名前を呼んで・3



…思わず、反応してしまう自分に苦く笑いそうになってしまった。
でもそんな事をすれば、この私の大切な少女の弟くんは怪訝に思うだろう。
この姉弟は揃って人の気持ちに敏感だから。

でも、どうしようもないな、と思う。
この少年に罪は無い。
ただ夏の旅先でほんの少し言葉を交わしただけで、あの後の私達の感情のぶつけ合いなんて、知りもしないんだから。











「…小林君、ですか?」

そう云った祐巳ちゃんの声に、私は過剰な程に反応した自分自身に舌打ちしたい気持で一杯になった。










…思わず、息を飲んだ。

江利子へのおみやげを購入し、宅急便の手配をして店の外に出て祐巳ちゃんの所に戻ろうとして、私は足を止めた。

…祐巳ちゃんが、笑んでいる。
祐巳ちゃんの前に立つ、男に。

初めはナンパかと思って駆け出しかけた。
けれど、祐巳ちゃんの態度が迷惑そうとか困惑とかではない事に気付いて、踏み出す事が出来なくなった。
親しげに、微笑んでいる。
誰も知っている人間がいないはずの、この地で。
私じゃない、人間に。

その内に祐巳ちゃんが私に気付いて「聖さま!」と手を振ってきた。
その声で地面に貼りついていた足が動き出した。
まるで呪縛が解けたかのように私は祐巳ちゃんへと小走りに近付いた。

その少年は祐麒の友達なのだそうだ。
それなら親しげに話もするだろう。
しかも私の事も志摩子の事も知っている様で。
多分『ああ、なんだ』というような、他愛のない事。
なのに、私の心は囚われてしまった。

夏の太陽の下。
笑顔でソフトクリームを手にベンチに座る女の子と、その傍に立つ少年。
微笑ましい光景。

…その女の子が、祐巳ちゃんでなければ。

理屈では解っている。
自分の弟の友人だ。
しかも花寺もリリアンと同様の一貫教育、もしかすると小、中等部の頃から知っていたりするのかもしれない。
それなら、この思わぬ場所で出会えば声だって掛ける。
笑いながら話だってする。
解っている。
自分だって知り合いに会えば声を掛けるかもしれない。
笑って話をするかもしれない。

…解っている。
解っているのに、乱れる気持ちはどうにもならなくて。
…理屈じゃ、ない。
頭をもたげる、どうしようもない感情。

少年が去り、予定していたルートを回っていても、気持ちは晴れる事はない。
こんなにいい天気だというのに。
ふと隣に立つ少女に目を向けると、ほんの少し俯き加減。
…何を考えているんだろう。
そんな姿に更に波立つ気持ち。
公衆の面前でも構わず、私は祐巳ちゃんの手を握った。

『私を見て』

お願いだから、他の事に気持ちを向けないで。

急に握られた手に驚いた様に、祐巳ちゃんが顔をあげた。
真っ直ぐに、私の目を見る祐巳ちゃんに、ホテルに戻る事を提案した。
本当はもう一箇所、祐巳ちゃんと行きたい所があった。
でもこんな気持ちでは…行けない。

そんな私の気持ちを知ってか知らずか、祐巳ちゃんは私の手を握り返して、コクンと頷いた。


余裕のない自分が滑稽だった。
これじゃ、この間の連休の時のようだ。
いや、『ようだ』なんてものじゃなく、実際はあの時の気持ちをずっと引きずっていたのかもしれない。
どうしようもない気持ち。
理屈じゃない、感情。

私は『依存』しているのか。
またあの十六歳の時を繰り返しているのか。
あの二の舞はごめんだと思っているのに。
狭くなっている視野。
狭くなっている感情。
時が経つにつれて、余裕は無くなっていく。

キリキリと糸が張っていくような気分で、私は車をホテルへと走らせる。
東京と違って広い道幅。
いつもの数倍、走りやすい。
なのに私の気持ちは妙に焦って、ほんの十数分のホテルまでの距離が、来る時の数倍にも感じられていた。




ホテルのフロントに車の鍵を返し、まるで交換するかの様に部屋の鍵を受け取ると、エレベーターに乗り込む。
自分たち以外誰も乗っていないエレベーターの箱の中、そっと、祐巳ちゃんの手を握る。
部屋のある階に上昇している間、いつ切れてもおかしくないほど張り詰めた感情の糸が張っていく音を聞いていた。
キリキリ、キリキリ、と糸は音を立てている。

軽い振動と共にエレベーターの扉が開き、私はまるで息苦しさから逃れる様にそこから出て部屋へと歩き出す。
もちろん、祐巳ちゃんの手を握りしめたまま。
部屋のドアに鍵を差し入れ、中に入ると同時に、プツリと糸が切れる音が私の中に響いた。

「せ…い…さま」

祐巳ちゃんの声を耳元で聞くのと同時に、部屋のドアが静かにパタン、という音を立てて締まった。
そして、祐巳ちゃんの腕が背中に回るのを感じて、少し…ほんの少し、強張っていた心が呼吸出来たような気持になった。

その時。

祐巳ちゃんが、呟いた。

「…小林君、ですか?」と。







何故、祐巳ちゃんにそんな事を云われるのか。
そんなに私は嫉妬を露わにしていたのか。


…嫉妬?
嫉妬、だって?


急に私は笑い出したい気持になった。
この気持ちの乱れは、余裕の無さは、苛立ちは、嫉妬心からという事か。

…浅ましい。

醜い嫉妬に駆られて、こんなにも余裕無く、祐巳ちゃんを自分に引き寄せようとしたのか。

私は抱きしめていた祐巳ちゃんから体を離して、背中を向けた。
こんな私に、祐巳ちゃんに触れる資格なんか無い。
そして、今の私を祐巳ちゃんに見ていてほしくなかった。

完全に、私は『あの頃』を繰り返している。
あの、栞を誰の目にも触れさせない様に隠してしまいたいと思っていた、あの頃を繰り返している。
『自分の目の前にだけ存在していて欲しい、誰にも触れさせない、誰にも』
そんな風に思っていた、あの頃を、凝りもせずに。

二の舞を踏みたくない、そう思いながらもやっている事は然程変わっていないのかもしれない。

『私は変わった』
『あの頃とは違う』

ずっとそう思っていたけれど、根本的な部分はあの頃のまま。
また同じ過ちを繰り返すつもりなのかもしれない。
祐巳ちゃんと肌を合わせた事で、独占欲も働いている。
所有物なんかじゃ、ないのに。



その時、グイッと腕を引かれた。
そちらを見ると、祐巳ちゃんが私を睨むように見詰めていた。

「…聖さま…どうして私から目を逸らすんですか」

声が震えている。

「祐巳ちゃん」
「どうして、聞きたい事があるなら、私に聞かないんですか…?」

私は祐巳ちゃんから目を逸らす。
こんな真っ直ぐに見詰められる資格なんか無い。

「…こんなの、私の自分勝手な醜い感情だから」

自嘲気味に笑う。
その時。

パンッ!

頬に、衝撃。
そして、その頬がじんわりと熱くなっていく。

「…え?」

一瞬、何が起きたのか解らなかった。

「聖さまの莫迦!」

目にいっぱいの涙を溜めて、そう叫ぶとバスルームへと走っていく。

「ゆ、祐巳ちゃん」

勢いよく、バスルームのドアが閉まった。
中から「うわぁぁぁっ!」と泣き声が聞こえてくる。

「祐巳ちゃん!?」

ドアを開こうとしたけれど、内側からしっかりと鍵が掛けられている。
ドン、とドアを叩く。

「ちょっと、祐巳ちゃん!」
「聖さまは、どうして私から目を逸らしてしまうんですか!」

ドアの直ぐ傍から、声が聞こえる。
祐巳ちゃんがドアに向かって叫んでいる。

「聖さまはどうして私を見てくれないんですか!自分の事は見てくれって、云うクセに!なのに何故私を見てくれずに、ご自分の中の『私』ばかり見るんですか!そんなのは私じゃない!私じゃないのに!」

バッサリと、切りつけられた。
私は、祐巳ちゃんを見ていない…?

「聞きたい事があるなら、聞けばいいのに…云いたい事があるなら、云えばいいのに!全て自分の中に押し込んで、私を忘れてしまって!どうして一緒にいるんですか!私は何故聖さまと一緒にいるんですか!」
「祐巳ちゃん…」

私は、バスルームのドアに寄り掛かって自分の体を抱きしめた。

「どうして…私を見てくれないんですか…」

ドア越しの背中に、嗚咽が聞こえてくる。

「祐巳ちゃん…」

そう…いつでも祐巳ちゃんは「自分を見て」と云っていた気がする。
連休の時、あの時も泣きながら訴えてきた。
「私を見ていない」、と…
「私を見て」、と…
そう祐巳ちゃんは何度も私に訴えてきた。

そんな…
私は、『祐巳ちゃん』を見ていなかったのか…?
祐巳ちゃんだけを見ていると思ったのに、それは違ったのか…?
私が見ていたのは、私の中に作り上げた『祐巳ちゃん』だったのか…?

そんな莫迦な。

でも、祐巳ちゃんが云っていた「聞きたい事があるなら聞けばいい」というのは…もっともな事だ。
「云いたい事があるなら云えばいい」…それももっともだ。


祐麒の友達と何をそんなに楽しげに話していたの?
私は嫉妬してしまった。
お願い、そんな無防備な笑顔、誰にも見せないで。
独占欲だって事、解ってる。

ねぇ、何を考えていたの?
時々俯いていたけれど。
何か、気になる事でも云われたの?


…これを、云っていれば、良かったの?


私は、臆病になっている。
二の舞を踏むまいと。
同じ事を繰り返すまいと。
でも、結果的にはそれが逆に私に足踏みさせて踏み出せずにいた。
せっかく踏み出した一歩なのに。
そこから先に進めなくなって。

むくむくと、怒りが込み上げてきた。
自分に対する、怒り。
そして、祐巳ちゃんを泣かせてしまった切なさ。
心臓が痛い位に打っていて息苦しい。

「…祐巳ちゃん、開けて」
「厭です…言い訳なんか、聞きたくないです…」
「言い訳なんかじゃなく、話がしたい」
「嘘」
「嘘じゃない」
「信じない」
「信じてよ」
「厭です」

頑なな声。
それをさせているのは私自身。

なら、私がこのドアを蹴破ってでも、進むしかない。

「開けるよ」
「鍵掛けてますから」
「開けると云ったら、開ける」

私はしゃがみ込んで、ドアノブを回した。


カチリ


バスルームのドアを開くと、バスタブに腰を下ろしている祐巳ちゃんが顔を上げた。
涙に濡れた顔。

「聞きたい事があるなら聞けばいい、云いたい事があるなら云えばいい…そう云ったよね」
「…ど、どうして…」

私を見て、祐巳ちゃんが信じられないものを見るような顔をする。

「…バスルームのドアの鍵ってね、もし万が一の事が起きた時の為に、とある事をすると鍵が開けられるようになっているの…今は、その緊急事態だからね」
「…っ!」

私は祐巳ちゃんを抱えるように抱きしめた。

「…やっ…!」

私の腕の中で、祐巳ちゃんが暴れる。
絶対、流されるもんか、とでも云う様に。
グッと腕に力を込めて、私の腕から逃れると、ドアから飛び出して行こうとする。
私は寸ででドアを閉める。

逃がさない。
絶対。


…to be continued

執筆日:20050202

お、終わらない…(泣)



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