質問されそうだな、なんて。
…でも、そんなに意外な組み合わせなんだろうか…
姉妹じゃなきゃ、違和感があるのかな…
「祐巳ちゃん」
俯いてしまっていた祐巳に、聖さまが声を掛けてくる。
「また、溶けちゃうよ」
「え?あ…」
祐巳の手に握られているメロンソフトがいつの間にか溶け始めていた。
慌てて口に運ぶ祐巳に聖さまが微笑む。
「あれ?処で聖さま、お買い物は…」
「ああ、宅急便で送ってもらう事にした。あんな大きいもの持って歩くのは厭だしね」
「…どれだけ大きなのを買ったんですか…?」
聖さまが、「さぁ?」と笑う。
…祐巳は近々お宅に届くだろう木彫りの熊を見た江利子さまの反応が気になった。
それから、ロープウェイで山頂まで行ったり、食事をしたり…と過ごした。
でも…聖さまはいつも通りの様な感じでありながら、何処となく違っている様な感じがして。
一体どうしたんだろう…と気に掛かってしまう。
もしかして、祐巳の気持が伝染しちゃったんだろうか。
小林君の言葉に、少しだけ首をもたげた気持。
『姉妹』
祐巳だって、お姉さまも妹も大切に思っている。
大好きだって思う。
それは聖さまだって同じだろう。
でも…その大切な気持とは、別の処で祐巳は聖さまが大切で、大事で、愛しい。
聖さまを思うと、祐巳の心は温かくなる。
そして切なくなる。
どうしようもない位、祐巳は聖さまが好きだから…
聖さまの手が、祐巳の手を握り締めた。
俯き加減の顔を上げると、聖さまが祐巳を見つめていた。
その表情に、ほんの少しの翳り。
多分、他の人には解らないだろう。
でも、祐巳には解る。
やっぱり、聖さまはいつもと違う。
「もう一箇所、行こうかと思っていた処があったんだけど…でも、今日はこれで帰ろうか」
祐巳は聖さまの提案にコクリと頷く。
沢山の観光客の中じゃなく、聖さまと二人きりになりたかった。
おかえりなさいませ、とフロントのお姉さんが部屋の鍵を手渡してくれる。
それに「どうも」と聖さまは微笑んで受取ると、扉を開いて人を待っているエレベーターのひとつに乗り込んで、最上階のボタンを押す。
微かな振動と共にエレベーターは上昇して、あっという間に聖さまが押した階に到着する。
部屋に着くまで、聖さまも祐巳も何も云わない。
でも、部屋に入った途端、聖さまが祐巳を抱きしめた。
「せ…い…さま」
ギュッと抱きしめられて、少し息が苦しい。
でも、祐巳は聖さまの背中に腕を回す。
不安、とか、そんなんじゃない。
ただ、なんとなく。
そう、なんとなく、不安定になってしまっているんだと思う。
だから、今はただ聖さまの胸に抱きしめられていたい。
でも…聖さまは…?
祐巳の気持が伝染ってしまった?
それとも…
そこで、祐巳はふと、何かが過ぎった気がした。
もしかして…
もしかして…?
「聖さま…?」
少し、顔を上げて「どうかしたんですか?」と聖さまの目を見る。
すると、聖さまはフッと目を逸らしてしまった。
そんな聖さまに、祐巳は眉を顰めてしまう。
目を、逸らされた事に。
「…小林君、ですか?」
聖さまの体がぴくん、と揺れた。
…to be continued
執筆日:20050201
すいません…思いの他長く…(汗)
小林君、ゲストです。
彼は祥子さまの家の別荘地で登場してましたよね。
しかし、祐麒は一体どうしているんでしょうか…(苦笑)